第1話 「早退令嬢と、泥庭の朝」
短編版を多くの方々に評価していただき、
総合ランキング入り、そして5,000pt突破という身に余る反響をいただきました!
皆様の応援のおかげで、連載版の執筆に着手する踏ん切りがつきました。
本当にありがとうございます(*^^*)
短編では描ききれなかった物語を丁寧に紡いでいければと思います。
よろしければ最後までお付き合いいただければ幸いです!
泥は、思ったよりも柔らかかった。
五歳のエリーゼは、侯爵家の庭の隅に蹲って、自分の指先がどこまで土に埋まるかを確かめていた。
普通の令嬢の子供ならば、そんなことはしない。侍女が青くなって「お嬢様、ドレスが」と飛んでくるような光景だった。
でも今日は侍女がいなかった。両親も、お客様との応接で屋敷の奥に引っ込んでいた。
隣のヴァイセンベルク家の方々が、父の招きで数日間滞在されることになった。大人たちにとっては領地の運営やら何やら、難しい話し合いがあるらしかった。エリーゼにはよくわからなかったし、特に知りたいとも思わなかった。ただ、しばらく庭で自由にしていなさいと言われただけで、あとは誰もいなかった。
(……誰もいない)
エリーゼはしばらく、その静けさを味わった。
花壇の向こうで鳥が鳴いている。風が木の葉を揺らしている。遠くで馬車の音がする。
それだけだった。誰も見ていない。誰も「らしくしなさい」と言わない。
指がまた、土に沈んでいった。
◇
「何してんの」
声がして、エリーゼは顔を上げた。
庭の端に、男の子が立っていた。
エリーゼより少しだけ大きそうな、でも子供らしくあちこち砂ぼこりのついた男の子。髪が薄く明るい色をしていて、灰色の目が真っ直ぐこちらを見ていた。
「……泥が、どこまで沈むか確かめていました」
エリーゼは正直に言った。男の子は少し目を瞬かせた。
「そこまで入るの?」
「入ります。指全部、ほら」
ずぼ、と音がした。男の子がじっと見た。
「……すごい」
その一言が、妙に真剣だったので、エリーゼは少し笑った。
笑い方を習った覚えのある笑い方ではなかった。ただ、おかしくて、口の端が上がっただけだった。
「おれも、やっていい?」
「どうぞ」
男の子がしゃがんで、両手で土を掘り始めた。エリーゼも手伝った。
しばらく黙って掘っていたら、穴が思ったより大きくなった。
「名前は?」男の子が聞いた。
「エリーゼ。あなたは?」
「……ルーカス」
短い名前だと思った。でも、なんとなく覚えやすい感じがした。
「お客様のお子さんなの?」
「うん。父上の仕事で、しばらくここにいる」
「そうですか」
エリーゼはうっかり敬語を使ってから、少し考えて、やめた。
「そうか」と言い直した。男の子は気にしていないようだった。
二人でまた掘り続けた。手が泥だらけになった。ドレスの裾に茶色い斑点が増えていった。
それが、全部どうでもよかった。
◇
その日の午後、二人で庭中を走り回った。
虫を探した。石を投げて水たまりを的にした。木の根元にある丸いキノコを数えた。
エリーゼは走ることが久しぶりだった。
令嬢らしく歩くこと、令嬢らしく笑うこと、令嬢らしく喋ること。五歳の体に染み付き始めていた「らしさ」が、走っている間だけ、全部どこかへ消えた。
転んだ。膝が少し擦れた。
ルーカスが「大丈夫か」と覗き込んだ。
「大丈夫です」
「また敬語」
「……大丈夫」
ルーカスが手を引いて、立たせてくれた。手が温かかった。泥だらけだったけれど、温かかった。
笑い声が出た。
走ったから、転んだから、手が泥だらけだから。いろんな理由が混ざって、エリーゼはただ笑った。
ルーカスも、少しだけ笑った。声は出なかったけれど、口の端が上がっていた。
◇
翌日も、その翌日も、二人は庭で遊んだ。
二日目は、雨上がりの庭で水たまりの深さを石で測った。ルーカスが石を落とすたびに泥水が跳ねて、エリーゼのドレスに点々と模様がついた。侍女は半泣きだったが、エリーゼは全く気にしなかった。
三日目は、庭の隅の古い木に登ろうとして、二人とも途中で諦めた。ルーカスが「もう少し大きくなったら登れる」と言って、エリーゼは「そうですね」と言った。「また敬語」とルーカスが言って、エリーゼは「そうだな」と言い直した。それがなんとなくおかしくて、二人でまた笑った。
夕暮れになると大人たちが屋敷の中に2人を呼び戻した。その度に、エリーゼは少しだけ惜しい気持ちになった。
(……まだ遊べるのに)
そう思うことは、今まであまりなかった。時間が惜しいとか、もっとここにいたいとか、そういう感覚を持ったことがなかった。
ルーカスはあと何日いるのだろう。エリーゼはそれを聞けないまま、三日間が過ぎた。
◇
四日目の朝、エリーゼは早起きした。
いつもより早く着替えて、庭に出た。昨日二人で測った水たまりは、もうすっかり乾いていた。
