第37話 「早退令嬢は、明日まで」
告白の翌日、学園はいつも通りだった。
廊下の生徒たちは、いつも通り歩いていた。授業は、いつも通り始まった。
何も変わっていなかった。
変わったのは、エリーゼの内側だけだった。
昨日のことを、朝から何度も思い返していた。ベンチに並んで座ったこと。名前を呼ばれたこと。泣いてしまったこと。抱き寄せられたこと。
(……本当にあったことなのかな)
信じられない気持ちと、確かにあったという感触が、交互に来ていた。
授業中、先生の声が遠かった。ノートを取りながら、何度か昨日の中庭が頭に浮かんだ。「エリーゼのことが、好きだ」という声が、何度も聞こえた気がした。
(……集中しなければ)
そう思うのに、顔が少し緩んでしまう。自分でも困った。
◇
午後の授業が終わって、廊下を歩いていると、ルーカスが待っていた。
いつもと変わらない様子で、壁に寄りかかって立っていた。
「行くか」
「……うん」
二人で廊下を歩き始めた。
隣に並んで歩くのは、以前から当たり前のことだった。でも今日は、少し違う感触があった。距離が、いつもより少しだけ近かった。それだけで、歩きながら何度か意識してしまった。
階段の前に来たとき、ルーカスが少し立ち止まった。
それから、静かにエリーゼの方に手を差し出した。
エリーゼは少し止まった。手が、そこにあった。
「……段差がある」
ルーカスが言った。
エリーゼはその手を、そっと取った。温かかった。大きかった。
一段、降りた。二段、降りた。
「……ありがとう」
言いながら、手を離そうとした。でも、離れなかった。ルーカスが、繋いだままだった。
エリーゼは何も言わなかった。
少し間があった。ルーカスの指が、エリーゼの指の間に、自然に絡んだ。
(……つなぎ方)
気づいた瞬間、心臓が跳ねた。頬が一気に熱くなった。
ルーカスは前を向いたまま、何も言わなかった。当たり前のようにそのまま歩いた。
エリーゼも、何も言わなかった。ただ、繋がれた手の温度を、頭のどこかで確かめていた。
(……これが、そういうことなんだ)
昨日までとは違う、今は手を繋いで歩いている。それが不思議で、温かくて、少し眩しかった。
◇
廊下を曲がったとき、ばったりフローラたちで出会ってしまった。
フローラが二人の手元を見た。一瞬、固まった。
次の瞬間、フローラの顔がぱっと輝いた。
「エリーゼ様……!」
声を抑えようとして、抑えきれていなかった。隣の取り巻きたちも気づいて、一斉に口を押さえた。
「やっぱり……そういうことなんですね!!」
「フローラさん、声が」
「抑えています、抑えています! でも……!!」
フローラが目を潤ませながら、取り巻きたちに振り返った。
「皆さま、お邪魔してはいけませんわよ」
そう言って、取り巻きたちをまとめて押しながら、廊下の角に消えていった。
消える直前に、フローラがもう一度振り返って、満面の笑みで小さく手を振った。
曲がった先から、抑えきれない「きゃーーー」という声が聞こえてきた。
エリーゼは少し俯いた。
「……見られてしまった」
「ああ」
「……恥ずかしかった」
「何がだ」
「手を繋いでいるところを、です」
「そうか」
「……そうかじゃないですよ。あのような行為は、親しい間柄でないとおかしいので」
ルーカスが少し間を置いた。
「俺たちは、親しい間柄ではないのか」
エリーゼはまた、頬が熱くなった。
「……そ、それはそうだけど」
「見られても困るようなものではない」
「え?」
「もう恋人同士だろ」
きっぱりと言った。
エリーゼは少し止まった。
恋人同士。その言葉を、ルーカスがこんなにはっきりと言うとは思っていなかった。
「……そう、だな」
エリーゼは、困るとため口が変になる。
俯いたまま、手を繋いだまま、歩き続けた。
頬が、まだ熱かった。
◇
その日から、二人で過ごす時間が少し変わった。
本を読む時間もあったが、それよりも、一緒に歩いたり、話したりすることが多くなった。残り少ない学園生活を、静かに、でも確かに楽しんでいた。
◇
数日後のことだった。
中庭のベンチに並んで座っていると、ルーカスが静かに言った。
「明日だな」
エリーゼは少しの間、中庭を見ていた。
「……ええ」
明日は、二人の学園最後の日。卒業の日だった。
桜が、今日も風に揺れていた。告白の日より、ずっと咲いていた。満開に近かった。
「……卒業したら、私たちどうなるのでしょう」
エリーゼが言った。
「隣にいると言っただろう」
「言ってくれましたけど……家柄のこともありますし、婚約者というわけでもないので、すぐには会えませんよね」
ルーカスが少し間を置いた。
「いや、すぐに会える」
「え?」
「卒業したら、すぐにヴァルドラン家にご挨拶に伺う予定だ」
エリーゼは止まった。
「……ご挨拶?」
「ああ。お前の父上と母上には、既に話を通してある」
「……え」
「お前以外には、今回はしっかりと報告済みだ」
エリーゼは声が出なかった。
