第13話 「ヒロインの、終わりの午後」
放課後の廊下は、いつもと同じだった。
授業が終わった生徒たちの話し声。窓から差し込む夕方の光。制服の裾が石畳を擦れる音。
全部いつも通りだった。
私だけが、いつも通りではなかった。
応接室への廊下を歩きながら、頭の中で整理していた。想定できる話の種類を、一つひとつ並べた。エリーゼへの件について何か言われるのか。フローラたちの件か。それとも別の何かか。
どんな話が来ても、対処できる。その自信は、まだあった。入学してから今日まで、想定外の状況を幾度も乗り越えてきた。感情で動く人間には感情を返し、事実を求める人間には感情で揺さぶった。それで、ここまで来た。
今日だって、きっとそうなる。
(……大丈夫だ)
自分に言い聞かせながら、応接室の扉の前に立った。
一度だけ、息を整えた。笑顔を作った。いつもの、柔らかい笑顔を。
扉をノックした。
◇
「失礼いたします」
扉を開けた。
クロード殿下がいた。その隣に、セドリック・ランフォードが立っていた。
机の上に、書類の束が置かれていた。
(……書類)
笑顔が、一瞬だけ止まった。止まったことに気づいて、すぐに戻した。でも、その一瞬が、私には永遠のように感じられた。
「リナ、座ってくれ」
殿下が言った。声は静かだった。怒っている声ではなかった。でも、いつもの温かさが、そこにはなかった。
椅子に座った。背筋を伸ばした。笑顔を保った。
(……落ち着け。まだ何も決まっていない)
セドリックが机の上の書類に手を置いた。
◇
「今日この場に呼んだのは、公的な場ではなく、まず事実を確かめたかったからだ」
殿下が口を開いた。
「本件が広間などで公になれば、関係する家柄全てに余計な傷がつく。王家としても、その点は避けたい。だから今日は、まずここだけで事実を確かめたいと思っている」
穏便に。公にせず。事実だけを確かめたい。
(……そういうことか)
私は内心でその言葉を分解した。殿下は王家の体裁を守りたい。それは私にとって、まだ交渉の余地があるということだ。感情に訴えかければ、まだ動かせるかもしれない。
「少し前に、大広間でエリーゼ・ヴァルドラン嬢が書類を読み上げた。その際、書類が床に落ちた」
セドリックが事務的な声で続けた。
「私はそれを拾った。フローラ嬢たちが用意したものと、もう一種類が混ざっていた。表紙に『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』と書かれたものだ」
「……それが、どうかしましたか」
笑顔のまま言った。声は震えていなかった。
「フローラ嬢たちの書類とは、精度が全然違った。だから、書かれている内容を一件ずつ確かめることにした」
その書類の束を手に取り、確認した。
セドリックが話を続ける。
「エルヴィン・バーウェル男爵令息に確認した。リナ嬢から届いた手紙のことを。同じ時期に、クラウス・レイン子爵令息にも同種の言葉が送られていたことを伝えると、二人とも証言に応じた。署名もいただいた」
私の胸の奥で、何かが静かに落ちた気がした。
「調査の過程で、他にも複数の生徒への同様の働きかけが確認された。令嬢たちへの孤立工作についても、当事者の複数から証言を得た。対象を孤立させてから近づくという手口が、今学期だけで少なくとも二件、記録と一致して確認できた」
また一枚。また一枚。
書類をめくるたびに、私の内側で何かが少しずつ削れていった。
(……あの女だけは、見抜いていたのか)
慎重に、丁寧に、誰にも疑われないように積み上げてきた。誰も全体像を見渡せないよう、一人ひとりに合わせて動いてきた。それがうまくいっていると、ずっと思っていた。
なのに、エリーゼだけは。
ただ静かに見ていたあの目だけが、騙されていなかった。
◇
(……待って)
笑顔の裏で、急速に考えを巡らせていた。
この書類はあのエリーゼ・ヴァルドランが作ったものだ。ずっと自分に嫌がらせをしてきたあの令嬢が。
(……でっちあげだ)
最初から私を陥れるために作られたものに違いない。エリーゼが私への嫌がらせを続けてきたことは、殿下も分かってくれているはずだ。
少し前に出た。
「……少し、よろしいですか」
「聞こう」
「この書類を作ったのは、エリーゼ・ヴァルドラン様ですよね」
「そうだ」
「エリーゼ様は、私に嫌がらせを続けてきた方です。殿下もご存知のはずです。そのような方が作った書類が、本当に信頼できるものでしょうか」
声に感情を乗せた。傷ついた、でも必死に訴えようとしている声を。
「それに……エルヴィン様やクラウス様の証言も、もしかしたら誰かに誘導されたのではないでしょうか。セドリック様がお話を聞かれた際に、何か先に情報を与えられたのであれば、その方向で証言してしまうことだって」
「誘導はしていない」
セドリックが静かに言った。
「事実を確認しただけだ。先に情報を与えたのは、ヴァルドラン嬢の書類に記録されていた事柄のみ。それに対して、各自が自分の言葉で答えた」
「でも!」
声が出た。自分でも気づかないうちに、声が大きくなっていた。
「あの方は、ずっと私を傷つけてきたんです。大広間で皆の前で恥をかかせて、殿下の前で私を悪者にしようとして。その方が作った書類を、なぜそのまま信じられるんですか。全部、でっちあげかもしれないじゃないですか」
