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嘘と革命  作者: 海猫鴎
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8.優しい子守唄を聞いた夜

 仕事と訓練とで疲れ切った体を引きずりながら、なんとかヨナは家にたどりついた。意識が何だか遠く、ひとまずソファに腰かける。少しだけ休んでから、夕飯を作って食べて、身体を拭いて、そして自室で就寝、と頭の中で予定をたてる。


 身体が鉛のように重く、なんとなく横になる。瞬間、身体がソファに沈み込んでいく感覚がした。自室の寝台までの距離があまりにも遠く、結局諦めて居間のソファで妥協した自分は意志が弱いのかもしれない。空腹と眠気と、そして圧倒的な倦怠感が全身を包む。


 ジュリが来ないからか、最近は本当に体力の限界まで訓練をしてしまう。あまりよくないとは分かっているのだが、剣を振っている間は余計なことを考えなくて済む。それが心地よくてついつい気絶寸前まで剣をふるっている。


 外の裏路地から、明るい楽しげな声がした。軽く酔っぱらった男たちが、馬鹿みたいに笑っている。部屋に一人、ソファの上でぐったりとのびている自分の現状を思い出し、なんだかふと、寂しさを覚えた。くるる……と腹の虫の声が響いた。


 食事は近所の食堂ででもとってくれば良かったかもしれない。今更そんなことを思う。作るのは億劫だし、朝になにか詰め込んで家を出ることにして、少しだけ、眠ることした。


「ただいまぁー、…………って、なにやってんの!? ヨナ、どうしたの、体調悪いの?」


 ジュリの声がする。けれど、彼女が帰ってくるのはもう何日か先のはずだ。夢かもしれないと思いつつ、重いまぶたをなんとか押し上げる。


 目の前にジュリの顔があった。

 予想以上に近くて、まつげが長いことや、こげ茶色の目が丸くて綺麗なことや、唇が赤くてふっくらしていることなど、彼女の顔が微に入り細にいり観察できてしまう。ソファの横にしゃがみこみ、俯きながらそこはかとなく上目遣いで心配そうな表情を浮かべている。ジュリの明るい栗色の髪が垂れて、ヨナの手にかかっていた。さらさらしていそうな触り心地が手の甲にうっすらと感じられる。なんだか柔らかな甘い匂いが鼻腔をくすぐった。


 必死で平静を装ったが、顔が赤くなるのは隠しきれなかったらしい。ジュリも少しだけ頬を染め、身を引いた。

 こほんと咳払いをして、もう一度訊いてくる。


「え、っと。体調、悪い?」


 安心と名残惜しさとでいっぱいになりつつも、なんとか返事をする。口から出たのは、いつもよりも低くてしわがれた声だった。


「……あー、うん、死んではいないから大丈夫。」


「そんなの知ってるよ。風邪でもひいたの?」


「ん、ちょっと疲れた。」


 問題ないことを示そうと起き上がると、酷使しすぎた体中の筋肉やら関節やらが途端に悲鳴を上げる。思わず、顔をしかめた。そのせいで余計にジュリを心配させてしまったらしい。彼女の表情がさらに真剣になる。そっと支えるように肩に触れられた。それすら筋肉痛に響いたが、一瞬歯を食いしばりなんとか表にはその痛みは出さなかった。彼女の手は小さくてやわらかくて、少しだけ冷たい。筋肉痛こそ痛いが、ずっとそうしていてほしかったくらいだ。


「どっか痛い? 怪我しでもたの?」


「いや、平気だけど……。」


 どう話そうか考えながら、言葉を濁していると、ジュリはヨナの肩から手を離し、額にあてた。そして、深刻な顔をする。


「熱あるよ。顔色すごく悪いし。その声聞くと、たぶん喉も痛いでしょ?」


 確かにジュリの手は冷たかった。それは逆で、ヨナの体温が高かったのだろう。


 ふと、窓の外を見ると、真っ暗だった。帰ってきた頃はまだ近所の家の灯りのほとんどがついていたが、今はもう寝静まっている。少しのつもりが結構寝入ってしまったらしい。


 ジュリは立ち上がり、台所へ向かう。


「理由とか聞きたいけど……話したくないならいいよ、訊かない。だけど、こんなところじゃなくてちゃんと部屋で寝なよ。どうせ夕飯も食べてないでしょ。何か作ろっか?」


 大人しく彼女に従って部屋に向かおうとした。ただ立ち上がることすら億劫で、正直階段なんて登れる気がしない。全身がけだるく、熱があることが分かるとさっき以上の倦怠感がする。ジュリが台所に立ってぱたぱたと料理している間、ずっとソファに横たわっていたのは別に逆らおうという意思の表れではない。それはジュリには言わなくても分かったらしく、特に何も言わずに温かいスープを持ってきた。


