徳川家治の書状
江戸幕府第十代将軍・徳川家治は、大の将棋好きとして知られている。
将棋の家元、伊藤宗雲名人を江戸城に召し、朝から晩まで盤を挟む日が続いた。
家治の腕前では、いくら世襲制の名人とはいえ宗雲に勝てるはずもない。
五局に一度ほど、宗雲がわざと負けてやるのが常であった。
家治の父、第九代将軍・家重は、かつて小姓であった旗本・田沼意次を登用せよと遺言し、家治はそれを守って意次を側用人に取り立てた。
家治が筆をとり、さらさらと書状をしたためた。
ところが意次は、その文を伊藤宗雲のもとへ持って行く。
これを見た老中・松平武元は不審を抱いた。
譜代大名である武元は、一国一城の主であり、石高の低い旗本出身の田沼を快く思っていなかった。
「宗雲に将棋を習っておるのではないか」
武元はそう邪推した。
もし田沼が上達し、将軍と対局するようになれば、ますます寵愛を得るに違いない。
そう考えた武元は、試みに田沼に勝負を挑んだ。
意外にも田沼は弱く、あっけなく敗れた。
「そこもとは、なぜ宗雲のもとへ通っておるのか。腕は立たぬようだが」
「上様の書状を読んでいただくためでございます」
「なに?上様の書状を宗雲に?そちは字が読めぬのか」
「字は読めますが、上様の文は文字で書かれておりませぬ」
「ならば、いかなる文であるか」
「中身を申すことはできませぬ。では、上様にお許しを得て、御前でお読みいただきましょう。それでよろしゅうございますか?」
「よい。よしなにお引き回し願いたい」
こうして田沼は家治の許しを請い、武元とともに御前に参上した。
「上様のおなり」
小姓が告げ、二人は平伏した。
「両名、面を上げよ」
家治が命じる。
田沼が進み出て言った。
「武元殿が、上様のご書状をなぜ将棋指しの宗雲に見せるのか、不審であると申されます。上様の文の仕掛けをお明かししても、差し支えございませぬか?」
家治は静かにうなずいた。
「よい。ただし、他言無用じゃ。もし漏らせば、切腹の覚悟はできておろうな、武元」
「はは」
武元は、ただならぬ気配を感じた。
「意次。この前の余の文を出せ」
田沼は懐から一通を取り出した。
それは詰将棋の図面であった。
「これを宗雲殿に解いていただくと、最終形はこのようになります」
田沼は将棋盤を使って説明した。
「そして、その駒の位置を右上からイロハニホヘトと読んでいくと、『よきにはからえ』となるのでございます」
武元はからくりを理解したが、眉をひそめ、家治に言上した。
「わざわざ詰将棋にするほどのことではありますまい」
「武元、控えよ!」
家治が声を荒げた。
武元は青ざめて平伏した。
「余は征夷大将軍なるぞ。いかなるときも戦場に赴く覚悟を持たねばならぬ。いつ敵が江戸に攻め寄せるとも知れぬ。その備えのため、余は詰将棋にて文を認めておるのだ」
「ははー」
それでも武元は、なお諫言すべきと思い直した。
「恐れながら、田沼殿が宗雲殿に上様の文を見せるのは、いかがなものかと。もし宗雲殿がこのからくりに気づけば、危うございます。イロハニホヘトの符号は、忍びの者がよく使うものでございますゆえ」
「ふむ」
家治は腕を組み、しばし考え込んだ。
「よくぞ申した。武元、下がってよい」
武元は深く頭を下げ、老中詰所へ戻った。
「意次も、余の文を読めるよう修行いたせ」
「はは」
こうして田沼は、伊藤宗雲のもとへ将棋を習いに通うこととなった。
ひと月後。
「どうじゃ、意次。余の文が読めるようになったか」
家治はさらさらと筆を走らせ、詰将棋の図面を描いて差し出した。
田沼は盤を見つめ、しばし考えた。
「解けましてございます」
「申してみよ」
「『ろうじゅうしょくをもうしつける』でございます」
「その文こそ余の命である。そちは老中職をも兼ねよ」
田沼は驚き、一瞬息をのんだが、やがて深く頭を垂れた。
「ははー。身に余る大役、謹んでお受けいたします」
家治は満足気に頷き、ますます田沼を重用するようになった。




