第8話 「早退令嬢の、ちょうどよかった」
早退の翌日から、取り巻きたちが減り始めた。
最初に来なくなったのは、一番付き合いの浅い令嬢だった。
朝、廊下でいつもの場所に立っていなかった。ただそれだけのことだった。特に何も言わずに来なくなった。
次の日、また一人いなくなった。
その次の日、また一人。
誰も何も言わなかった。謝罪もなく、説明もなく、ただ静かにいなくなっていった。フローラだけが数日間残っていたが、エリーゼに何かを言おうとするたびに言葉が出てこないようで、顔を伏せて通り過ぎることが続いた。そしてある朝、フローラも来なくなった。
廊下に、エリーゼ一人が残った。
(……全員、いなくなった)
思ったより静かだった。
怒涛のように人が消えていくと思っていたが、そうではなかった。一人ずつ、少しずつ、波が引くように。
気づいたときには、もう誰もいなかった。
◇
孤立してから最初の数日は、視線が痛かった。
廊下を歩けば、生徒たちが振り返った。哀れむような目、面白がるような目、意外そうな目。いくつかの種類が混ざって、全部こちらに向いた。
リナ側の令嬢たちが廊下の向こうで囁いていた。
「あれだけのことをしてきて、今さら」
「何か企んでるんじゃないの」
聞こえていないふりをして歩き続けた。
食堂では一人で席に座った。いつもなら取り巻きたちが周りを囲んでいた。今日は誰もいない。
クロード殿下と目が合いそうになって、殿下の方が先に目を逸らした。
(……そうか)
特に何も思わなかった。怒りも、悲しみも来なかった。ただ、そうか、とだけ思った。
数日後、授業で隣の席の生徒が問題につまずいていた。
エリーゼは小声で答えを教えた。
「え……いいんですか」
生徒が目を丸くした。
(……普通のことをしているだけなのに)
少し、困った。驚かれると思っていなかった。それだけ、今まで「普通のこと」を何もしてこなかったということだ。
「別に」
そう言って、前を向いた。
廊下を一人で歩いた。誰もいない分、周りの音がよく聞こえた。風が窓の外を通り抜ける音。遠くの教室から漏れる話し声。自分の足音。
(……静かで、悪くない)
思っていたより怖くなかった。むしろ少し、楽だった。
誰かの期待に応えなくていい。誰かのために正しく笑わなくていい。誰かの隣で完璧でいなくていい。
その「しなくていい」が、こんなにたくさんあったのかと、孤立して初めて気がついた。
(……自由だ)
小さく、でもはっきりと、そう思った。
孤立は孤立だった。寂しくないとは言わない。でも同時に、十七年間感じたことのなかった軽さが、そこにあった。
誰かのためではなく、ただ自分として歩いている。
それだけのことが、こんなにも違うものなのかと思った。
◇
孤立して数日が過ぎた頃、クロード殿下に呼び出された。
応接室で向かい合うと、殿下は真剣な顔で言った。
「エリーゼ、改めて正式に伝える」
一度、息を吸った。
「リナへのこれまでの行いを鑑みて、婚約を解消させていただきたい」
用意していた言葉を告げた顔だった。正義の側に立って、悪を裁く。そのつもりの顔だった。
エリーゼは静かに聞いた。聞き終えてから、ゆっくりと口を開いた。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「私がこの五年間、殿下の婚約者としてやってきたことは、殿下の目にはどう映っていましたか」
殿下が少し、黙った。
「……リナへの振る舞いは、褒められたものではなかったと思っている」
「そうですね」
エリーゼは静かに言った。
「でも、私は殿下のためにやっていたつもりでした。殿下が王族として恥ずかしくないように。殿下の周りを、ふさわしい形に整えたくて。それが婚約者の役割だと思っていたので」
殿下が少し目を伏せた。
「……それが正しかったかどうかは、今はもうわかりません。ただ、そういうつもりでいたということだけ、知っておいていただけたら」
エリーゼはそれだけ言った。それから、一呼吸置いた。
「婚約破棄の件、承知いたしました」
殿下が少し身構えた。謝罪の言葉か、反論か、泣き崩れるか。そのどれかを待っている目だった。
「私からも、そうお願いしようと思っておりましたので」
一拍、間があった。
「ちょうどよかったです」
殿下が固まった。
「……ちょうどよかった?」