「そんなに辛いの? お医者様呼ぼうか?」


「いや、いいよ。一応怪我は魔法で多少治してもらったし。本当に疲れてるだけだから。」


「そう? それならいいけど……。」


 そうは言ったものの、やはり熱があるのが心配なのだろう。ジュリは気遣わしげな様子だ。落ち着きなく姿勢を変えている。


 ジュリからスープの入った皿を受け取り、口に含む。薄い味で刺激が少なくて飲みやすい。なんだかほっとするような味をしていた。こくりこくりと、スープを飲むヨナを、ジュリは沈んだ表情で見守っている。


 やがて、ヨナがほとんどスープを飲み干した頃、ジュリは言いにくそうに口を開いた。


「どっちでこんなに働いたの? 仕事の方? 革命軍の方?」


 やや踏み込んだ質問に答えるか否か悩まなかったわけではない。けれど、ほとんど間は開かなかった。もう少し前ならだんまりを決め込んだかもしれない。それはヨナ自身の気持ちの変化からなのか、ジュリとの距離感の変化からなのかは、ヨナには分からない。


「ん、や、革命軍の方、かな。」


 ヨナが答えたことに、少し意外そうな顔をしつつ、ジュリはさらに質問を重ねた。


「ヨナってさ。本当に偉くないの? 剣得意なんじゃなかったっけ? 強い人って、偉いんじゃないの? 偉いから、こんなになるまで働かなきゃいけないくらい、仕事がいっぱいあったとかじゃないの?」


 一気に踏み込んだ質問に、ヨナは面食らう。最近、距離感が揺らいでいる気がする。近づこうとしているのか、遠ざかろうとしているのかは分からない。突然こうして今まであえて遠ざけていた話が出たりする。


 それでも、そんな質問にすら、どう答えるか考える以上の時間があくことはなかった。


「んー、前も言ったけど、偉いってことはない。剣は程々かな。その辺の人には負けないつもりだけど、まだまだ上には上がいるし。目指すところは遙か遠く雲の上で、見えないくらいだ。」


「じゃあ、どうしてそんなになるまで働いたの?」


「いや、仕事ってわけじゃないよ。単に稽古つけてもらい過ぎただけ。なんか、自分より強い人との組み手だと、ついやり過ぎちゃうんだよね、俺。」


「あー、一つのことにどこまでも貪欲になる人っているよね。私は途中で嫌気がさして放棄しちゃう人だから、そういう意欲はすごいと思うな。」


「強くないと殺されるってのと、俺を育ててくれた傭兵団の団長に憧れてるから。あの人をいつか超えたいんだよ。」


「ヨナは頑張り屋さんだねー。でも、頑張りすぎたらダメだよ。」


 ジュリがようやく笑顔を浮かべた。ヨナはほっとして、微笑み返す。やっぱり、不安そうな顔よりも笑っている方がいい。もちろん、彼女を不安にさせた責任がヨナにあることは自覚しているし、反省もしているが。


「そういえばさ、ジュリが帰ってくるのもう少し先じゃなかったっけ?」


 これは彼女が来てすぐ不思議に思ったことだ。実際、ジュリは二週間来ないと思っていたからこそ、こんな醜態をさらしていたのだ。彼女が来るかもしれなかった今までは、ここまで無茶な訓練をしたことはない。さすがにヨナにだって見栄や意地はある。