庭の真ん中で待っていると、いつもと違う空気がした。
屋敷の方から、急いた足音が聞こえた。いつもと違う、慌ただしい気配。
しばらくして、ルーカスが庭に出てきた。
服が、いつもと違った。遊ぶための格好ではなかった。旅支度のような、きちんとした格好だった。
「……どうしたの」
エリーゼが聞くと、ルーカスは少し眉を寄せた。
「……急に、帰らなきゃいけなくなった」
「急に?」
「父上の話し合いが、早く終わったから。今日の昼に出る」
今日の昼。エリーゼはその言葉を、少しの間、頭の中で繰り返した。
「……そうか」
なんとか、そう言った。
ルーカスも黙っていた。風が吹いて、木の葉がさらさらと鳴った。しばらく前まで二人で走り回っていた庭が、急に広く見えた気がした。
「……木、まだ登れなかったな」
ルーカスが言った。エリーゼは木を見上げた。昨日諦めた、庭の隅の古い木。
「……そうだね」
「また来たとき、登る」
「……また来るの?」
「わからない。でも」
ルーカスが少し止まった。それから、真っ直ぐエリーゼを見た。
「また会いに来る」
断言するような言い方だった。迷いがなかった。
エリーゼはそれを聞いて、何か言おうとして、やめた。
「……待ってる」
それだけ言った。ルーカスが少し頷いた。
◇
昼前に、ヴァイセンベルク家の馬車が出た。
エリーゼは門の前で見送った。馬車の窓から、ルーカスが一度だけこちらを見た。何かを言おうとしたかどうか、遠すぎてわからなかった。
馬車が動き出した。石畳の音が遠ざかっていった。
門が閉まった。
エリーゼはしばらく、その場に立っていた。
(……また会いに来ると、言っていた)
そう思ったけれど、次にすぐ思った。いつ来るかは、わからない。
貴族の家同士の都合は、子供には決められない。父上同士が決めることだ。
胸のどこかに、小さな引っかかりが生まれた。
名前のない感覚だった。「さみしい」という言葉を、エリーゼはまだうまく使えなかった。ただ、この三日間が急に遠くなった気がして、その遠さが少し、痛かった。
言えなかった。誰にも言えなかった。
侍女が来て、屋敷に連れて行かれた。夕食の時間だった。食卓には父も母もいて、「今日は天気がよかったですね」というような話をしていた。
エリーゼはいつも通り笑って、いつも通り食事をした。
泥だらけになった三日間のことも、登れなかった木のことも、「また来る」という言葉のことも、何も言わなかった。
言い方を、知らなかったから。
◇
翌日も、その次の日も、馬車は来なかった。
エリーゼは毎朝少しだけ早く庭に出た。そのことに自分で気づいていたけれど、誰にも言わなかった。
ある日、使用人の一人が申し訳なさそうな顔でやってきた。
「お嬢様。ヴァイセンベルク家の方には、しばらくこちらへお越しになるご予定がないとのことでございます。旦那様から伺いました」
エリーゼは、使用人の顔を見た。それから、庭の端の古い木を見た。
「……そうですか」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
使用人が何か言いたそうな顔をしたけれど、エリーゼは「ありがとう。もう下がっていいです」と言って、一人になった。
古い木の前に立った。見上げると、枝が思ったより高いところにある。確かに、今の体では届かない。
(……また来たとき、登る、と言っていたな)
エリーゼはそれ以上、考えるのをやめた。
来る来ないは、大人が決めることだ。子供にはどうにもできない。
どうにもできないことを考えても、仕方がない。
それだけのことだった。
でも。
その夜、部屋に戻ってベッドに腰かけたとき、ふとあの笑い声を思い出した。
走りながら笑って、転んで、泥だらけのまままた走って。
「また敬語」と言われるたびに少し恥ずかしくなって、言い直して。
木を見上げながら、「また来たとき、登る」と言った横顔。
思い出したら、胸の奥が少しだけ、温かくなった。
それからすぐ、少しだけ、痛くなった。
エリーゼは目を閉じた。
言えないままでいいと思った。
言えたとしても、どこに言えばいいのかわからなかった。
◇
あの笑い声が、エリーゼの中の「本物」の最後の記憶になるとは、あのときはまだ知らなかった。
どろんこの手。柔らかい泥の感触。「また来る」という短い約束。
そして、ただ走っているだけで笑えた三日間の光。
令嬢らしくない笑い方で、転んで、泥だらけになって、それでも楽しかった日々。
それが。
十二年後のエリーゼに、まだかすかに残っている、一番遠くて一番温かい記憶になった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
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