第17話 「ヒロインの、崩れた朝」
夏季休みが明けた。
この休みを、ただ過ごしていたわけではなかった。
殿下との関係は終わった。でも、学園での立場はまだ終わっていない。あの応接室での話は、殿下が「ここだけに留める」と言った。学園への報告も保留だ。広まってはいない。ならば、まだ動ける。
ばれていない。それだけが、私の手札だった。
休みの間、静かに考えていた。どう立て直すか。どこから始めるか。焦らず、丁寧に。今までもそうやってきた。また同じようにやればいい。一から積み上げ直す覚悟はあった。まだ終わっていない。終わらせない。
再出発を、静かに準備していた。
だから今日、学園の門をくぐるとき、私の足取りは揺れていなかった。笑顔を作った。いつもの、柔らかい笑顔を。
大丈夫だ。今日から、また始めればいい。
そう思っていた。
◇
最初は、気のせいだと思った。
廊下を歩いていると、前から来た令嬢と目が合った。いつもなら軽く会釈してくれる子だった。でも今日は、目が合った瞬間に少し早足になって、そのまま通り過ぎた。
(……授業に急いでいるのかもしれない)
自分にそう言い聞かせた。ばれていないはずだ。あの応接室にいたのは三人だけだった。殿下は「ここだけに留める」と言った。広まるはずがない。
次の廊下でも、同じことが起きた。いつも話しかけてきてくれた男子生徒が、私を見た瞬間に視線を逸らした。軽く会釈する間もなく、別の方向に歩いていった。
(……気のせいだ)
また同じことを思った。でも今度は、少し間があってから思った。すぐには思えなかった。
食堂に入ったとき、気のせいではないとわかった。
いつも座っていた席の近くにいた令嬢たちが、私が近づくと話を止めた。目を合わさなかった。荷物を持って、別のテーブルに移っていった。
音もなく、静かに、離れていった。
(……何かが、ある)
食堂の中を見回した。いくつかの視線がこちらに向いていた。でも、どれもすぐに逸れた。誰も私の目を見なかった。
胸の奥で、何かが冷たくなった。
ばれていないはずなのに。
◇
(……まさか、ばれているのか)
頭の中で、否定しようとした。ばれるはずがない。あの場にいたのは三人だけだ。殿下は留めると言った。セドリックが外に話すはずもない。ばれていない。ばれているはずがない。
でも、じゃあなぜ。なぜ今日、皆がこんな目をしている。
答えが出なかった。出ないのに、嫌な汗だけが背中に滲んだ。
確かめようとした。いつも話してくれた令嬢に声をかけた。
「少し、よろしいですか」
「あ……ごめんなさい、今から授業で」
笑顔だったが、目が泳いでいた。そのまま行ってしまった。
別の生徒にも声をかけた。同じだった。用事があると言って、去っていった。
(……誰も、話してくれない)
夏季休みの前までは、こんなことはなかった。私に声をかけられれば、みんな立ち止まってくれた。話してくれた。それが当たり前だった。
それが今日、一日で全部変わっていた。
おかしい。何かがおかしい。でも何がおかしいのかが見えなかった。
応接室でのことが漏れたのか。でも殿下は「ここだけに留める」と言った。セドリックが動いたのか。でもあの調査はすでに終わっているはずだ。では何が……。
頭の中で考えを巡らせるたびに、答えが出なかった。出ないのに、嫌な予感だけが育っていった。
(……誰かが、動いた)
でも誰が、何を、どこまで動かしたのかが、全部見えなかった。見えないことが、一番怖かった。
◇
午後の廊下を歩いていたとき、前から一人の令嬢が歩いてきた。
白金色の髪だった。
カーレン伯爵……いや、侯爵家の令嬢。イザドラ・カーレン。同じ学年で、存在は把握していた。家柄は高い。でも、今まで大きく動くことのなかった令嬢だった。私の計算の中では、脅威として扱う必要のない人間だった。
そのイザドラが、まっすぐ私を見て歩いてきた。
他の生徒たちのように視線を逸らさなかった。避けもしなかった。むしろ真っ直ぐに、ためらいなく向かってきた。
私の前で、立ち止まった。
そして、にっこりと笑った。
作った笑顔ではなかった。本当に、心の底から楽しんでいるような笑顔だった。
「ごきげんよう、リナ様」
明るい声だった。友好的ですらあった。
でも、その笑顔の奥にある何かが、私の背筋に冷たいものを走らせた。
三年間、人の笑顔の奥を読んできた。その目が、今この瞬間、はっきりと告げていた。
(……この人は、全部知っている)
何を知っているのかはわからなかった。でも、「知っている人間の顔」をしていた。そして、それをひどく楽しんでいた。
イザドラはそれだけ言って、私の横を通り過ぎた。振り返らなかった。白金色の髪が、廊下の先に消えていった。
私は廊下に立ち尽くした。
(……なぜ、あの令嬢が)
今まで脅威として見ていなかった。計算の外に置いていた。なのになぜ今日、あの目で、あの笑顔で、私の前に現れたのか。
何かを知っている。何かを持っている。そして、それを使うつもりでいる。
その確信だけが、じわりと広がっていった。
◇
夜、自室に戻ってから、私はしばらく窓の外を見ていた。
今日一日で何が変わったのかを、頭の中で整理しようとした。でも、整理できなかった。情報が足りなかった。
ばれていないはずだった。でも何かが広まっていた。
誰かが動いた。でも誰なのかわからなかった。
イザドラが笑っていた。でも、何を知っているのかわからなかった。
わからないことが多すぎた。三年間、わからないことをこのまま放置したことは一度もなかった。必ず情報を集めて、必ず手を打った。でも今夜は、何から手をつければいいのかすら、思いつかなかった。
(……何かが、起こる)
今日一日で感じた違和感が、全部一つの方向を指していた。
それが何なのかは、まだわからなかった。
でも止められないことだけは、わかっていた。
机の上に、何も置いていなかった。書くべき計画も、打つべき手も、今夜は何も思いつかなかった。
ふと、自分の手を見た。
震えていた。
初めてのことだった。
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