第6話 「早退させていただきます。もう、悪役令嬢キャラには疲れました」
朝、いつもより早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む光が、細く、頼りなかった。
エリーゼはしばらくそのまま天井を見ていた。
今日だ。
特別な感情はなかった。緊張もない。気負いもない。ただ「今日だ」という事実だけが、胸の奥にぽつんとあった。
引き出しの中の書類のことを思った。
昨夜重ねてしまった、二種類の紙束。フローラたちの、でっちあげだらけのもの。エリーゼ自身の、事実だけを並べたもの。
(……大丈夫かしら)
またその不安が来た。今朝も来た。昨夜と同じ不安だった。
エリーゼは起き上がった。
◇
鏡の前に立った。
顎を上げる。扇を持つ。目を笑わせない。口の端だけを上げる。
いつも通りの手順だった。
スイッチを入れた。これで完成だ。
引き出しを開けて、書類の束を取り出し、鞄の中にしまった。
部屋を出た。
◇
大広間は、すでに多くの生徒で埋まっていた。
エリーゼが入ると、空気が変わった。視線が集まった。前からも、横からも、後ろからも。この学園でエリーゼ・ヴァルドランが鞄を抱えて大広間に入ってくる、それだけで何かが起きると誰もが感じた。
フローラたちが後ろに並んだ。「エリーゼ様、今日こそ」と小声で言った。
エリーゼは中央に立った。鞄から書類の束を取り出して、両手で持った。
リナが少し離れたところに立っている。不安そうな顔をしていた。可憐で、今にも泣きそうな、そういう顔。
クロード殿下が壇の端で腕を組んでいる。
全員が、エリーゼの言葉を待っていた。
「リナ、あなたのこれまでの行いについて、証拠がここにあります。読み上げさせていただきますわ」
書類の束を持ち上げた。フローラたちが「そうよ!」と囃し立てた。
しかし広間のざわめきは、取り巻きたちへの同調ではなかった。
「……また始まった」
「リナさんが何をしたって言うの」
「ヴァルドラン様って、本当にリナさんのことが嫌いなのね」
囁き声が、あちこちから聞こえた。エリーゼの背後からではなく、広間全体から。
(……そうか。ここは、そういう場所だったのか)
リナが作り上げた空気の中に、エリーゼは今立っている。それを、今更ながら実感した。
◇
エリーゼは最初の一枚を手に取った。フローラたちが用意したものだった。
「まず、三月の茶会にて──リナがお茶をこぼした件について」
読み上げた。取り巻きたちが「そうよ!」と声を上げた。
リナが困ったような顔をした。
「エリーゼ様……私、何かいけないことを……」
震える声だった。細い、今にも消えそうな声。
広間がざわめいた。
「かわいそうに」
「あんな些細なことまで」
という声が聞こえた。
次の一枚を取った。また、フローラたちのものだった。
「五月、授業にて──リナが教師に取り入るため虚偽の回答を申告した件について」
読み上げた。日付の記載はあったが、証言者の名前がなかった。
「そんな事実はありません!」
リナが涙をこらえた声で言った。
「それはどこの誰が書いたものだ」
クロード殿下が口を開いた。静かだが、刃のある声だった。
「名前も出所もない書類を、そのまま読み上げるのか」
広間から笑いが漏れた。エリーゼに向けられた笑いだった。
(……わかっていた)
「根拠は? 証人はいるのか」
殿下が言った。
「そうよ! 証拠もないのに!」
「リナさんがそんなことするはずないでしょう!」
広間から声が上がった。取り巻きたちが「そうじゃないんです!」と言い返した。広間がざわめいた。
(……フローラたちの書類は、やはり使えない)
次の一枚を取った。また読んだ。また遮られた。また笑われた。
「でたらめばかり言わないでください!」
広間のどこかから、はっきりとした声が飛んだ。
「リナさんをいじめてきたのはそっちでしょう!」
別の声が続いた。
取り巻きたちが「違います!」と言い返した。広間がまたざわめいた。
エリーゼはまた次の一枚を読み上げた。また遮られた。クロード殿下が言った。
「エリーゼ、その書類に信頼性はあるのか」
静かだが、真っ直ぐな言葉だった。
信頼性。
(……殿下も、信じていない)
当然だ。フローラたちのものは、信頼性などない。それはわかっていた。
また次の一枚を取った。手が、わずかに重かった。
「もう終わりにしてください! リナさんが傷ついています!」
「そうよ! いい加減にして!」
声が重なった。一つではなかった。二つ、三つ。広間の複数の場所から、同時に来た。
エリーゼは読み上げながら、ふと思った。
(……この声は、全部リナが作ったものだ)
丁寧に、着実に。
友人を増やし、味方を増やし、「守るべき存在」という像を学園の中に刷り込んだ。今日この場にいる生徒たちのほとんどが、リナの作り上げた像の中に立っている。
エリーゼがどんな証拠を出しても、この場では「悪役令嬢のでっちあげ」にしか見えない。
そういう舞台を、リナは用意していた。
(……私の負けだ)
怒りは来なかった。ただ、虚しかった。重かった。
次の一枚を取った。また読んだ。また遮られた。リナがまた涙をこらえた。広間がまた沸いた。
何度繰り返しても、同じだった。
何度繰り返しても。