言ってから、気づいた。
部屋が静かになっていた。
殿下とセドリックが、私を見ていた。怒った顔ではなかった。責めた顔でもなかった。ただ、静かに見ていた。
(……しまった)
声が大きすぎた。笑顔が崩れていた。「傷ついている側」の顔ではなく、感情が剥き出しになった顔をしていた。
深呼吸をした。笑顔を戻そうとした。でも、うまく戻らなかった。
「リナ」
殿下が、静かに言った。
「エリーゼが大広間で書類を読み上げていたとき、私は名前も出所もないと言って遮った。信頼性がないと言った。……正直、あの場ではエリーゼのことをそこまで信じていなかった」
リナは殿下を見た。
「でも今こうして見ると、エリーゼが自分で作った書類は、全部裏付けが取れた。エリーゼは事実を持っていた。それを読もうとしていたが、遮った」
殿下が少し目を伏せた。
「私が間違っていた。その点は、エリーゼに詫びなければならない」
(……殿下が)
エリーゼの名前を出して、詫びると言っている。
一度言葉を切ると、殿下は縋るような、それでいてひどく遠い目で私を見た。
「……そして何より、リナ。ただ私だけを想っていたと、そう信じていた。君の真心だけは、本物だと思っていた」
(……殿下が)
エリーゼの名前を出して、詫びると言っている。
それ以上に、私の「真心」を信じていたと、悲しげに私を否定した。
私の中で、何かが決定的に、修復不可能な音を立てて崩れた。
この学園の頂にようやく手をかけたはずが、
最も強固な土台であった殿下の信頼を、自らの浅はかな行いで、一番無様に蹴り崩してしまったのだ。
(やってしまった……)
取り返しのつかない喪失感が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
セドリックが付け加えた。感情のない、事務的な声だった。
「ヴァルドラン嬢がどういう意図で記録を作ったかはわからない。ただ、書かれていたことは事実だった」
口を開こうとした。
でも、言葉が出てこなかった。
否定しようとしたら、事実だと言われた。誘導だと言ったら、そうではないと返された。でっちあげだと叫んだら、裏付けが取れていると言われた。
どこにも、逃げ場がなかった。
◇
しばらくの沈黙の後、殿下が口を開いた。
「今回確認した内容を踏まえて、私との関係については距離を置く。王家として、これ以上この件に関わることは適切ではないと判断した」
距離を置く。
その言葉が、ゆっくりと頭の中に落ちていった。
「今日の場での話は、ここだけに留める。学園への報告については、今後の状況を見て判断する。それが双方にとって最善だと考えている」
王家の体裁のために、表沙汰にはしない。でも、関係は終わる。静かに、誰も傷つかない形で、全部終わらせる。
それが、今日この部屋に呼ばれた理由だった。
怒鳴られたわけではなかった。責められたわけでもなかった。誰も声を荒げなかった。ただ、事実が積まれて、静かに結論が出た。
今まで積み上げてきたものが、今日この部屋の中で、音もなく崩れていった。
◇
そのとき、
応接室の壁の向こう、廊下の端。
一人の白金色の髪の令嬢が、壁に背を預けて立っていた。
口の端が、ゆっくりと上がった。
(……いいことを、聞いた)
声には出さなかった。でも、その表情がそう言っていた。楽しそうに、何かを手の中に収めたときの顔で、静かに笑っていた。
令嬢はゆっくりと壁から背を離した。誰も来ない廊下を、一人で歩き始めた。足音は静かだった。振り返らなかった。
夕暮れの光の中に、白金色の髪が溶けていった。
◇
席を立ち、お辞儀をした。扉を開けた。
廊下は、がらんとしている。
(……終わった)
誰もいない廊下で、そう思った。
生徒たちが向こうから歩いてきた。話し声があった。笑い声があった。全部いつも通りだった。
でも、その「いつも通り」の中に、もう私の居場所がない気がした。
エルヴィンはもう目を合わせない。クラウスは早々に席を立つ。殿下とは距離を置く。他の人たちも、時間の問題でこの話を知るかもしれない。
(……これ以上、広げてはいけない)
今ここで崩れるわけにはいかない。殿下との関係は終わった。でも、学園での立場はまだ終わっていない。この件がどこまで広まるかが、これからの全てを決める。
エリーゼ・ヴァルドランの顔が浮かんだ。大広間で静かに頭を下げて、扉を出ていった背中。図書室で本を読んでいた、仮面のない横顔。「ちょうどよかったです」と言ったときの、澄んだ声。
あの人は、全部失ったはずだった。
なのに今日、全部を動かしたのはあの人の書類だった。
何も持っていないように見えて、全部持っていた。
(……参った)
壁に手をついた。
夕方の光が長く伸びて、石畳に落ちていた。私の影が、その光の中で薄く伸びていた。
どこへ向かえばいいのか、今の私には、まだわからなかった。
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※もう少しだけ短編分の話が続きます……
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