第15話 「早退令嬢と、夏の前」
夏季休みまで、あと数日だった。
学園の空気が、少しだけ浮いていた。廊下を歩く生徒たちの声が明るかった。どこへ行くか、誰と何をするか、そういう話が至るところで聞こえた。
エリーゼにとって、夏季休みは少し違う意味を持っていた。
学園にいる間は、中庭がある。図書室がある。一人でいられる場所がある。でも家に戻れば、そういう場所がない。父と母がいて、使用人がいて、ヴァルドラン侯爵家の令嬢として過ごさなければならない時間が続く。
婚約破棄の件は、まだ家の中で尾を引いていた。父は以前より口数が減った。母は表向きには何も言わないが、食事の席での沈黙が重かった。「もう、結構です」と言ったあの夜から、三人の間の空気は元に戻っていなかった。
(……長い休みになりそう)
そう思いながら、エリーゼは今日も中庭のベンチに座っていた。
本を開いていたが、あまり読み進められていなかった。
◇
転校生が来たのは、いつもより少し遅い時間だった。
エリーゼが顔を上げると、転校生がいつものベンチに向かって歩いてくるところだった。座って、本を開いた。しばらく、二人とも黙っていた。
夕方の光が、中庭に斜めに差し込んでいた。木の葉が風で揺れた。
転校生がふと顔を上げた。
「今日も遅くまでいるな」
「……ええ」
「毎日そうだ。授業が終わってからずっといる」
エリーゼは少し迷ってから、正直に答えた。
「家に帰るのが、少し遅くなっても構わないので」
「家に帰りたくないのか」
直接だった。エリーゼは少し驚いたが、否定する気にもなれなかった。
「……居場所が、あまりない感じがして」
「そうか」
転校生は特に深く聞かなかった。追い打ちをかけることも、慰めることも、アドバイスをすることもなかった。ただ「そうか」と言っただけだった。
それが、エリーゼには少し楽だった。
同情してほしいわけではなかった。ただ、誰かに言えたことが、少しだけ軽くなった気がした。
「ヴァイセンベルク様は、夏季休みはどうされるんですか」
「屋敷に戻る」
「楽しみですか」
「別に」
エリーゼは転校生を見た。「別に」の一言に、何かが滲んでいる気がした。でも聞かなかった。聞かないことが、この人への礼儀だと思った。
風がまた吹いた。
◇
しばらくして、転校生の視線がエリーゼの首元で止まった。
「それは」
「え?」
「そのペンダント」
エリーゼは首元に手をやった。普段から着けている、小さなペンダントだった。透明な石が一つ、細い銀の鎖に下がっている。派手ではなかった。でも、エリーゼには大切なものだった。
「……母からもらったものです。いつか役に立つからと言って」
「綺麗だな」
転校生が言った。評価でも褒め言葉でもなく、ただ事実を言うような声だった。
エリーゼはペンダントを少し持ち上げた。夕方の光を受けて、石が淡く光った。
「お守りみたいなものです。どんな役に立つのかは、まだわからないんですけど」
「持っていれば、わかる日が来る」
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
また短かった。でも、その一言が妙に腑に落ちた。
エリーゼはペンダントをそっと胸元に戻した。
(……持っていれば、わかる日が来る)
その言葉を、少しの間頭の中に置いた。
◇
夕方が深くなった。
転校生が立ち上がった。本を閉じて、中庭を出ていく前に、エリーゼの方を振り返った。
「夏季休みも、ここに来るのか」
エリーゼは少し考えた。
「……学園は閉まっていますから、来られませんね」
「そうか」
それだけ言って、転校生は中庭を出ていった。
エリーゼはその背中を少しだけ見てから、また本に視線を落とした。
(……来られないか)
別にそれだけのことだった。夏季休みが終われば、また学園が始まる。中庭にも来られる。ただそれだけのことだった。
なのに、少しだけ焦燥感に似たものが残った。
なぜそう感じるのかは、わからなかった。わからないまま、本のページをめくった。
旅する少女は、今日も前に進んでいた。
◇
夏季休み前日。
学園は一日中、どこか落ち着かない空気だった。授業よりも休暇の話の方が盛んで、先生方も心なしか表情が緩んでいた。
エリーゼは放課後、いつものように中庭へ向かった。
転校生はすでにいた。今日は本を開かずに、ただ空を見上げていた。珍しかった。
「今日は本を読まないんですか」
「読む気分じゃない」
「珍しいですね」
「そうか」
エリーゼはいつもの場所に座った。今日は本を出さなかった。なんとなく、そういう気分だった。
二人で、同じように空を見た。
夏の空だった。入道雲が遠くに立っていた。風は少しだけ、草の匂いがした。
「明日からは、ここも随分と静かになってしまうんですね」
エリーゼは気づいたら言っていた。
「静かになるのではない。元の場所に戻るだけだ」
「……そうですね」
彼は、少しの間をおいて言葉を継いだ。
「学園が始まれば、またここに来る」
それだけだった。
でも、その一言が、先ほどの焦燥感の残りを静かに拭っていった。
エリーゼは空を見たまま、少しだけ息をついた。
「……なら、少しだけ、夏が短く感じられそうです」
転校生は何も言わなかった。ただ、同じように空を見ていた。
入道雲が、風に少しだけ形を変えていた。
◇
同じ頃、学園の別の場所で。
白金色の髪の令嬢が、窓の外を見ていた。
紫がかった瞳が、中庭から出ていく銀髪の転校生の後ろ姿を、静かに追っていた。
口の端が、かすかに上がった。
「……夏季休み、か」
独り言だった。聞いている者は誰もいない。
令嬢はゆっくりと窓から離れた。廊下を歩き始めた。
口の端は、まだ少し上がったままだった。
楽しみにしているものがある人間の、そういう顔だった。
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