第12話 「ヒロインの、崩れていく計算」
エリーゼ・ヴァルドランが孤立してから、学園は動きやすくなった。
廊下を歩いていても、あの黒髪が視界に入らない。食堂に入っても、取り巻きたちの固まりがない。授業中に嫌みを言われることもない。
(……清々する)
正直、そう思った。あの存在に神経を削ってきた。困った顔を作るたびに、あの翡翠色の目が計算するように動くのを感じていた。他の令嬢たちとは違う種類の視線だった。怒りでも嫉妬でもなく、ただ静かに「見ている」目。
それがなくなった。
ただ一つ、誤算があるとすれば、「悪役令嬢ボーナス」が消えたことだった。
エリーゼがいびるたびに、リナへの同情が集まった。エリーゼが声を上げるたびに、殿下がリナの側に来た。「傷ついている側」に立ち続けるために、エリーゼの存在は都合よく機能していた。ある意味で、エリーゼはリナにとって最大の舞台装置だった。
それが今、なくなった。
(……でも、どうにかなる)
リナは楽観していた。積み上げた土台は、エリーゼ一人がいなくなった程度では揺るがない。殿下との距離も近い。学園での立場も固まっている。令嬢たちの中にも、自分の味方は十分にいる。
むしろ今は、次の手を打つ絶好の機会だ。
(……ただ、一つだけ確かめておきたいことがある)
エリーゼが本当に「ただ折れただけ」なのか。それとも、まだ何かを企んでいるのか。
あの書類のことが、頭の端に引っかかっていた。あの広間で床に散らばった書類。セドリックが拾い上げた書類。フローラたちが用意したものとは、明らかに性質が違うものが混ざっているように、遠目には見えた。
でも確証はなかった。確証がないから、確かめなければならなかった。
◇
数日後、廊下ですれ違った生徒たちの会話が耳に入った。
「エリーゼ様、最近図書室にいるらしいよ」
「一人で? 取り巻きもいないの?」
「そうみたい。なんか本読んでるって」
「ほんと、急に変ったわよね」
(……図書室)
リナは少し立ち止まった。
本を読んでいる。一人で。取り巻きもいない。
(……本当に、ただ折れただけ?)
判断がつかなかった。エリーゼという人間は、ずっと読みにくかった。怒りで動く人間でも、感情で崩れる人間でもない。あの広間での早退も、リナには最後まで意図が読めなかった。疲れ果てた顔でも、捨てゼリフを吐く顔でもなく、ただ静かに出ていった。あの表情の意味が、今もわからない。
(……直接、確かめに行こう)
リナはいつもの笑顔を作り、廊下を図書室の方へ向けた。
本当に何も考えていないのか。それとも静かに何かを準備しているのか。どちらにせよ、今の状況を自分の目で確認する必要があった。
◇
図書室の扉を静かに開けた。
本の匂いがした。静かな部屋だった。午後の光が窓から差し込んで、埃がゆっくりと浮かんでいた。
入ってすぐ、リナは棚の間を見回した。どこにいるかを先に把握してから、近づきたかった。
窓際の席に、黒髪が見えた。
エリーゼが、本を読んでいた。
(……本当に読んでいる)
意外だった。何かを調べているとか、誰かと密談しているとか、そういう場面を想定していた。でもただ、本を読んでいた。ページをめくるたびに、ほんの少し表情が柔らかくなっていた。
(……あんな顔をするのか、あの人)
リナは少しの間、棚の陰からそれを見ていた。
令嬢としての仮面をつけていないエリーゼを見るのは、初めてだった。顎も上がっていない。扇もない。背中が少し丸まっていた。ただ本を読んでいる、それだけの顔だった。
観察してきたエリーゼの顔と、全然違った。いつも廊下の中心を歩いていた、強気で偉そうなあの令嬢とは、別人のように見えた。
(……これが、本来の顔?)