 純粋な疑問だったのだが、それはジュリの琴線に触れたらしい。穏やかなだったジュリの表情が明らかに不満そうになった。


「…………うん、単純に用事が予定よりも早く済んだからだよ。理由はそれだけ。早く帰ってきたら迷惑だった?」


「あ、そういう意図はなかった、ごめん、怒ってる?」


「………………まぁ、いいけど。」


 どんな用事がどう早く済んだのかは訊かない。ジュリが自分から話していないのだから、いつも通りなら十中八九、訊いても答えはしないだろう。それに、答えてもらえてしまったら、逆にヨナの方が困ってしまいそうな予感もしたから。今日のジュリは一気に踏み込んできていたから、答えないとも分からない。


「まったく、私がいない間毎日こんな無理してたわけ?」


「毎日ではないけど、結構ね。さすがに熱出たのは初めてだけど。」


 ジュリは呆れたように溜息をつく。当然の反応だ。自分の体調管理はできているつもりだけれど、精神的に不安定だったのかもしれない。ジュリがいないと、意識して気を緩める瞬間が存在しないから。

 素直にそう言うと、彼女は黙り込んでしまった。空になった皿をひったくり、簡単に洗う。その後ろ姿を見つつ、ヨナはまた怒らせたのかもしれないと気が気ではなかった。


 けれど、単に照れ隠しだったらしく、皿を片付けたジュリはむしろさっき以上に柔らかな声をしていた。


「どうする? 今日はそこで寝る? 上まで運ぶなんてこと出来ないけど、肩くらいなら貸すよ?」


 ジュリはそう申し出てくれたが、あの華奢な肩に自分の体重を預けるなんて、怖いやら申し訳ないやらで到底できそうにない。それに、熱があるせいか、若干理性が緩んでいる節もある。他の誰かならまだしも、今ジュリの肩に密着して二階の寝室に向かったら、なにもしないでいられるか、あまり自信はない。


 代わりに部屋から毛布を取っくるよう頼む。とんとんと彼女が階段を登る軽い音に、ああ、ジュリが帰ってきたのだとしみじみと思う。ふわりと毛布を掛け、ソファの隣まで引っ張ってきた椅子に座り、ジュリはヨナの額に水で濡らした布を置いた。


「なんかさ。」


「ん、なに?」


「お母さんって、こんな感じなのかな。」


 ヨナは母を知らない。物心がついたときには傭兵団に拾われていた。風邪で寝込んだとき、団長がやたらと面倒を見てくれたが、逆に鬱陶しくて追っ払った記憶がある。けれど、独り暮らしで病気になると、熱や頭痛などの症状より、心細さが辛いと気づいた。母を知らないヨナだが、幼いときは傭兵団の騒がしさにいつも包まれていて、寂しさを覚えたことはなかった。両親がいないことすら、当たり前のように受け入れられたのは、その賑やかさの中で孤独を感じることがなかったからだと今になって思う。


「なに、急に。私はまだ子供いないよー。」


「いや、なんか……、ジュリが来るまで、ここで寝ててさ。熱があるとは思ってなかったんだけど、やっぱだるくて、なんだろ、急に心細いって言うか寂しいって言うか。そんな風に、思ってさ。」


 ジュリはしばらく黙りこみ、そしてヨナの手を握った。驚いてヨナがジュリを見上げると、照れたように微笑む。


「これなら、もう心細くないでしょ?」


 ジュリが隣にいてくれるだけで、もう心細くなんてない。でも、手を繋ぐと優しい勇気が湧く。ジュリの手はヨナの手より一回り以上も小さくて、強く握ったら壊してしまいそうなくらいに華奢だ。そんな手を握ると、明日頑張るための力が出る。


 ジュリの言葉には答えず、指を絡める。彼女は嫌がることなく、軽く握り返してきた。体調不良とは違う熱にうなされそうで、そうなる前に寝てしまおうと毛布に顔を埋める。


 小さく、ジュリが子守唄を歌い始めた。歌詞が上手く聞き取れないくらいの声量で、穏やかな旋律が流れていく。優しい声だと、ヨナは思う。そして、その子守唄が終わる前に、ヨナの意識は眠りのなかに沈んでいった。



 明け方、まどろみの中でジュリの手が額に触れた気がした。小さくもう大丈夫だねという声がして、そろそろ帰らなきゃ、と言われた。自分はどんな返事をしたのだろう。よく覚えていなかった。

 ただ、ジュリの声がひどく優しく聞こえたことが印象に残っていた。




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