第7話 「早退令嬢は、もうやめた」
屋敷に戻ると、静かだった。
玄関に入ると、年配の使用人が出迎えた。
「お帰りなさいませ。……本日はお帰りが、随分と早うございますね」
少し驚いた顔をしていた。こんな時間に帰ってくることは、まずなかったから。
「ただいま」
エリーゼは鞄を渡しながら言った。
「ええ、少し気分が優れなくて。今日は早めに休みます」
「さようでございますか。何かお持ちしましょうか」
「いいえ。結構です。ありがとう」
使用人が心配そうな顔をしたまま頭を下げた。エリーゼは小さく頷いて、廊下を歩き出した。
父も母も、今は王都を離れている。公務の都合で、数日ほど屋敷を空けるとのことだった。
(……よかった)
今は誰にも会いたくなかった。
◇
自室に入り、扉を閉めた。
ベッドに腰かけ、窓の外を見た。
雲一つなく、どこまでも広がっている。
(……や〜めた)
声に出したわけじゃない。ただ、心の中でそう思った。思ったら、止まらなくなった。
やめた。
やっと、やめる決心がついた。
怒りも、悲しみも、不思議となかった。ただ「終わった」という感覚だけがそこにあった。コップの水が十七年かけて満杯になって、今日ようやく全部こぼれた。そういう感覚。
(……これからどうなるんだろう)
取り巻きたちは離れていくだろう。殿下との婚約も、きっとただでは済まない。学園での評判は、今日よりずっと悪くなる。
(……でも、もう、どうでもいい)
そう思って、少し驚いた。
殿下のために動いてきた。殿下が喜ぶように、殿下の役に立つように。その気持ちは本物だった、と思う。でも今は、それがひどく遠いことのように感じる。疲れ果てると、何もかもが等距離になっていく。婚約も、家族も、取り巻きも、全部同じ遠さになっていた。
窓の外の空が、やけに広く見えた。
今まで気づかなかったけれど、空ってこんなに広かったんだ。こんなに青かったんだ。
エリーゼはしばらく、その空を見ていた。
(……まあ、いいか)
短い独白だった。でも、それだけで十分だった。
なんとなく、少しだけ、前を向ける気がした。
◇
夜、一人で夕食をとった。
いつもより静かな食卓だった。使用人が気を遣って小さな灯りを足してくれたが、それでも広い食堂に一人では、少し余白が多かった。
父と母が帰ってくるのは、もう少し先のことになる。
(……何と言われるだろう)
エリーゼはスープを一口飲んだ。温かかった。
それだけで、今夜は十分。
◇
翌朝、鏡の前に立った。
いつも通りの手順に、手が動きかけた。
顎を上げようとして、やめた。扇を手に取ろうとして、やめた。口の端を上げようとして、やめた。
鏡の中に、何もしていない自分が映っていた。
顎も上がっていない。扇もない。作り物の笑顔もない。
(……これが、私か)
久しぶりに見る顔だった。何年ぶりかはわからない。もしかしたら、十七年ぶりかもしれなかった。
エリーゼはしばらく、その顔を見つめた。
特別な感慨はなかった。ただ、知らない顔に見えた。それだけのことだった。
鞄を持って、部屋を出た。
◇
学園に来た。校門をくぐった。
スイッチを入れなかった。顎も上げず、扇も持たず、ただ普通に歩いた。
廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちが振り返った。
何かを言いたそうな顔をしていたが、誰も声をかけてこなかった。エリーゼも何も言わなかった。
そこへ、フローラが来た。
いつもなら真っ先に駆け寄ってくる。今日も駆け寄ってきた。でもその顔は、いつもと全然違っていた。
「エリーゼ様」
声が固かった。怒りを押し込めているような、張り詰めた声だった。
「昨日のこと、どういうおつもりなんですか」
「別に」
「別に、じゃないですよ!」
フローラが声を上げた。廊下にいた生徒たちが振り返った。
「私たちはずっとエリーゼ様のために動いてきました。証拠も集めました。あの場でエリーゼ様が途中で投げ出したせいで、私たちがどれだけ恥ずかしい思いをしたか」
「……そうね」
「そうねって、それだけですか!」
フローラが一歩近づいてきた。
「扇はどこへ行ったんですか。今日はなぜ持っていないんですか。令嬢らしくない歩き方をして。昨日と今日で、エリーゼ様は一体どうなってしまったんですか」
エリーゼはフローラを見た。
怒りがあった。傷があった。「エリーゼ様についていたのに」という、裏切られた色があった。
(……フローラは、私を頼りにしていたんだ)
利用していた部分はあったかもしれない。でも、フローラもまた、エリーゼを必要としていた。だからこそ、今日この顔をしている。
「……ごめんなさい」
エリーゼは短く言った。
フローラが止まった。
「フローラには、迷惑をかけました」
「……っ」
何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。目が少し赤くなっていた。怒りと何か別のものが混ざっているような目だった。
エリーゼはもう一度小さく頷いて、歩き出した。
「待ってください」
フローラの声が来た。でも、追いかけてはこなかった。
エリーゼは振り返らなかった。
廊下の先に、窓の光があった。今日も、白くて静かな光だった。
(……ゼロからのスタートは、こういうものか)
遠くも近くも、まだよくわからなかった。
ただ一歩ずつ歩けば、それでいい気がした。
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