10.侍女の想い人
深夜、ロゼはぎしぎしと音をたてる床を淡々と歩いていた。少しだけ埃っぽくて、汗臭い空気。酒の匂いもする。雑然とした室内では豪快な男たちの笑い声が聞こえた。
酒場よりも更に粗野な雰囲気の漂うこの場所は、シロガネ家の私兵の詰め所だった。一応普段は街の治安維持をしており、自衛騎士団というのが公式な名称だが、傭兵が一時的に雇われているというのが現実であった。しかし、市民の中では悪名高いシロガネ家の私兵でありながら、自衛騎士団は市民から好意的に接されている。街の些細な問題に一切無関心な領主シロガネ家に代わり、自衛騎士団は団長を中心として市民生活の改善のため日夜働いているからだ。
「おお、姐さんがいらっしゃったぞ!」
傭兵の一人がロゼの姿を見てそう叫ぶ。野太い歓声があがり、騒々しい歓迎を受けたロゼは曖昧に笑って奥の部屋の扉を開けた。
素早く扉を閉めると、喧騒が少しだけ遠ざかった。やや散らかった部屋の中で書類と戦っていた人物に声をかける。
「ガルタ、来たわよ。」
「ああ、もう少しで片付くから待っててくれるか。」
がっしりとした体格の青年が静かな低い声が答えた。ロゼはかりかりとペンを走らせる大きな背中をぼんやりと見ていた。
彼の後ろで軽く結ばれた黒い髪が揺れる。真剣に書類の文字を追う切れ長の目も黒い。ひどく冷たい印象を与える容姿をしている上に、落ち着いた低音で淡々とした口調の彼は、冷徹な人だと誤解されがちだ。けれど、実際はとても実直で不器用、そして優しいことをロゼは知っている。剣の扱いは人一倍上手いし、事務仕事のような普通の傭兵が嫌がることも黙々とこなす人だ。
この部屋は、自衛騎士団団長室である。実際はガルタの私室兼書斎であり仕事場といったところか。机だけでなく、寝台の上にも書類や資料が散らばっていた。枕元には騎士団の制服が几帳面に畳まれている。
やがて、一段落したのだろう、彼はくるりと椅子の向きを変え、ロゼと向かい合った。
「それで、どうかしたのか?」
「仕事ばっかりして、全然休まないから、何とかしてくれって団員に呼ばれたの。休むように言い聞かせてくれって。」
ガルタには生来の生真面目な性格と、団長という肩書きから、頻繁に不眠不休で仕事をし始める悪い癖がある。今日も、目の下にくまを作り仕事をしていたようだ。
「ああ、この案件とあっちの許可証は早く何とかしないといけないんだ。だから…………。」
「いいから、休みなさいよ。」
声の疲れ具合から、ここ数日まともに睡眠をとっていないのだろうとロゼは推測する。強引にでも休ませなければ、彼は倒れるまで仕事をするだろう。ロゼは勝手に寝台の上の書類を机に移し、ガルタを手招きする。
「じゃあ、これだけ…………。」
「いいから、いらっしゃい。」
有無を言わせず、彼を呼ぶ。ガルタは若干躊躇い、しかし観念してロゼの左隣に座った。寝台がぎしりと音をたてる。
「お疲れ様。」
ガルタの鍛えぬかれた身体に抱き付き、ロゼは彼を労う。彼の左手でくしゃりと髪を撫でられ、目を細めた。
「ねぇ、ガルタ。少し働きすぎよ。最近特に。ちゃんと休みをとらないとダメ。」
「そう言われてもな。最近妙に忙しいんだ。なんだか、誰かが意図的に処理しないといけない案件を作っているみたいな感じがするくらいに、な。」
やや猫っ毛気味なロゼの茶色の髪を、ガルタは丁寧に梳く。指の間をふわふわと柔らかな感触が滑っていく。そっと右腕でロゼを抱き寄せる。一切の抵抗なく、彼女はガルタの胸に収まった。
大人しく髪を撫でられながら、ロゼは呟くように言う。
「ねぇ、ガルタ。」
「なんだ?」
