第17娯楽
城の中は朝の匂いで充満していた。
焼きたてのパンの匂い。
湯を沸かす音。
誰かの笑い声。
ほんの数日前まで、ここが戦場になる寸前だったとは思えないほど、穏やかな空気だった。
「……今日は静かだね」
長い廊下を歩きながら、誰かがぽつりと呟いた。
「うん……」
隣にいた少女が小さく頷く。
「昨日もその前も……」
言葉の先が続かないまま、2人は顔を見合わせた。
静かだ。
あまりにも静かすぎる。
だが、誰もその違和感に踏み込もうとはしなかった。
静けさは、今の彼らにとって「救い」だったからだ。
壊されなかった。
踏み込まれなかった。
今日はここにいていい。
ただそれだけで、胸の奥が少しだけ楽になる。
だから誰も深く考えようとしなかった。
――これがいつまで続くのかなんて。
●
中庭では、簡素な食事の準備が進んでいた。
木の机を並べ、器を配り、湯を注ぐ。
誰かがパンを切り分け、誰かがスープを運ぶ。
かつては魔族と人間が向かい合えば、刃を交えるしかなかった光景。
今はそれが「当たり前」になりつつあった。
そこに混じって、レイもいた。
ぎこちない手つきで器を配りながら、周囲を気にしている。
「……あ、す、すみません……!」
手が滑り、器を1つ落としそうになる。
「大丈夫、大丈夫」
すぐに声をかけてきたのは、年配の女性だった。
「誰だって最初はそうよ」
「……はい……」
レイは深く頭を下げた。
どう振る舞えばいいのかまだ分からない。
ここで何をすればいいのかも、正直よく分かっていない。
自分が何者になろうとしているのかさえ、分からない。
それでも、誰も彼を追い出そうとしなかった。
怒られることもなかった。
責められることもなかった。
ただ、「そこにいる」ことを許されている。
それが何よりも不思議だったし、心地よかった。
「レイ!」
名前を呼ばれて思わず肩が跳ねる。
振り返ると、小さな子どもがこちらを見ていた。
「これ運ぶの?」
両手で抱えられたバスケットの中には、焼き立てのパンがぎっしりと詰まっている。
「あ、うん……そう、だな」
レイが頷くと、子どもはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、いっしょにやろ!」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
こんな風に無条件に近づいてきた人間は、今までいなかった。
少なくとも今までは……
「……ああ」
レイは短かくそう言って、頷いた。
レイの隣を歩きながら、子どもが何でもないように言った。
「ねえ、レイってさ」
「……?」
「居てくれて、ちょっと安心するよね」
足が一瞬止まった。
「……え?」
「だって、ずっと怖そうな顔してるのに、ちゃんと優しいから」
何気ない調子だった。
深い意味もない、ただの感想。
それでも、その言葉はレイの胸の奥に深く沈み込んだ。
――居てくれて、安心する。
今までの人生で、一度でも言われたことがあっただろうか。
訓練では「役に立て」と言われた。
任務では「従え」と言われた。
間違えれば「邪魔だ」と言われた。
だが、「いてくれていい」と言われたことは、なかった。
「……そう、か」
声が少しだけ震えた。
子どもは気づかないまま、楽しそうに前を歩いていく。
その背中を見ながら、レイは思った。
ここにいていい。
ここにいて、誰かの役に立っている。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
●
一方その頃。
王国の中枢、白い大理石の会議室では、低い声が交わされていた。
「……城は当面保留とする」
長い机の奥に座る貴族が、淡々と告げる。
「討伐は行わない、と?」
「“今は”な」
別の男が指を組んだまま答える。
「問題は軍事力ではない。あそこは……思想が危険だ」
「居場所を与え、疑問を植え付ける……か」
「勇者ですら、あちら側に傾いた」
誰かが小さく舌打ちした。
「……ならば、観察を強化すべきだな」
「すでに手は打ってある」
書類が1枚、机に置かれる。
「“民間人”として送り込んだ者たちだ。経歴はすべて偽装済み。疑われることはない」
静かな沈黙が落ちた。
「奴らは報告を続ける。内部の様子、構造、人員……すべて」
誰も感情を挟まなかった。
ただ淡々と、計画が進められていく。
「……平和とは管理するものだ」
その言葉に誰も異を唱えなかった。
●
魔王城の夜は、相変わらず静かだった。
メルキオは、城の高い場所に立ち、遠くの地平線を見つめていた。
何も起きていない。
だからこそ、違和感がある。
あまりにも都合が良すぎる静けさ。
「……嵐の前、か」
誰に向けたわけでもない呟きが、夜に溶ける。
背後から、足音が近づいてきた。
「魔王様」
そう言葉にしたが、立っていた者は魔王ではなかった。
振り返ると、レイが立っていた。
「……どうした」
「……その……」
言葉を探すように視線が揺れる。
「……今日……子どもに、言われたんです」
「?」
「……『いてくれて安心する』って……」
レイは困ったように笑った。
「……どう返せばいいのか、分からなくて……」
メルキオはしばらく黙っていた。
やがて静かに言った。
「……返す必要はない」
「……え?」
「受け取ればいい。それで十分だ」
レイは、しばらくその言葉を噛みしめていた。
「……はい」
短く、でも確かに頷く。
その背中を見送りながら、メルキオは再び夜空へ視線を戻した。
居場所は人を変える。
心を変える。
選択を変える。
そして――世界すら変えてしまう。
この城は、もうただの避難所ではない。
それを彼は誰よりも理解していた。
だからこそ分かってしまう。
このまま終わるはずがない、ということを。
どれほど静かでも。
どれほど穏やかでも。
この「平和」はあまりにも薄い。
それでも。
城の中から聞こえてくる小さな笑い声に、ほんの一瞬だけ目を細めた。
――守る価値は確かにここにある。
まだ誰も知らなかった。
この穏やかな日々が、後に「最後の平和」と呼ばれることを。
そして――
この静けさの裏側で、すでに破滅の種がいくつも芽吹いていることを。