その疑問が一瞬だけ頭を過ぎった。でもリナはすぐに脇に置いた。今はそれより、確かめることがある。
リナはいつもの笑顔を作って、エリーゼに近づいた。
◇
「エリーゼ様、最近お顔を見かけなくて心配していましたわ」
柔らかい声で言った。
エリーゼが顔を上げた。
リナは瞬時に、エリーゼの表情を読もうとした。動揺しているか。怒っているか。何かを隠しているか。傷ついているか。惨めそうにしているか。
(……読めない)
エリーゼの顔には、何もなかった。驚きも怒りも、警戒も、何もなかった。ただ静かに、リナを見ていた。それだけだった。
「……そうですか」
リナは続けた。ここで引くわけにはいかない。もう少し、何かを引き出さなければ。
「婚約のことも、耳に入りました。大変でしたね」
そう言いながら、エリーゼの表情を丁寧に探った。婚約破棄を言えば、何かが動くはずだった。悔しさでも、悲しみでも、怒りでも。何かが顔に出るはずだった。
エリーゼは少し間を置いた。
「ご心配なく。ちょうどよかったですので」
「……え?」
リナは一瞬、言葉を失った。
「婚約のことです。こちらからもそうしようと思っていましたので」
(……ちょうどよかった?)
想定していた反応ではなかった。婚約を破棄されて「ちょうどよかった」とは、どういう意味だ。強がりか。でも、あの顔は強がりではなかった。本当にそう思っている顔だった。悔しさも悲しみも、一切混ざっていない、澄んだ顔だった。
(……本当に、どうでもよかったのか)
そうだとしたら、エリーゼにとって婚約とは何だったのか。殿下との五年間は何だったのか。リナには理解できなかった。
エリーゼが本のページをめくった。話は終わった、という動作だった。視線が本に戻って、もうリナを見ていなかった。
(……追加で何か言うべきか)
リナはもう一言かけようとした。でも、何を言えばいいのかが浮かんでこなかった。どんな言葉をかけても、あの静かな目に跳ね返されそうな気がした。反応が読めない相手に言葉を重ねるのは、得策ではない。
リナはそっと踵を返した。
本を読んでいるエリーゼの邪魔をしないよう、静かに、音を立てずに図書室を出た。
扉をゆっくりと閉めた。
◇
廊下に出てから、リナは少し立ち止まった。
(……ちょうどよかった)
あの言葉が、頭に残って離れなかった。
怒っていない。悲しんでいない。何かを企んでいる素振りもない。ただ本を読んで、静かにしている。傷ついた様子も、惨めな様子も、まるでなかった。
(……本当に、何もないのか?)
それともあの静けさ自体が、何かなのか。
エリーゼを読もうとしてきた。怒らせて、殿下に庇ってもらって、「傷ついている側」に立ち続けてきた。でもいつも、あの目だけは読めなかった。ただ静かに見ている、事実を積んでいるような、あの目。
(……深く考えすぎか)
リナは首を振った。今の自分には有利な状況が揃っている。エリーゼはもう孤立していて、一人で図書室で本を読んでいる。それだけのことだ。
廊下を歩き始めた。でも、「ちょうどよかった」という声が、しばらく耳の奥に残っていた。
◇
エルヴィン・バーウェル男爵令息の様子が変わったのは、それから間もなくのことだった。
廊下で声をかけたとき、今まで必ず立ち止まって話してくれていたエルヴィンが、少し遠回りをするようにこちらを避けた。
「エルヴィン様、少しよろしいですか」
「あ、ちょっと今から急ぎで……」
視線がうまく合わなかった。足が止まらなかった。いつもの人懐こそうな笑顔が、今日はどこかぎこちなかった。
(……避けている)
リナはその背中を見ながら、胸の奥でゆっくりと何かが動くのを感じた。
エルヴィンがリナを避けたことは、これまで一度もなかった。何かにつけて声をかけてきて、贈り物をするほど好意を持っていた人間が、急に目を合わせなくなった。この変化は偶然ではない。