「もしも、市民が革命を起こしたら、貴方はどうする?」
ふと、ガルタがロゼの髪を撫でるのをやめた。両腕でロゼを抱いて、しばらく黙り込む。
「…………なんだ、最近噂になっている革命とやらを心配しているのか?」
ロゼは答えない。静かにガルタの胸に手をあてて、目を閉じた。
「そうだな。たぶん、自衛騎士団として鎮圧するんだろうな、俺は。」
「例えどれだけ多くの市民が決起しても?」
「ああ。革命とは言っても、所詮暴動の一種だ。暴動が起きたら、俺はそれを鎮圧する義務がある。」
「例え、鎮圧なんてできないほどの勢いだったとしても?」
「どれだけの勢いでも、俺は鎮圧しないといけない。出来るか否かじゃない。なにがなんでも止めさせるんだ。」
ぎゅっとロゼはガルタにしがみつく。自然と彼もロゼを抱く力を強くした。
「あたしが逃げてと言っても? 貴方はただの金で雇われた傭兵でしかないのに?」
「実際は俺は傭兵でしかないけれど、それでも心は自衛騎士団でもあるつもりだからな。だから、ロゼ、お前がなんと言おうと俺は自分の任務を全うするよ。」
すっとロゼは顔をあげ、ガルタに口付けた。
「全部分かって、それでも治安が乱れないように、身を粉にして働く貴方に、私は惚れたのね。」
ガルタはゆっくりとロゼの身体を寝台に倒す。彼女は潤んだ瞳で彼を見ていた。
「真面目で、融通が効かなくて、すごく優しい貴方が好き。」
深く口付けられ、ロゼは息を漏らす。
「すごく優しい、貴方が好き。」
ガルタの手がロゼの身体を抱きしめた。ロゼは泣きそうな表情で微笑む。
「あたしは、そんな貴方の恋人であることを、誇りに思うわ。」
ロゼが目を覚ますと、ガルタはもう机に向かっていた。ぼうっとその真っ直ぐに伸びた背中を見ていると、気配に気づいたのかガルタが振り向いた。
「ああ、おはよう。」
穏やかな笑顔を見せる彼に、ロゼはぎゅうっと胸を締め付けられる気がした。泣きそうになるのをなんとか堪えようとして、拳を握る。
「ねぇ、革命軍はすごく統制がとれてて、すごく強いの。人数も多くて、騎士団じゃ敵わない。それでも、ガルタの答えはやっぱり変わらないのね。」
「ああ。俺は俺がやるべきことをするだけだ。」
そっとロゼの頭を撫でて、ガルタは言う。
「俺はこの騎士団が好きだし、とても大事なんだ。そして、ここは街の治安を守るための組織。俺は、俺の大好きなこの組織のあり方を、存在意義を否定したくない。」
ロゼは街で大きな喧嘩に巻き込まれたことがある。足を挫いてしまって、目の前で殴り合う男達から程近いところで立てなくなってしまった。男達はしゃがみこんでいるロゼには気付かずに乱闘を続けていて、危うくもっと大きな怪我をするところで、ガルタがその喧嘩を止めさせたのだった。とても鮮やかに剣の鞘で男達をねじ伏せ、あっという間に他の騎士団員に引き渡して、ロゼに手を差し出した。立てるか、と訊いてきた声は無愛想ではあったが優しかった。
ロゼは、自衛騎士団のガルタが好きだ。別に彼が自衛騎士団でなかったとしても、好きになっていたと思う。けれど、ロゼが好きになった彼は誰よりも愚直に自衛騎士団員であろうとする彼だった。
泣きそうでくしゃくしゃに歪んだ顔を見られたくなくて、ロゼはガルタの胸に頬擦りをする。ガルタはそれすら愛おしそうに、またロゼの頭を撫でた。
「俺は、何があってもロゼが好きになった自衛騎士団のガルタでいたい。それじゃあ、だめか。」
ロゼには首を振ることしか出来なかった。
どうして、あたしの大好きな人たちは、こんなにも高潔でそして美しいほどに残酷な決断をするのだろう、と思いながら。