第16話 「早退令嬢の、夏季休み」
夏季休みに入って、三日が経った。
エリーゼの日々は、想像していた通りだった。
朝、決まった時間に起きる。身支度をして、朝食を取る。父は書斎に籠もり、母は来客の対応や書簡の整理で午前中が終わる。エリーゼには、誰かに何かを頼まれることもなく、かといって自由に出かける当てもなかった。
自室の窓から庭を眺めた。庭師が花壇の手入れをしていた。整った庭だった。でも、学園の中庭とは違った。誰かと並んで座るベンチもなく、本のページをめくる音が響く静けさもなかった。
(……長い)
三日でそう思うなら、休みの残りはもっと長く感じるだろう。
婚約破棄の件は、まだ家の中で尾を引いていた。父は以前より口数が減った。母は表向きには何も言わないが、食事の席での沈黙が重かった。「もう、結構です」と言ったあの夜から、三人の間の空気は元に戻っていなかった。
翌日、エリーゼは孤児院へ向かうことにした。
◇
王都の外れにある孤児院には、以前から折々に訪問していた。
令嬢としての慈善活動、という名目ではあったが、エリーゼにとってはそれだけではなかった。子供たちは、エリーゼに余計なことを何も求めなかった。令嬢らしくある必要がなかった。ただそこにいれば、一緒に遊んだり、本を読んだりできた。
孤児院の門を入ると、子供たちが走り寄ってきた。
「エリーゼお姉さん!」
「来てくれた!」
エリーゼは少し驚いた。こんなふうに名前を呼ばれることに、学園では慣れていなかった。
「久しぶりね。みんな元気だった?」
「元気! ねえ、今日は何しに来たの?」
「会いに来たの」
「それだけ?」
「それだけよ」
子供が不思議そうな顔をした。エリーゼはおかしくなって、声を出して笑った。
作った笑い方ではなかった。
午後の時間を子供たちと過ごした。本を読んだ。庭で遊んだ。転んで泥だらけになった子供の手を拭いてやった。令嬢としての作法も、正しい笑い方も、ここでは何も要らなかった。
帰り際、一番小さな子が手を握ってきた。
「また来る?」
「来るわ」
「約束?」
「約束よ」
子供が満足そうに笑った。
エリーゼはその笑顔を見ながら、ふと思った。
約束を、こんなに気軽に言えたのはいつ以来だろう。
答えは出なかった。でも、悪い気分ではなかった。
◇
孤児院に行ったり、王都の書店に立ち寄ったりしながら、数日が過ぎた。
学園にいるよりは静かな日々だった。でも、思ったより悪くはなかった。一人で出かけることに、少しずつ慣れていった。誰かの目を気にせず歩ける街は、意外と広かった。
それでも家に戻ると、三人の間の沈黙は続いていた。
(……まだ、時間がかかるのかな)
そう思いながら、エリーゼはその日も夕食を終えた。
◇
夏季休みに入って数日が経ったある日の午後、屋敷の前が急に騒がしくなった。
エリーゼが自室で勉強をしていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。使用人の一人が扉をノックした。
「お嬢様、大変です。ヴァイセンベルク公爵家の若様がお見えになっていて……!」
「……ヴァイセンベルク?」
エリーゼはその家名を頭の中で繰り返した。転校生の、家名だった。
「突然いらっしゃって、旦那様が応接間にご案内しているのですが、奥様も大変お慌てで」
理由がまるでわからないまま、エリーゼは立ち上がった。
廊下を歩きながら、何が起きているのかを考えようとした。でも、何も思いつかなかった。
応接間の前に立った。扉越しに、声が聞こえた。
転校生の声だった。
「此度は突然の訪問、大変失礼いたしました。それと……以前、当家の事情により急なご無礼をお掛けしたこと。改めてお詫び申し上げます」
低く、落ち着いた声だった。
父の声が続いた。
「……いえ。そのようなことは、こちらこそ」
いつもより、少し震えていた。
母の声もした。何かを言おうとして、言葉にならないような、そういう間があった。
エリーゼは扉を開けた。
転校生が父に向かって頭を下げていた。母が隣で、目元をそっと押さえていた。
三人がエリーゼの方を見た。
父が、少し安堵したような顔になった。
「ようやく来たか。エリーゼ、お客様だ。ヴァイセンベルク公爵家のルーカス様がわざわざお越しくださった」
転校生がエリーゼを見た。
「ようやく来たか」
それだけだった。説明も謝罪も、何もなかった。
「……なぜ、うちに」
「会いに来た」
父が少し咳払いをした。
「せっかくだから、エリーゼ、庭でもご案内して差し上げなさい。ルーカス様もどうぞ、ごゆっくり」
そう言いながら、父の目が「早く行きなさい」と語っていた。エリーゼはこんな父の顔を見るのは久しぶりだった。
◇
庭に出た。
夏の日差しが、庭木の葉を明るく照らしていた。花壇には色とりどりの花が咲いていた。
「なぜ、うちに来たんですか」
並んで歩きながら、エリーゼは聞いた。
「会いに来た」
「それは聞きました。でも事前に連絡もなく、突然」
「それについては失礼した。次からは先に知らせる」
エリーゼは少し拍子抜けした。謝るとは思っていなかった。
「……次があるんですか」
「あるかもしれない」
また一言だった。エリーゼは少し呆れた。でも、怒る気にはならなかった。
庭をゆっくりと歩いた。時折訪れる沈黙は、中庭の時と同じで不思議と苦ではなかった。花壇の花のことを少し話した。転校生は特に感想を言わなかったが、立ち止まって見ていた。
「夏季休み中、孤児院に行ってきたんです」
