第10娯楽
勇者はもう地図を見なくなっていた。
どの通路を曲がればどこに出るか。
どの階段を降りればあの休憩室に着くか。
どの扉の先にあの魔族がいるか。
全部身体が覚えている。
「……慣れって怖いよな」
独り言のつもりだった。
「何が、でしょうか」
すぐ後ろから、静かな声が返ってきた。
「……ああ、メルキオか」
振り返ると、四天王の一人がいつものように立っていた。
今日は武装もしていない。ただの案内役の顔だ。
「いや……ここに来るのが、当たり前になってきてさ」
「それは……問題でしょうか」
「問題だろ」
勇者は苦笑する。
「俺、勇者なんだぞ。本来なら、お前らと戦う側だ」
メルキオはすぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙のあと、いつもの調子で言う。
「……それでも、本日もお越しくださったのですね」
「……まあな」
その言い方が、少しだけ胸に引っかかった。
お越しくださった。
歓迎の言葉だ。
もはや「侵入者」への扱いではない。
「今日の娯楽は?」
「特別な催しはございません」
「……そっか」
それでも、足は自然と前へ進いていた。
特別なことがなくても、ここに来る理由になってしまう。
廊下ですれ違う魔族たちが、軽く頭を下げる。
「お疲れさまです」
「本日も、お変わりありませんか」
「ゆっくりしていってくださいね」
もう驚きもしない。
ただ当たり前のやり取りとして受け取っている。
気づけば、あの休憩室に入っていた。
いつもの席。
いつもの温度。
いつもの飲み物。
「……落ち着くな」
ぽつりと漏れた声に、自分で少し驚いた。
落ち着く。
魔王城で。
「……なあ、メルキオ」
「はい」
「俺さ……」
言葉が、途中で止まった。
言おうとした内容を、脳が拒絶した気がした。
「……いや、なんでもない」
「……」
メルキオは何も言わず、ただそこにいた。
その沈黙が、やけに優しい。
だからつい、続けてしまった。
「……俺、本当は」
勇者は視線をカップに落としたまま言った。
「……そろそろ、帰らなきゃいけないんだよな」
その瞬間。
部屋の空気が、ほんのわずかに変わった。
重くなったわけでも、張り詰めたわけでもない。
ただ、なにかが静かに止まった気がした。
「……そうでございますね」
メルキオは、ゆっくりと頷いた。
「勇者様には、本来の使命がございます」
正しい言葉だった。
誰が聞いても正論だった。
だからこそ、胸に刺さった。
「……魔王を倒す、か」
「……はい」
「……お前の主君を、殺すってことだよな」
「……」
否定はなかった。
それが、いちばん苦しかった。
短い沈黙が流れた。
ただ同じ部屋で、同じ時間を過ごしている。
やがて、勇者が小さく笑った。
「……おかしいよな」
「何がでしょうか」
「ここに来る前より、ここに来てからの方が……」
言葉を探す。
「……人として、まともになった気がする」
魔族たちは怒鳴らない。
無理を強いない。
期待を押しつけない。
ただ、いるだけでいいと言ってくれる。
外の世界ではずっと言われてきた。
勇者なんだから。
英雄なんだから。
世界の希望なんだから。
ここではただ――
「お疲れさまです」と言われるだけだった。
「……俺さ」
少しだけ声が震える。
「……ここにいる時の方が、自分でいられるんだよ」
言ってしまった、と思った。
でも、もう止められなかった。
「……戦わなくていいし、強くなくてもいいし……」
「……ただ、座ってるだけで……許されてる感じがして……」
メルキオは、何も言わなかった。
否定も、慰めも、励ましもない。
ただ、そこにいる。
それが、いちばん残酷だった。
「……なあ」
勇者は顔を上げた。
「俺、どうすりゃいい?」
答えを求めてしまった。
メルキオは、ほんのわずかだけ目を伏せてから、静かに言った。
「……それは、私が決めることではございません」
「……そっか」
「……ただ」
珍しく、言葉が続いた。
「勇者様がここで過ごされた時間が……偽りだったとは思いません」
それだけだった。
肯定でも許可でもない。
でも、完全な否定でもなかった。
勇者はそれ以上何も言えなくなった。
しばらくしてから勇者は立ち上がった。
「……今日は帰るよ」
「……はい」
「……また来てもいいか?」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
メルキオは少しだけ目を見開いてから、いつものように静かに頭を下げた。
「……お待ちしております」
その言葉があまりにも自然で。
あまりにも優しくて。
胸の奥がひどく痛んだ。
魔王城の外。
久しぶりに出た空気は、少し冷たかった。
「……帰ってきたはずなのにな」
どこにも帰ってきた感じがしなかった。
振り返れば、あの城がある。
敵の城。
倒すべき場所。
でも――。
「……また来るんだろうな……俺」
そう呟いた声は、どこか確信めいていた。
そしてこの日。
勇者は初めて自覚した。
自分がもう、
「魔王城に通う側」になってしまっていることを。