父と母に、すでに話を通してある。お前以外には、と言った。
「……それって」
「そういうことだ」
エリーゼは少し俯いた。頬が、また熱くなった。
「……私にも、教えてくださればよかったじゃないですか」
「お前が驚く顔を見たかった」
「意地悪」
「今、報告した」
「……意地悪」
「そうかもしれないな」
二人で少し笑った。
◇
しばらくして、ルーカスが続けた。
「一つ、話しておきたいことがある」
エリーゼは顔を上げた。ルーカスの表情が、少し真剣になっていた。
「ヴァイセンベルク家とヴァルドラン家は、古くから繋がりがある」
「……そうなのですか」
「五歳のとき、俺がお前の屋敷に来たのは、父同士の仕事の話だけではなかった」
エリーゼは少し止まった。
「……どういうこと」
「本来の話し合いの内容は、俺たちの婚約についてだった」
中庭に、静けさがあった。
「……婚約」
「ああ。二つの家の間で、ずっと前から話が進んでいた。俺はその知らせを五歳のときに聞いていた。だからお前の屋敷に出向いた。あの間、二人でいる時間が多かったのも、婚約者同士として仲良くなるためにと、両家が時間を作ってくれていたからだ」
エリーゼはしばらく、ルーカスを見ていた。
「……知らなかった」
「お前には伝えていなかったらしいからな。正式に決まってから伝えるつもりだったと、あとから父に聞いた」
エリーゼは頭の中で、いくつかのことを繋げようとしていた。
「……でも、あなたは急に帰ることになって」
「ああ。三日目の夜に、知らせが届いた」
ルーカスが少し間を置いた。
「当時、ヴァイセンベルク家が管理していた遠方の領地で、隣国との境界をめぐる紛争が起きた。土地の継承をめぐる争いで、放置すれば武力衝突に発展しかねない状況だった。相手国との交渉には、公爵家が直接出向かなければならない。しかも、交渉がどれほどかかるかわからない。落ち着くまで国に戻れないかもしれない状況だった」
「……それで」
「婚約の件は、一夜にして破談になった。期間も見通せない状況で、婚約だけを先に結ぶわけにもいかなかったからだ。お前の家にも、迷惑をかけた」
エリーゼは少しの間、中庭を見ていた。
ルーカスが父に「当時のご無礼」と頭を下げていた。あの言葉の意味が、今わかった。
「……そういうことだったんですね」
「ああ」
◇
ルーカスが続けた。
「問題が落ち着いて、国に戻れるようになったのは最近のことだ。その頃には、お前はもうクロード殿下の婚約者になっていた」
エリーゼは少し息を呑んだ。
「……そう、でしたね」
「ああ。同じ学園に編入することを決めていたが、王家と婚約しているお前に会いに行っていいものかと思った」
「それでも、『また会いに来る』と約束したからな。約束を守るためだけでもと思って、来た」
エリーゼはルーカスを見た。
(そこまで想ってくれていたんだ……)
「入学初日、いい知らせが耳に入った。
お前が婚約を解消していた」
ルーカスが、少し間を置いた。
「まだチャンスがあるかもしれないと思い、柄にもなく、神様に感謝した」
エリーゼは少し笑いそうになった。この人がそんなことを思っていたとは。
「正直、嬉しかったが、予期せぬ問題が起こった」
「どんな問題?」
エリーゼが質問した。
「再会しても、お前は俺に全く気づかなかったことだ」
「……それは」
(あの時は、私も色々ありましたので……)
「大広間で孤立したと聞いたときは、頑張ったのだと素直に思った。殿下のために、家名のために、ずっと演じ続けていたのだとわかったから、落ち着くまでそばにいようと決めていた。心にゆとりができたら、俺のことを思い出してくれるかもしれないと思って」
「……そんなことを、考えていたの」
「ああ。そこにイザドラ嬢の件が起きて、またお前が追い詰められる状況になった。だから自分でその件を解決しようと思った。学園を戻したいという気持ちもあったが、それだけではなかった」
エリーゼはしばらく、ルーカスを見ていた。
学園に来てからのことが、少しずつ形を変えて見えてきた。全部、繋がっていた。
「……少し、遠回りをしてしまったが」
ルーカスが静かに続けた。
「自分の気持ちが伝えられて、よかった」
エリーゼは少し俯いた。
(なんと言えばいいか、わからない……)
でも、しばらくして、自然と口が開いていた。
「……来てくれて、ありがとう」
「ああ」
「約束を守ってくれて、ありがとう」
「ああ」
ルーカスが、少しの間、エリーゼを見た。
「待たせてしまって、すまなかった」
その一言が、十二年間のことを全部包んでいた気がした。
中庭の桜が、風に揺れていた。
明日、二人はここを出る。
でも、ここで始まったものは、ここで終わらない。
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※
次回は第二章の最終話です!
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