第3話 「早退令嬢と、また同じ朝」
毎朝、スイッチを入れる。
校門をくぐる前に、一度息を吸う。目を細める。顎を少し上げる。扇をゆっくりと開く。
これで完成だ。ヴァルドラン侯爵家の令嬢、エリーゼ・ヴァルドランの出来上がり。
十七年かけて作った顔は、もう呼吸と同じくらい自然だった。
意識しなくても出てくる。消そうとしなければ消えない。
それが、少しだけ怖かった。
(……また今日も)
エリーゼは足を踏み出した。
◇
食堂に入ると、今日もリナがいた。
平民出身の首席合格生。この学園では有名な存在だ。
明るい茶色の巻き髪、琥珀色の瞳。誰にでも愛想がよく、困った顔をすれば誰もが助けたくなる、そういう笑顔を持つ少女。
取り巻きのフローラが「エリーゼ様、今日もリナが貴族の席に」と囁いた。
エリーゼはリナの前で立ち止まった。「平民が貴族と同じ席で食事をするのは、いかがなものかしら」
取り巻きたちが「そうですわ!」と声を上げた。
リナが困ったような顔をした。今にも泣きそうな、そういう顔。
(……今日も、同じ流れだ)
エリーゼはそれを見ながら、ふとリナの目に視線をやった。
(……目の動きが、ほんの少しだけ速かった)
困った顔になる前の、ほんの一瞬。視線がさっと動いた。どこへ。
遠くを確認するような、計算するような、そんな目の動き。
エリーゼが視線を追うと、廊下の入口近くにクロード殿下がいた。
(……見た。あの子は今、助けてくれる人間がいるかどうかを確認した)
そしてその一瞬の後、困った顔が完成した。
殿下の視線を確かめてから、泣きそうな顔を作った。その順番を、エリーゼだけが見ていた。
(……私も、扇を開く前に周りの反応を確認する。同じだ)
違うのは、目的だけだ。
遠くでクロード殿下がリナの方へ足を向けるのが見えた。
エリーゼは踵を返した。
◇
午後の授業で、リナが優秀な回答をした。
教師が褒めた。周囲が感心した。隣の席の令嬢が「さすがね」と呟いた。
エリーゼは小さく鼻で笑った。「平民が少し頭が回るからといって、はしたないものね」
取り巻きたちがくすくすと笑った。リナがまた困ったような顔をした。
(……また同じだ)
エリーゼは視線を窓の外に向けた。青い空が見えた。
怒ってはいなかった。嫌いだからやっているわけでもなかった。
ただ、殿下のためだ。殿下の隣に立つ人間は、ふさわしくなければならない。平民が首席だからといって図に乗るのは、殿下の周囲の秩序を乱すことになる。
そう思ってきた。ずっとそう思ってやってきた。
でも今日は、そう思いながら同時に別のことも思った。
(……本当に、それだけのためにやっているのか)
答えは出なかった。出さないまま、授業が終わった。
◇
放課後、いつもの茶会だった。
白いテーブルクロス。揃いの磁器のカップ。フローラが紅茶を注ぎながら、今日もいつも通りに切り出した。
「本当に腹立たしいですわ。平民のくせに殿下の前であんな振る舞いをして。絶対に何か悪いことをしているはずですわ。証拠を集めて、一気に叩きつけてやりましょう!」
「そうですわ!」「賛成ですわ!」
取り巻きたちが一斉に同調した。
エリーゼは紅茶のカップを持ったまま、窓の外を見ていた。
感情で動いている。フローラたちの言葉は全部、感情から来ていた。
腹が立つから、気に入らないから、追い落としたいから。
それはそれで、正直な動機だとは思う。
でも、エリーゼが気になっているのは別のことだった。
(……あの目の動きが、気になっている)
本当のことを知りたかった。怒りからではない。ただ、あの一瞬が本物なのかどうかを、自分で確かめたかった。
「……私も調べましょう」
エリーゼはそれだけ言った。
「さすがエリーゼ様!」取り巻きたちが沸いた。「やっぱりエリーゼ様は違いますわ!」
(……みんなは感情で動いている。でも私は、ただ事実を知りたいだけだ)
エリーゼは紅茶を一口飲んだ。少し、冷めていた。
◇
その夜、自室で机に向かった。
殿下のことを考えた。
殿下は悪い人ではない。むしろ正反対だ。誰かを守りたいという気持ちが、人より強い。弱っている人を見ると放っておけない性格だ。それは知っていた。五年間、婚約者として隣で見てきたから。
だから殿下の目はいつも、リナの方を向く。
リナが困った顔をするたびに、殿下が動く。
エリーゼが何かを言うたびに、殿下がリナを庇う。
(……殿下のためにやってきた。でも殿下には届いていなかった)
怒りは来なかった。
怒れるほど、まだ力が残っていない気がした。ただ「どうして」とだけ思う。そしてすぐ「どうでもいい」になる。
それが怖かった。
五年前なら、もう少し何かを感じられたと思う。悔しいとか、悲しいとか。
今は感情が遠かった。疲れが摩耗に変わると、怒りすら出てこなくなる。
(……摩耗、か)
エリーゼはペンを置いた。
窓の外は暗かった。月だけが静かに出ていた。
令嬢の役割をこなすことに、もう慣れすぎていた。慣れすぎて、自分が何のためにやっているのかを考えることも、いつのまにかやめていた。
殿下のために、と思っていた。
でも今日のあの目の動きを見て、ふと思った。
殿下には、ちゃんとした目を持っていただかなければならない。
誰が本物で、誰が演じているのか。見分けられる目を。
(……だから調べる。それだけのことだ)
怒りからじゃない。そういうことにしておこう。
そう思って、エリーゼはもう一度ペンを手に取った。
今日見たことを、日付と一緒に書き留めた。
几帳面で、正確に。感情は一文字も入れずに。
◇
翌日も、その翌日も、同じ朝が来た。
スイッチを入れる。校門をくぐる。食堂でリナを見かける。
取り巻きが囁く。エリーゼが口を開く。リナが困った顔をする。殿下が動く。
授業で同じことが起きる。茶会で同じ言葉が飛ぶ。
全部、同じだった。
ただ一つだけ変わったことがあった。
エリーゼが、毎日少しずつ、机の引き出しに何かを書き足していることだ。
それだけが、今日の自分とこれまでの自分との違いだった。
(……また同じだ)
エリーゼは廊下を歩きながら、心の中でそう呟いた。
でも今日の「また同じだ」は、昨日までと少しだけ違う質を持っていた。
諦めではなかった。虚しさでもなかった。
ただ、静かに見ている、ということだった。
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