第9娯楽
次に現れたのは、勇者ではなかった。
鎧ではなく、軽装。
剣でもなく、杖でもない。
腰に下げているのは、小さな道具袋とノート。
「……ここが、本当に魔王城?」
入口の前で、少女は首を傾げていた。
名はルノ。
職業――調査士。
魔物を倒す者ではない。
迷宮の構造、魔力の流れ、環境変化を記録する者だ。
「絶対に嘘だよなぁ……」
・帰りたくなくなる魔王城
・倒されない
・むしろ居心地がいい
・魔族が親切
どれも報告書に書けば即座に却下される内容だ。
「盛りすぎ……」
だが同時に気になって仕方がなかった。
「……だから来ちゃったわけだけど」
ルノはゆっくりと足を踏み入れた。
●
通路は、静かだった。
罠もない。
敵もいない。
だが、不思議と“警戒しろ”という圧がない。
「……気持ち悪いくらい落ち着く」
彼女はノートを開いた。
> 魔王城内部、魔力濃度:通常より高い
> しかし精神負荷:極端に低い
> 威圧感:ほぼゼロ
「設計ミス……じゃないよね」
進むと、小さな分岐が現れた。
三つの通路。
淡く光る道。
装飾の派手な道。
そして、静かな道。
ルノは少し考えたあと、静かな道を選んだ。
「……やっぱり、ここだよね」
理由はない。
ただ、直感だった。
●
しばらく進んだ先。
壁際で、魔族が二人、床を磨いていた。
「……え?」
ルノは思わず足を止める。
敵意はない。
こちらに気づいても警戒の気配がない。
「あ……お客様?」
一人が顔を上げた。
「……え、えっと……通り道、こちらで合ってますか?」
ルノのほうが戸惑っていた。
魔族は少し考えてから言った。
「どこへ行かれる予定で?」
「いえ、特に……調査で……」
「でしたら、ゆっくり見て回られるのが良いかと」
あまりにも自然なやり取りだった。
敵でもなく、演出でもなく、
ただ“ここに住んでいる人”と話している感覚。
「……」
ルノはノートに書き込む。
> 魔族の応対:接客というより、生活圏の住人
●
数時間後。
休憩スペース。
ルノは温かい飲み物を前に、ぼんやりと天井を見ていた。
「……何これ……」
調査は、ほとんど進んでいない。
だが、時間だけが過ぎている。
何か大きな出来事があったわけではない。
戦闘もない。
イベントもない。
なのに。
「……帰りたく、ない……?」
自分の思考に、ルノは小さく笑った。
「……危ないな、これ」
ふと、隣の席に誰かが座った。
「よう」
声をかけてきたのは、見覚えのある顔だった。
「……あ」
勇者だった。
「え、なんで……?」
「いや、普通にいるけど?」
あまりにも当然のように言う。
「調査士?」
「……はい」
「ふーん。じゃあ、記録してんの?」
ルノは少し迷ってから、頷いた。
「……どう書くつもり?」
「……正直、困ってます」
「だろ」
勇者は笑った。
「言葉にしにくいよな、ここ」
ルノは、しばらく考えてから言った。
「……でも」
「うん?」
「たぶん……“安全”なんですよね」
「お」
「危険がないんじゃなくて……
“安心していい空気”が、ある」
勇者は少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「それだ」
短く、確信のこもった声だった。
「それ、書いとけよ」
「……書いて、いいんですか?」
「どうせ誰かが書く」
勇者は立ち上がる。
「だったら、ちゃんと分かってるやつが書いたほうがいい」
ルノはノートを見下ろした。
白紙のページ。
そこにゆっくりと書き始める。
> ここは、魔王城である
> だが、同時に
> 侵入者が“息をついてしまう場所”でもある
ペンが止まらなくなる。
●
玉座の間。
「……新たな来訪者、調査士とのことです」
メルキオの報告に、俺は眉をわずかに上げた。
「勇者以外が……」
「はい。現在も城内に滞在中です」
「問題は?」
「ありません。むしろ……」
ヴァルドが静かに言った。
「城の構造を、正確に理解し始めています」
「……なるほど」
それはつまり。
“体験”が、
“記録”に変わり始めたということ。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……始まったな」
「何が、でしょうか」
「娯楽が、“噂”を超える」
個人の感想ではなく。
流行でもなく。
世界に、「概念」として定着し始める。
●
その夜。
ルノは、城の出口の前で立ち止まっていた。
「……今日は帰るか……」
そう呟いたものの、足は動かない。
しばらくして、小さく笑った。
「……調査士、失格だな」
そして、踵を返す。
出口とは逆方向へ。
城の奥へ。
まだ見ていない場所がある。
まだ書いていないことがある。
こうして、第9娯楽は成立した。
魔王城は、
勇者を惹きつける場所から、
――“記録され、広がっていく場所”へと変わった。