「はい。ちょうどよかったです」
二回繰り返した。
殿下が何か言おうとした。でも言葉が出てこないようだった。用意していた正義が、どこかへ消えていた。エリーゼの言葉を受け取る準備が、どこにも見当たらなかった。
エリーゼはお辞儀をして、部屋を出た。
(……これで全部、終わった)
廊下に出ると、窓の外の空が広かった。曇ってはいたが、不思議と重くは感じなかった。
応接室の中で、殿下がしばらく動けなかった。
「ちょうどよかった」という言葉だけが、空っぽになった部屋に残った。
◇
両親が帰ってきたのは、その夜のことだった。
玄関で父の顔を見た瞬間、すでに話が届いていると分かった。そういう顔だった。
夕食の席に三人が揃った。使用人たちが料理を並べて、静かに下がっていった。
父が口を開いた。
「エリーゼ。学園から正式な書状が届いていた。婚約解消の通達も、今日受け取った」
低く、平らな声だった。
「殿下から婚約解消を申し入れられるなど、前代未聞だぞ。ヴァルドラン家が一体どれだけの恥を」
母が続けた。
「あなた、一体何をしたの。取り巻きの令嬢たちの家からも連絡が来ていますよ。大広間で突然あんな真似をして」
「今すぐ殿下にお詫びを入れなければ。まだ間に合うかもしれない」
「あなたがちゃんとしていれば、こんなことには——」
エリーゼはカトラリーを置いた。
「……もう、結構です」
両親が、止まった。
「なんだと」
父が低い声で言った。
「結構です、と申しました」
父が立ち上がった。
「エリーゼ、今何と言った」
「聞こえていたはずです」
母が
「この子は……!」
と声を上げた。
「ヴァルドラン家の令嬢として、あなたには殿下のために——」
エリーゼは顔を上げた。父と母を、まっすぐ見た。
怒っていなかった。泣いていなかった。ただ静かに、真っ直ぐ前を向いていた。
その目を見て、父が言葉を止めた。母も、途中で口を閉じた。
エリーゼが今まで一度も見せたことのない目だった。
責めていない。怒っていない。ただ静かに、もう決まっている目。
誰も何も言えなかった。
「ご馳走様でした」
エリーゼはお辞儀をして、席を立った。
◇
自室に戻った。
ベッドに腰かけ、窓の外を見た。
婚約が終わった。五年間続いたものが、今日終わった。
両親に怒られた。夕食が途中で終わった。が、
(……思ったより、何も感じない)
悲しいとか、悔しいとか、そういうものが来ると思っていた。でも来なかった。
疲れ果てると、感情の置き場所すらわからなくなる。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
扇を持たなくていい。令嬢らしい笑い方をしなくていい。殿下の婚約者として振る舞わなくていい。
(……もう、しなくていいんだ)
その一点だけが、じわりと温かかった。
窓の外の月を見ていたら、五歳の頃のことをふと思い出した。
泥だらけの手。走り回った庭。笑い声。「また来る」という言葉。
あの頃は、ただ笑っていた。作った笑い方じゃなかった。ただ、楽しくて、笑っていた。
(……またあんなふうに、笑える日が来るんだろうか)
わからなかった。でも、わからないままでいい気がした。
◇
翌日の放課後、廊下の端を一人で歩いていたとき、後ろから声が聞こえた。
上級生の令嬢たちが、誰かの話をしていた。
「明日から転校生が来るって聞いた?」
「転校生? この時期に?」
「ヴァイセンベルク公爵家の嫡男だって。公爵家よ、公爵家。どうして今さら王立学園に」
エリーゼは足を止めなかった。そのまま歩き続けた。
ヴァイセンベルク家。北方の辺境を治める武家気質の名門公爵家。聞いたことはあった。でも、それ以上のことは知らなかった。
(……転校生、か)
特に何も思わなかった。
ただ、後ろで令嬢たちの声が続いていた。
「銀髪で、格好いいって噂よ」
「でも誰にも振り向かないらしいわよ」
「まあ、公爵家のお方だもの。当然でしょう」
声が遠ざかっていった。
エリーゼは廊下の先の窓を見た。夕暮れの光が差し込んでいた。
橙色の、温かい光だった。
(……明日から、か)
それだけ思って、また歩き出した。
今は、それだけで十分だった。
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