「どんな場所だ」
「王都の外れにあって、子供たちがたくさんいて。令嬢としての慈善活動、という名目なんですけど、私にとっては特別な場所で」
「特別、とは」
「あそこでは、何も作らなくていい。ただそこにいるだけで、子供たちが話しかけてきてくれて」
短く「そうか」と言った。その横顔は、驚くほど穏やかだった。
「また行くのか」
「……ええ。また来るって、約束しましたから」
転校生が少し間を置いた。
「良い約束だ」
「そうですね」
真っ直ぐな言葉だった。その響きが心地よくて、エリーゼの心にすとんと落ちる。
しばらく歩いてから、転校生が口を開いた。
「両親との仲は、どうだ」
「……なぜそれを」
「学園で、夕方まで中庭にいた。家に居場所がない気がすると言っていた」
覚えていたのか、とエリーゼは思った。あれは少し本音が漏れただけだったのに。
「……よくはないですよ。婚約破棄のことで、ぎくしゃくしていて。食事もいつも通りのはずなのに、おいしいと思えることが減りました」
言ってから、少し驚いた。そんなことまで言うつもりはなかった。
「時間がかかるものだ」
「そうですね」
「でも、取り戻せるものもある」
それだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
エリーゼはその言葉を少し考えた。
ただの励ましのように聞こえた。でも、何かもう少し深いところから来ている言葉のような気もした。どちらなのかは、わからなかった。
庭の木が、風で静かに揺れた。
◇
屋敷の中では、父と母が応接間の窓からこっそりと庭を覗いていた。
カーテンの隙間から、二人分の顔がそろりと覗いた。
「……仲良さそうじゃないか」
父が小声で言った。
「そうね。でもあなた、そんなにじっと見たら気づかれてしまうわよ」
母も小声で言いながら、父よりも顔を前に出していた。
「エリーゼがあんなふうに話しているのは、久しぶりに見た気がする」
「……そうね」
母の声が、少しだけ柔らかくなった。
「ルーカス様は、ちゃんとエリーゼの話を聞いていらっしゃるわね」
「うん。まあ、そういう子だったからな」
父が静かに言った。それ以上は続けなかった。
二人でしばらく、庭を歩く二人の後ろ姿を眺めていた。
◇
庭が夕暮れの色に染まり始めた頃、父が庭の入口から顔を出した。
「ルーカス様、よろしければ夕食をご一緒に……」
「お気持ちは大変ありがたいです」
転校生が穏やかに答えた。
「本日は突然お伺いしたにもかかわらず、温かく迎えてくださり、本当にありがとうございました。今日のところはこれで失礼いたします」
父が「そうですか、それは残念ですな」と言った。本当に残念そうだった。
転校生が玄関へ向かう前に、エリーゼの隣で少しだけ歩を緩めた。声を低くして、静かに言った。
「今夜の食事は、美味しければいいな」
「……え?」
振り返ったときには、転校生はもう歩き出していた。
エリーゼはその背中を見ながら、今の言葉の意味を考えた。
なぜ夕食の話をしたのか。
ただの思いつきなのか。それとも、何か別の意味があったのか。
よくわからなかった。
◇
その夜の夕食は、婚約破棄の前と同じだった。
少なくとも、エリーゼにはそう感じられた。
父が口を開いた。今日の庭の花のこと。夏の暑さのこと。他愛のない話だったが、それが続いた。母も、少し話した。孤児院でどうだったかを聞いてきた。
「楽しかったの?」
「……ええ」
「そう。よかった」
それだけだったが、母が聞いてきたこと自体が久しぶりだった。
婚約破棄の後からずっと、三人で食卓を囲んでも誰も何も言わなかった。それが今夜は違った。声があった。返す言葉があった。
今日の夕食は、久しぶりにおいしかった。
エリーゼは食事をしながら、その声を聞いていた。
食事が終わって、父が立ち上がる前に言った。
「ルーカス様は、立派になられたな」
それだけだった。エリーゼには何のことかわからなかった。
転校生と父の間に、何か話があったのだろうとは思った。聞こうとして、少し迷った。でも今夜の、この久しぶりの食卓の余韻を壊したくなかった。だから、深く聞かないことにした。
(……それでいい)
そう思った。
自室に戻って、窓から外を見た。星が出ていた。夏の夜は、空が近い気がした。
(……取り戻せるものもある)
ふと、転校生の言葉が浮かんだ。
今夜の食卓が、その言葉と少し重なった気がした。
夏季休みの残りが、今日の朝より少しだけ億劫ではなくなっていた。
◇
同じ夜、王都の別の場所で。
白金色の髪の令嬢が、机の前に座っていた。
手紙を書いていた。宛先は書いていなかった。でも、令嬢の口元には薄い笑みがあった。
ペンが、紙の上を滑った。
夏季休みが終わる頃には、準備が整っているはずだった。
令嬢はペンを置いた。窓の外の夜を眺めた。王都の灯りが、遠くに広がっていた。
「休み明けが、楽しみだわ」
誰に言うでもない、独り言。
その声は、楽しそうだった。ひどく、楽しそうだった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
続きが気になる!と少しでも思っていただけたなら、
評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また次回でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)/
※次回は再びリナ視点になります!




