1. 紅き夜の覚醒
頬が冷たかった。
何が触れているのか分からない。冷たいと思ったのは頬だけで、自分が何かへ触れているのか、それとも何かが自分へ触れているのかさえ曖昧なまま目を開けようとして、自分の瞼が思っていたより重いことに気付く。眠いというより、水の底から浮かび上がる時の抵抗に近かった。
ようやく細く開いた視界の向こうで、小さな火が揺れている。
……蝋燭だ。
どうしてこんな所に。
そう思ったところで、炎が震えていることへ気付く。風が吹いているのだろうか。火を見ているうちに、頬へ触れる冷たさも少しずつ輪郭を持ち始める。
ああ、風か。
そう納得しかけて、少し違う気がした。
風だけじゃなく、自分も震えている。
寒さのせいなのか、それとも別の理由なのかは分からない。
「……あれ」
思っていたより掠れた声が耳へ返ってくる。自分の声なのに少し違って聞こえ、喉の奥がひりついた。長いこと喋っていなかったような、それとも叫び続けた後のような、妙な痛みだった。
(……なんで?)
疑問は浮かんだそばから、鼻の奥へ流れ込んできた甘い匂いに押し流される。
蝋燭の匂い。
そう思ったのも束の間、その甘ったるさへ紛れるように別の臭いが混じっていることへ気付く。焦げ臭い。木が燃えた時とも少し違う。鉄を熱した時にも似ている。どこか生臭く、胸の奥へまとわりつくような臭いだった。
嫌な臭いだ。
そう思うのに、不思議と身体は拒まなかった。
「……なつか、しい?」
思わず零れた声に驚く。喉が小さく鳴り、自分が唾を飲み込んだのだと、その音で気付く。
懐かしい──何が。
思い出そうとするが何も浮かばない。そのまま臭いの元を探そうとして顔を動かしたつもりが、景色は少しも変わらず、一瞬、自分が何をしたのか分からなくなる。もう一度、今度は意識して肩へ力を入れる。腕にも首にも確かに力は入っているはずなのに、不自然に身動きが取れず、視線だけが自分の身体へ落ち、手首へ食い込んだ縄がようやく目に入った。
縄だった。
腕だけじゃなく足も。背中も。
視線を辿るように見下ろして初めて、自分が一本の大きな木へ縛り付けられていることを理解したほんの一瞬で、それまで何の意味も持たなかった景色が一変し、一気に恐怖が襲いかかってきた。
「うそ……捕まって、る?」
自分の口から零れたその言葉が、目の前の景色を現実へ引き戻した。揺れる蝋燭も。黒い法衣も。円を描く人影も。甘ったるい匂いも。そして、自分を縛る縄も。もう夢だとは思えなかった。
何が目的なんだろう。
そう思って一人ひとりへ視線を向ける。何か分かるかもしれないと思ったが、深く被った黒いフードが顔を隠し、表情どころか目線すら見えなかった。見えているのは顎だけ。男なのか、女なのか。年寄りなのか、それとも若いのか。目に映るものを一つずつ拾ってみても、それらしい答えは何一つ浮かばない。
分かったのは、自分だけが見られているということだけだった。
理由も分からず視線を向けられ続ける。
ただそれだけのことが、なぜか息苦しい。
耐えきれなくなって顔を逸らすと、その先で黒い法衣の中へ白いものが混じっていることに気付いた。
「……何、あれ」
最初は役割が違う人たちなのだと思ったが──違う。
目を引いたのは白いローブじゃない。
その下。
腹だけが異様に膨らんでいる。
しかも一人だけじゃない。目を動かすたび一人。また一人と同じ膨らみが目に入る。
決して太っているようには見えない。服の下へ何かを隠している──そんな膨らみとも少し違う。
もっと嫌なものだった。
内側から押し広げられている。
そんな形にしか見えなかった。
思わず息を呑む。
気のせいだと思いたくて、もう一度見直す。けれど目を凝らすほど、その違和感だけが少しずつ輪郭を持ちはじめる。