何度繰り返しても。
◇
手の中に残ったのは、エリーゼ自身が調べた書類だった。
表紙に書いてある。
『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』
日付がある。場所がある。証言者の名前がある。エルヴィンへの手紙の記録、クラウスへの廊下での耳打ち、贈り物の記録、令嬢を孤立させてから近づく手口の複数の証言。全部、確認が取れたものだけが並んでいる。
これを読めば、広間の空気は変わるかもしれない。
(でも……)
(読んでも、また遮られる。また笑われる。また「でっちあげだ」と言われる)
この広間で、この空気の中で。
読んだとして、何が変わるのか。
広間の声が、また来た。
「まだ続けるの?」
「いい加減にしなよ」
「リナさん、大丈夫?」
殿下の目が、エリーゼではなくリナの方を向いていた。心配そうな、守りたいという目で。
五年間、その目が自分に向いたことがあっただろうか。
五年間、婚約者として動いてきた。殿下のために。殿下の周囲を整えるために。でも今日この場で、殿下はリナの方を見ている。広間の全員がリナの方を見ている。
(……なんで、私がこれをやっているんだろう)
怒りからじゃない。リナが憎くて証拠を集めたわけじゃない。ただ本当のことを知りたかっただけだ。それだけのことだった。
なのに今、この場に立って、遮られながら、笑われながら、一枚ずつ読み上げている。
これは何のためだ。
誰のためだ。
(……疲れた)
じわりと、そう思った。疲れた。本当に、心の底から。
もうずっと前から疲れていた。五歳から疲れていた。令嬢らしい笑い方を覚えさせられた日から。平民の子に意地悪をして褒められた日から。本を取り上げられた日から。婚約が決まって「おめでとう」と言われた日から。ずっと、ずっと疲れていた。
それが今日、この場に来て、遮られて、笑われて、また疲れた。
コップの水が、静かに、音もなく溢れた。
「エリーゼ様!次を読んでください!」
フローラの声が来た。
(……もう、このキャラには疲れた)
声に出したわけじゃない。ただ、胸の奥でそう思った。思ったら、止まらなくなった。
疲れた。十七年間、疲れ続けた。
それを、今日も続けるのか。
◇
エリーゼは書類の束を、静かに下ろした。
パサ、という乾いた音がした。
「……え?」フローラが声を上げた。
「エリーゼ様、まだ──」
扇を閉じた。
パチン。
小さな音だった。でもその音が、広間に響いた。
ざわめきが止まった。誰もが息を呑んだ。広間全体が、一瞬で静まり返った。
エリーゼは深く、丁寧に、お辞儀をした。
「気分が変わりました。申し訳ございませんが……」
「早退させていただきます」
誰も言葉を返せなかった。
クロード殿下が「は……?」という顔をした。リナの表情が一瞬崩れた。計算でない、素の顔が覗いた。フローラたちが顔を見合わせた。
「エリーゼ様、ちょっと──」
「あとは、皆さまにお任せいたしますわ」
くるりと背を向けた。扉へ向かって歩いた。
後ろから「エリーゼ!」と声が飛んできた。聞こえていた。でも足が止まらなかった。「待て」という声もした。止まらなかった。
扉を開けた。出た。静かに閉めた。
◇
閉めた扉の前で、一瞬だけ、立ち尽くした。
(……やってしまった)
真っ先にそう思った。
フローラたちの顔が浮かんだ。殿下の「は……?」という顔が浮かんだ。
家族は怒るだろう。学園での評判は、今日より悪くなる。
(……やってしまった。本当に、やってしまった)
でも。
足が、動かなかった。戻ろうとしなかった。体が、もう戻れないと知っていた。
エリーゼはゆっくりと顔を上げた。
廊下の窓から、昼の光が差し込んでいた。
(……ああ)
こんなに明るかったんだ、ここ。
白くて、静かな光だった。廊下の石畳の上に、真っ直ぐ伸びていた。いつから気づかなくなっていたのだろう。毎日この廊下を歩いていたのに、この光を見ていなかった。
エリーゼはしばらく、その光の中に立っていた。
扉の向こうがうるさかった。でも、ここは静かだった。
風が廊下を通り抜けた。それだけで、少し息が楽になった。
胸の奥で何かが、するりと解けた気がした。
解けた後に残ったのは、怒りでも後悔でもなかった。
ただ、静かだった。
(……もしこれが物語の話ならば、ここで私がはっきりとモノ申せば、大きく動いたのでしょうけれど)
そんなことをぼんやりと思った。特に感慨もなく。すぐに消えた。
エリーゼはゆっくりと、廊下を歩き始めた。
足取りが、少しだけ軽かった。
◇
静まり返った大広間の中で、書類が床に散らばっていた。
エリーゼが書類の束を下ろした拍子に、何枚かが滑り落ちていた。
クロード殿下の取り巻きの一人、セドリックという男子貴族が、それを拾い上げた。パラパラとめくった。
ある部分で、手が止まった。
表紙に、几帳面な文字で書かれていた。
『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』
表情が、変わった。
セドリックは書類を持ったまま、しばらく動かなかった。
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