第26話 「早退令嬢は、少し複雑」
旅する少女の本を、読み終えた。
最後の一ページをめくったとき、少しの間、本を閉じられなかった。
旅する少女は、旅の果てで何かを手に入れたわけではなかった。何かを成し遂げたわけでもなかった。
ただ、歩いてきた。知らない場所を、知らない人と出会いながら、最後の国の最後の道を歩き終えて、最初の場所に戻っていた。旅の始まりと同じ場所だった。でも、少女の目に映る景色は、旅の前と全然違って見えていた。
終わりではなく、また始まるところで、物語が閉じていた。
(……終わった)
エリーゼは静かに本の表紙をしばらく見ていた。
悲しくはなかった。でも、何かが静かに落ち着いた感じがした。十歳のときに取り上げられて、七年ぶりに続きを読み始めて、ここまで来た本だった。最後まで読めた。
転校生がエリーゼの様子に気づいた。
「終わったのか」
「……ええ。今」
「どうだった」
エリーゼは少し考えた。
「……旅の最後に、最初の場所に戻るんです。でも、同じ景色が全然違って見えていて。それが、なぜか」
言葉が続かなかった。
「うまく言えないのですが、よかったです」
転校生が少し間を置いた。
「そうか」
それだけだった。でも、悪い間ではなかった。
エリーゼはもう一度、表紙を見た。それから、最初のページを開いた。
「また最初から読みます」
「そうか」
「今度は、終わりを知った状態で読むので、きっとまた違うと思って」
転校生は何も言わなかった。でも、本に視線を落とす前に、少しだけ頷いた気がした。
中庭の光が、少しだけ傾いていた。
◇
翌日の廊下で、光景を見かけた。
少し先で、転校生が立ち止まっていた。向かいにイザドラが立っていた。
「先日の薬品の件、実習室にいたと聞いたが」
転校生の方から、先に声をかけていた。
「大丈夫だったか」
「まあ、ヴァイセンベルク様がご心配してくださるなんて嬉しいわ。私は全然平気でしたわよ」
「怪我がなかったなら、よかった」
イザドラが笑った。それから、転校生の隣に並んで歩き始めた。
「せっかくだから、少し一緒に歩いてもよいかしら? もっと、ゆっくりお話ししたくて」
「少しなら」
二人が廊下を歩いていった。
エリーゼは少し離れた場所から、その後ろ姿を見ていた。
イザドラが転校生に向かって笑っていた。転校生が何かを言うたびに、楽しそうに相槌を打っていた。
(……仲良さそう)
そう思った。思った瞬間に、胸の中に何かが生まれた。うまく名前がつけられない、少し重たいものが。
エリーゼは視線を前に戻して、廊下を歩き始めた。
◇
中庭に着くと、今日はベンチが空いていた。イザドラが来ることはなくなっていた。
エリーゼはいつものベンチに座って、本を開いた。
最初のページから読んでいた。知っている話なのに、少女の一言一言の意味が、前回読んだときと少し違って見えた。
でも今日は、文字があまり頭に入ってこなかった。
廊下で見た光景が、頭の端にあった。
(……別に、いいじゃないか)
そう思った。転校生が誰と話しても、それはエリーゼには関係のないことだった。イザドラが隣を歩いたとしても、それも転校生の話だった。
でも。
「嫌だな……」
思わず、口から出た。
声に出てから、エリーゼは少し固まった。誰かに聞かれたかと思って、周囲を見た。中庭に人はいなかった。
(……何が嫌なんだ、自分は)
頭の中で、言い訳が始まった。別に嫌というわけではなく、ただ少し気になっただけで、気になるのは最近あの辺りをよく通るからで、目に入るのは仕方がなくて、だから嫌というわけでは全然なくて。
本を持つ手が、少し止まっていた。
(……うるさいな、自分で自分が)
エリーゼは本のページを、少し強めにめくった。
◇
転校生が来たのは、いつもより少し遅かった。
何も言わず、いつものベンチに座った。本を開いた。
エリーゼはしばらく何も言わなかった。
でも、少しして、口が動いた。
「……無理してここへ来なくてもいいんですよ」
転校生が顔を上げた。
「どうした? 急に」
「他に行きたい場所があるなら、そちらに行っても」
「来たいから来ている」
転校生が短く言った。
「少し用事があったから遅くなっただけだ」
「……そうですか」
エリーゼは本に視線を落とした。
(……どうしてこんなこと言ってしまったのだろう)
ただ、エリーゼは止めることができなかった。
廊下でも、放課後でも。転校生がイザドラと話す回数が、最近増えていたことを知りたかった。
「……最近、イザドラ様と何を話しているんですか」
聞いてしまってから、少し後悔した。でも聞いてしまった。
転校生が本から顔を上げた。少しの間、エリーゼを見た。
「俺のことは気にするな」
それだけ言って、また本に視線を落とした。
エリーゼはしばらく、転校生の横顔を見ていた。
(……気にするな)
気にするな、と言った。イザドラのことに踏み込んでほしくない、ということだろうか。二人の間の話に、口を出すな、ということだろうか。
(……そういうことか)
胸の中で、何かが少し冷たくなった気がした。
エリーゼは本に視線を戻した。ページをめくった。旅する少女が、最初の街を出ていくところだった。
今日は、その一行が、少し長く見えた。
◇
夕方、中庭を出るとき、二人で門まで歩いた。
しばらく、お互い何も言わなかった。
門のところで、転校生が少し立ち止まった。
「さっきの話」
「……何ですか」
「気にするなというのは、お前を邪険にしたわけじゃない」
エリーゼは転校生を見た。
転校生は前を向いたまま、少しだけ続けた。
「ただ、関わってほしくない。今は」
「……なぜ」
「それも、今は言えない」
転校生がそれだけ言って、歩き始めた。
エリーゼはその背中を少しの間、見ていた。
(……関わってほしくない)
なぜなのかは、まだわからなかった。でも、「気にするな」と「関わってほしくない」は、少し違う意味だとわかった。
さっき冷たくなった気がしたものが、少しだけ溶けた。全部ではなかったが、少しだけ。
夕方の光が、道に長く伸びていた。
エリーゼは歩き始めた。空が、秋らしく高かった。
◇
その日の夕方、廊下でイザドラがリナに声をかけた。
「今日も助かったわ、リナさん」
笑顔だった。いつもの、楽しそうな笑顔だった。
「あの令嬢、昨日まであんなに強気だったのに。あなたが一言添えてくださっただけで、ころりと変わったわね」
「……お役に立てたなら、よかったです」
リナが笑顔で答えた。
「本当に、あなたは使いやすいわ」
イザドラが言った。褒めているような、それだけではないような声だった。
「あなたが人気が出ていた理由がわかったわ。私が近づきにくい相手にも、すんなり入っていける。おかげでずいぶん助かっているの」
「本当に、人を欺くことに関しては、お見事ですわね。これからも期待していますわよ」
リナは微笑んだ。
「恐れ入ります。イザドラ様」
イザドラが先に歩いていった。
リナはその背中を、少しの間だけ見ていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
続きが気になる!と少しでも思っていただけたなら、
評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また次回でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)/