何を隠しているんだろう。答えは見つからない。
白いローブは足元まで垂れ、膨らみの正体だけを隠している。見えるのは形だけ。それでも目が離せなかった。
一人なら見間違いだったかもしれない。
けれど全員だ。偶然なんて思えない。
胸の奥が小さくざわつく。理由は分からない。それでも、見てはいけないものを見ている。そんな嫌な予感だけが、ゆっくりと大きくなっていった。
視線を上げると、黒い法衣を纏った数人が聞いたことのない言葉を繰り返していた。何を言っているのかは分からない。それでも何かを唱えていることだけは分かる。
一人。また一人と。
最初は別々だった声が少しずつ重なり、自分だけを包み込むように森へ響きはじめた。
意味は分からない。それなのに、なぜか耳を塞ぎたくなる。
胸の奥だけが、その言葉を知っているようだった。
「……やめて」
掠れた声は詠唱へ呑まれ、自分の耳へさえ届かず、抵抗するように縄を引くが、食い込むだけだった。
逃げたい。いや、逃げなきゃ。
そう思うほど、重なり合った声だけが大きくなっていく。
2
カン。
夜の工房へ乾いた音が響く。
真っ赤に焼けた鉄へ金槌を振り下ろすたび、火花が闇へ散り、小さな星のように消えていった。
額の汗を拭い、何気なく窓の外へ目を向けると
湖面には紅い月が静かに揺れていた。
「……そう言えば今日だったな」
それだけ呟き、再び鉄へ向き直る。
工房は静かだった。
皆はもう寝室へ入り、眠っている頃だろう。朝になれば、またいつものように誰かが騒ぎ出し、それを誰かが笑う。そんなありふれた一日が始まるものだと疑いもしなかった。
そう思いながら、もう一度だけ金槌を振り下ろす。
──カン。
乾いた音が工房へ響き、その余韻が消えきる前に寝室から笑い声ではない声が聞こえ金槌を持つ手が止まる。
耳を澄ますと、窓を叩く風とは違う音がもう一度聞こえた。
静かに金槌を置き、寝室の扉へと向かうと半分ほど開いていた状態だった。
胸の奥を嫌な予感が過ぎ、扉を押し開けた瞬間、鉄の臭いが鼻を刺す。
血だった。
倒れた仲間が視界へ入り、その向こうでは壁一面へ赤が飛び散っている。砕けた家具が床へ散乱し、その奥で一人の男が壁へ身体を預けていた。
胸元は真っ赤に染まり、浅い呼吸だけが辛うじて続いている。
足音へ気付いた男がゆっくり顔を上げ、小さく笑った。
「アン、デイ……生き、てたか」
アンディは男の前へ膝をつく。
「ジェシカは」
男は震える手を持ち上げ、開け放たれた窓を指した。
夜の森だった。
木々の隙間を縫うように、赤く染まった小さな背中が闇の奥へ消えていく。
アンディは思わず息を呑む。
「……見たのか」
「ああ……だが、違うん、だ」
掠れた声だった。
「……ジェシカは、悪く、ない」
一度大きく咳き込み、口元から血が零れる。
それでも男は最後の力を振り絞るように、アンディだけを見つめた。
「頼む……」
その声だけは、不思議なほどはっきりと耳へ届く。
「ジェシカを……頼む」
震えていた手から静かに力が抜けた。
アンディは何も言わず男の瞼を閉じ、その身体を床へ横たえる。
窓の外を見ると、もう赤い背中は見えなかった。まだ遠くへは行っていないはずだ。
それでも視線を一度だけ部屋へ戻す。
「……すまん」
そう残し、地を蹴った。
3
詠唱が途切れた。静かになったわけじゃない。耳の奥では、まだあの声だけが響いている。
黒い法衣の一人がゆっくりと前へ出ると誰も動かない。
白いローブも。
黒い法衣も。
全員が、その背中だけを見つめていた。
「……糧になれ」
低く掠れた声だった。
その一言を合図にするように、再び詠唱が森を満たしはじめ、白いローブは膝を付き祈る。
「──っ!」
身体を何かが掠める。
熱い?