記憶を辿った。セドリックとエルヴィンが廊下で話していた日のことを。エルヴィンの顔が途中で変わったことを。驚きから困惑へ、そして何かを思い出したような、あの顔の変わり方を。
(……セドリックが、何かを聞いた)
エルヴィンが思い出した「何か」が、今のこの避け方に繋がっている。
では、何を思い出させられたのか。
リナの胸の中で、じわりと嫌な感触が広がった。
◇
数日後、
クラウス子爵令息の様子も変わった。
食堂でたまたま隣の席になったとき、クラウスはいつもより明らかに口数が少なかった。こちらが話しかけても、返事は短かった。笑顔はあったが、目が笑っていなかった。どこかを見ているような、どこも見ていないような、そういう目だった。
「クラウス様、最近何かございました?」
「いや、別に」
「少し、元気がないように見えて」
「そんなことはないよ」
言葉だけ聞けば普通だった。でも声に温度がなかった。いつもならリナの言葉に乗ってきて、少し照れたように笑うクラウスが、今日は全くそうならなかった。
それだけではなかった。
食事の途中で、クラウスが立ち上がった。
「ごめん、用を思い出した」
それだけ言って、早々に食堂を出ていった。
(……クラウスまで)
リナは食堂に一人残って、冷めていく紅茶を見ていた。
エルヴィンが避けた。クラウスの態度が変わった。二人ともセドリックと話した後だ。そしてセドリックはリナの問いを「ただの雑談だ」ではぐらかした。
点が、線になりつつあった。
(……やはり、セドリックが動いている。そしてその動きが、私の周囲の人間を変えている)
見えない場所で、何かが着実に進んでいる。その感覚が、日に日に大きくなっていた。
エリーゼが用意した書類。セドリックがそれを拾い上げた瞬間。あの日からずっと、何かが静かに動いている。
(……エリーゼが集めていたものは、本物だったのかもしれない)
その考えが頭の端に浮かんで、消えなかった。
図書室でのエリーゼの顔を思い出した。ただ静かに本を読んでいた、あの顔。
(……あの人は本当に、ただ本を読んでいただけなのか)
◇
翌朝、殿下の側近の一人がリナに声をかけてきた。
「リナ様。クロード殿下が、少しお時間をいただけないかとおっしゃっています。放課後、応接室にお越しいただけますか」
リナは笑顔で答えた。
「もちろんです。お伝えください」
側近が去った。
廊下に一人残った。
(……殿下が、呼んでいる)
今まで「殿下に呼ばれる」ことは、いつも殿下がリナを気にかけてくれているサインだった。心配してくれている。会いたがっている。「気分転換になれば」と言って、庭を一緒に歩いたこともあった。
でも今日は、その感覚が少し違った。
「少し話がある」ではなく「少しお時間をいただけないか」という言い方。
お時間を、いただく。
その言葉の選び方が、いつもと違った。いつもの殿下なら「少し話せるか」と直接声をかけてきた。側近を通して、丁寧な言葉で呼ぶのは、改まった話があるときの形だった。
(……いつもと、違う)
リナは廊下の先を見た。生徒たちが普通に歩いていた。いつも通りの学園の朝だった。
でもリナの胸の中だけが、静かではなかった。
エルヴィンの目が合わなかった日のことを思い出した。クラウスが早々に食堂を出ていった日のことを思い出した。セドリックに話しかけたとき、「ただの雑談だ」とはぐらかされた日のことを思い出した。
そして、エリーゼの書類の表紙を思い出した。床に落ちて、セドリックが拾い上げた、あの束。
(……放課後、応接室)
廊下の石畳が、今日は少し冷たく見えた。
殿下は何を話すつもりなのか。
放課後まで、まだ時間があった。その時間が、今日に限って、ひどく長く感じた。
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※図書室でのリナとエリーゼのシーンを、短編とは逆の視点で描いてみました!
気になる方は、ぜひ短編の方もあわせてチェックしてみてくださいね(^^♪




