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将棋もの

徳川家治の書状

掲載日:2025/12/29

江戸幕府第十代将軍・徳川家治とくがわいえはるは、大の将棋好きとして知られている。


将棋の家元、伊藤宗雲いとうそううん名人を江戸城に召し、朝から晩まで盤を挟む日が続いた。


家治の腕前では、いくら世襲制の名人とはいえ宗雲に勝てるはずもない。


五局に一度ほど、宗雲がわざと負けてやるのが常であった。


家治の父、第九代将軍・家重いえしげは、かつて小姓であった旗本・田沼意次たぬまおきつぐを登用せよと遺言し、家治はそれを守って意次を側用人に取り立てた。


家治が筆をとり、さらさらと書状をしたためた。


ところが意次は、その文を伊藤宗雲のもとへ持って行く。


これを見た老中・松平武元まつだいらたけもとは不審を抱いた。


譜代大名である武元は、一国一城の主であり、石高の低い旗本出身の田沼を快く思っていなかった。


「宗雲に将棋を習っておるのではないか」


武元はそう邪推した。


もし田沼が上達し、将軍と対局するようになれば、ますます寵愛を得るに違いない。


そう考えた武元は、試みに田沼に勝負を挑んだ。


意外にも田沼は弱く、あっけなく敗れた。


「そこもとは、なぜ宗雲のもとへ通っておるのか。腕は立たぬようだが」


「上様の書状を読んでいただくためでございます」


「なに?上様の書状を宗雲に?そちは字が読めぬのか」


「字は読めますが、上様の文は文字で書かれておりませぬ」


「ならば、いかなる文であるか」


「中身を申すことはできませぬ。では、上様にお許しを得て、御前でお読みいただきましょう。それでよろしゅうございますか?」


「よい。よしなにお引き回し願いたい」


こうして田沼は家治の許しを請い、武元とともに御前に参上した。


「上様のおなり」


小姓が告げ、二人は平伏した。


「両名、面を上げよ」


家治が命じる。


田沼が進み出て言った。


「武元殿が、上様のご書状をなぜ将棋指しの宗雲に見せるのか、不審であると申されます。上様の文の仕掛けをお明かししても、差し支えございませぬか?」


家治は静かにうなずいた。


「よい。ただし、他言無用じゃ。もし漏らせば、切腹の覚悟はできておろうな、武元」


「はは」


武元は、ただならぬ気配を感じた。


「意次。この前の余の文を出せ」


田沼は懐から一通を取り出した。


それは詰将棋の図面であった。


「これを宗雲殿に解いていただくと、最終形はこのようになります」


田沼は将棋盤を使って説明した。


「そして、その駒の位置を右上からイロハニホヘトと読んでいくと、『よきにはからえ』となるのでございます」


武元はからくりを理解したが、眉をひそめ、家治に言上した。


「わざわざ詰将棋にするほどのことではありますまい」


「武元、控えよ!」


家治が声を荒げた。


武元は青ざめて平伏した。


「余は征夷大将軍なるぞ。いかなるときも戦場いくさばに赴く覚悟を持たねばならぬ。いつ敵が江戸に攻め寄せるとも知れぬ。その備えのため、余は詰将棋にて文を認めておるのだ」


「ははー」


それでも武元は、なお諫言すべきと思い直した。


「恐れながら、田沼殿が宗雲殿に上様の文を見せるのは、いかがなものかと。もし宗雲殿がこのからくりに気づけば、危うございます。イロハニホヘトの符号は、忍びの者がよく使うものでございますゆえ」


「ふむ」


家治は腕を組み、しばし考え込んだ。


「よくぞ申した。武元、下がってよい」


武元は深く頭を下げ、老中詰所へ戻った。


「意次も、余の文を読めるよう修行いたせ」


「はは」


こうして田沼は、伊藤宗雲のもとへ将棋を習いに通うこととなった。


ひと月後。


「どうじゃ、意次。余の文が読めるようになったか」


家治はさらさらと筆を走らせ、詰将棋の図面を描いて差し出した。


田沼は盤を見つめ、しばし考えた。


「解けましてございます」


「申してみよ」


「『ろうじゅうしょくをもうしつける』でございます」


「その文こそ余の命である。そちは老中職をも兼ねよ」


田沼は驚き、一瞬息をのんだが、やがて深く頭を垂れた。


「ははー。身に余る大役、謹んでお受けいたします」


家治は満足気に頷き、ますます田沼を重用するようになった。




















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