第14話 「早退令嬢は、気づかない」
リナの件が応接室で静かに決着した、その翌日のことだった。
中庭に出ると、すでに転校生がいた。
いつものベンチに、いつもと同じように座って、本を読んでいた。エリーゼが入ってきても顔を上げなかった。
エリーゼもいつもの場所に座った。本を開いた。
風が木の葉を揺らした。遠くで鳥が鳴いた。
しばらくして、転校生が顔を上げた。
「いつもここにいるな」
エリーゼは少し驚いた。転校生から話しかけてくることは、今まであまりなかった。
「……ヴァイセンベルク様もいつもいらっしゃいますが」
即座に返したら、少し間があった。
「……そうだな」
それだけ言って、また本に目を落とした。
エリーゼも本に視線を戻した。でも少し、おかしかった。口の端が少しだけ上がった。作った笑い方ではなかった。
また少しして、転校生が口を開いた。
「静かだな、ここは」
「ええ」
「気に入っている」
「私もです」
短い会話だった。それだけだった。でも、沈黙が不自然にならなかった。ただ二人で、それぞれの本を読んでいた。
風がまた通り抜けた。
エリーゼはふと顔を上げた。
「一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「こんなところにいていいんですか。いつも女子生徒があなたを探しているのを見かけますけど」
転校生が少し間を置いた。
「いい」
「……それだけですか」
「他に何がある」
エリーゼはしばらく転校生を見た。本当に何とも思っていない顔だった。探されていることも、断り続けていることも、全部どうでもいいという顔だった。
「……すごいですね」
「何が」
「気にならないんですか。嫌われるかもとか、悪く思われるかもとか」
転校生がエリーゼを見た。少し間があった。
「嫌われるかどうかより、自分が何をしたいかの方が先だ」
短い答えだった。
エリーゼはその言葉を、少しの間頭の中に置いた。
自分が何をしたいかの方が先。
(……そういう考え方もあるのか)
令嬢として生きてきた十七年間、そういう順番で考えたことは一度もなかった。誰かにどう見られるか、何が正しいか、何が令嬢らしいか。それが常に先にあった。
「……ヴァイセンベルク様は、なぜこの学園に転校してきたんですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。でも転校生は特に嫌な顔をしなかった。
「約束を果たしに来た。それだけだ」
エリーゼは少し考えた。
「……約束、ですか」
「ああ」
それ以上は話す気がないらしかった。エリーゼは深く追わなかった。
約束を果たしに、この学園へ来た。
(……どんな約束なんだろう)
気になったが、聞けなかった。聞いていいような話かどうか、わからなかった。
二人でまた本に目を落とした。
夕方の光が、中庭に伸びていた。
◇
その夜、クロード・フォルテ第二王子は、王都の貴族たちが集まる夕餐会に出席していた。
こういう席は慣れていた。社交辞令が飛び交って、誰が誰と組んでいるかを読みながら、適切な言葉を返す。いつも通りのことだった。
でも今夜は、少し違った。
隣席の伯爵夫人が、食事の途中で言った。
「そういえば殿下、エリーゼ・ヴァルドラン様とのご縁が解消されたとか。本当のことでございますか」
周囲の会話が、わずかに静まった。
「……ええ、そのようなことになりました」
「まあ」
夫人が扇を揺らした。本当に残念そうな顔だった。
「あの方は素晴らしいお嬢様でしたのに。立ち居振る舞いも、知性も、殿下の婚約者としてこれほどふさわしい方はいないと思っておりましたよ。現王妃様にも引けを取らないあのお姿、本当に華がございましたわ」
向かいの男爵が頷いた。
「ヴァルドラン嬢でしたら、私の妻もよく話しておりましたよ。社交の場での所作が美しいと。緊張している若い令嬢がいると、さりげなく場を整えてくださったとか。なかなかできることではありません」
「本当に。平素はあまり表に出てこられる方ではなかったけれど、出てこられたときの存在感はひとかたならぬものがありましたわ」
話が続いた。
クロードは相槌を打ちながら、グラスを持ったまま少し止まっていた。
(……知らなかった)
エリーゼが社交の場で若い令嬢を気にかけていたこと。現王妃に引けを取らないと言われるほどの存在感があったこと。
自分の婚約者のことを、自分は何も知らなかった。
「殿下はご存知でしたか。ヴァルドラン嬢が昨年の慈善茶会で、孤児院への寄付を個人で取りまとめてくださったことを」
「……いえ」
「まあ」
夫人が少し驚いた顔をした。それからすぐに、何も言わないことにしたような顔をした。
その沈黙が、クロードには重かった。
(……五年間、婚約者だった)
五年間、隣にいた。でも、こうして今夜初めて聞く話ばかりだった。
なぜ知らなかったのか。なぜ見ていなかったのか。
答えは、わかっていた。
自分は、別のものを見ていた。
「本当に惜しいことをなさいましたわね、殿下」
夫人が最後にそう言った。責めているのではなかった。ただ、本当にそう思っているようだった。
クロードはグラスを置いた。
「……そうですね」
その言葉だけが、本音だった。
夕餐会の灯りが、明るかった。でも今夜は、その明るさが少し遠かった。
テーブルを囲む人々の笑い声が続いていた。クロードはその中で、静かに座っていた。
手の中に残っているものを、今夜初めて確かめようとして、何もないことに気がついた。
◇
翌日の中庭も、いつもと同じだった。
エリーゼが先に来て、本を開いた。少しして、転校生が来た。いつものベンチに座って、いつもの本を開いた。
二人とも何も言わなかった。
ここで二人で過ごすようになってから、もうしばらく経つ。会話は多くなかった。でも、一緒にいる時間は積み重なっていた。沈黙が苦ではなくなっていた。むしろ、この静けさが心地よかった。だから今日も、言葉がなくても自然だった。
しばらく読んでいると、転校生が口を開いた。
「昨日の続きを読んでいるのか」
「ええ。なかなか進まなくて」
「面白くないのか」
「面白いんです。だから、もったいなくて」
転校生が少し間を置いた。
「……もったいない」
「終わってしまうのが嫌で、少しずつしか読めなくて。おかしいですか」
「おかしくはない」
それだけ言って、また本に目を落とした。
エリーゼも本に視線を戻した。旅する少女が、また知らない町に入っていくページだった。
少しして、転校生がまた口を開いた。
「俺は、言ったことは忘れない」
突然だった。
エリーゼは顔を上げた。
「……唐突ですね」
「昨日の話の続きだ」
「昨日?」
「嫌われるかどうかより、自分が何をしたいかの方が先だと言った。それと同じことだ。言ったことは忘れないし、したいと思ったことは、する」
エリーゼは転校生を見た。
何か、引っかかった。
言葉の意味ではなかった。言葉の奥に、何か別のものがある気がした。でも、何なのかはわからなかった。
「……ヴァイセンベルク様は、約束を大切にする方なんですか」
「当然だ」
また一言だった。
エリーゼはしばらく、その横顔を見ていた。
銀色の髪が夕方の光に照らされていた。灰色の目が、本の文字を静かに追っていた。
(……なんだろう)
この人のことを、どこかで知っているような気がする。でも、どこで知ったのかが出てこない。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいではない気もした。
エリーゼは本に視線を戻した。旅する少女は、今日も知らない場所を歩いていた。どこへでも行けると笑いながら。
木の葉が揺れた。
夕方の光が、中庭に静かに落ちていた。
(……また、来よう)
そう思った。明日も、ここに来よう。続きが、気になっていた。本の続きなのか、それとも別の何かの続きなのか、自分でもよくわからないまま、そう思った。
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