何が起きたのか分かったが、遅れてその熱が鋭い痛みへ変わった。
「痛ッ!」
思わず視線を落とす。
赤が一滴。また一滴と、血だった。
土へ落ちた雫が染み込まない。
「……え」
目を疑う。
血が勝手に動いていた。
一滴が線を描き、また一滴がその続きを繋ぐ。足元を這う赤い線は、まるで最初から決められていた形をなぞるように円を描き、自分を閉じ込めていく。
心臓が大きく脈を打つ。
鼓動に応えるように紋様が淡く紅く脈打ち、胸の奥が焼けるように熱くなる。身体の中から何かが引きずり出されていく感覚に息が詰まり、理由も分からないまま恐怖だけが膨らんでいく。
「……やめろ」
誰の声だったのか分からない。
自分が言った気もするが、胸の奥で誰かが叫んだ気もした。
「やめろ……」
本能だけがそう叫び続ける中、「これでまた新たな種が──」低く笑う声が耳へ落ちた。
口元が歪み、笑っていた。
足元の紋様から吹き上がった風が黒いフードを揺らし、その奥に隠れていた片目だけが月明かりを受けて鈍く光る。
終わった。
そう思った。
4
鼻先を掠める鉄の臭いは途切れない。
血の臭いだけを追い、アンディは夜の森を駆けていた時、不意にその臭いが変わり足をとめた。
仲間たちの血に混じる、覚えのある臭い。
「……ジェシカ」
小さく呟き、周囲を見渡す。
森の深い闇に、一際異質な赤い光が立ち昇っていた。
地を蹴る。
木々の隙間から覗く赤い光は、一歩近付くたび少しずつ輪郭を持ちはじめ、夜闇へ溶け込んでいた黒い影は法衣を纏った人影へ変わり、その向こうには一本の大木が姿を現し、さらに距離が縮まるにつれて幹へ縛り付けられた小さな人影がゆっくりと視界へ浮かび上がっていく。
ジェシカが木に縛り付けられ、黒い法衣たちが何かを唱えている。
その中心でジェシカは身動き一つ取れず、足元では赤い紋様が妖しく脈打っていた。
「……ブラッディローズ」
小さく呟き、右手を払う。
その軌跡をなぞるように、真紅の花びらが夜の森へ咲く。
花びらの中心から赤黒い槍が姿を現した。
右手が柄を握る。
同時に身体を解放する。
足元へ咲いた真紅の花びらを踏み抜くように、アンディは空を蹴った。
5
──斬ッ!
身体を締め付けていた縄の感触が消えた。
何が起きたのか分からない。
支えを失った身体が前へ傾き、そのまま地面へ倒れ込む。そう思った身体を、誰かの左腕が静かに受け止めた。
鼻先を掠める鉄の匂い。
ゆっくりと瞼を上げると、視界の端を赤い花びらが一枚、音もなく横切っていく。
風なんて吹いていない。
それなのに花びらだけが夜空を漂っていた。
「悪い、少し遅れた」
落ち着いた声だった。
聞き覚えはない。
それでも、その一言だけで張り詰めていた何かがふっとほどけ、震えていた身体から少しずつ力が抜けていく。
どうしてだろう。
もう大丈夫だと。そう思い、恐る恐る顔を上げる。
最初に目へ入ったのは、自分のすぐ前へ突き刺さった一本の槍だった。
赤黒い刃。
その周囲を漂う真紅の花びら。
そして槍の向こう側で、自分を支える黒いコートから見える左腕から肩へ。そして帽子の鍔。
視線を辿っていくと、月明かりに照らされた横顔。
その姿を見たことはない。
それなのに、不思議と目が離せなかった。
「ま、まさか」
震えた声が聞こえる。自分へ向けられたものじゃない。黒い法衣の一人が、目を見開いたまま槍を見つめていた。
「なぜだ」
喉が震える。
次の言葉を口にすることさえ恐れるように。
「なぜこんな所にクロスリーパーが!?」
「……悪いなジェシカ。少し待ってろ」
名前を呼ばれた。その一言に黒い法衣がざわめく。
「ジェシカ、だと」
目の前に立っている黒い法衣の男はその場から動けずにいた。
その声を合図にしたように、張り詰めていた空気が音を立てて揺らぎ始め、ざわつく。
「まさか……」
信じられないものを見るように、一人、また一人と、ゆっくり後ずさる。
視線は自分へ向いていない。突き刺さった赤黒い槍へ、そしてその周囲を漂う真紅の花びら。
そこから一度も離れようとしなかった。
それでも、自分を支える男は振り向きもしない。ただ静かに、自分の身体がちゃんと立っていることを確かめるように左腕を離した。
それから初めて一歩前へ出て、土へ深く突き刺さった槍へ歩み寄り右手が柄を握る。
静かに引き抜かれた刃から、真紅の花びらがふわりと舞い上がった。
ようやくアンディは顔を上げる。
その視線が、初めて黒い法衣たちを捉えた。
6
アンディは静かに槍を握り直した。
柄へ添えた右手が僅かに動く。その仕草は力を込めたようにも、構えを変えたようにも見えない。それなのに思わず息を呑んだ。何かが始まるというより、もう終わってしまったような気がして、その理由だけが分からない。
「すぐ終わらせる」
その言葉が自分へ向けられたものなのか考えるより早く、アンディは一歩だけ踏み出した。たったそれだけだった。それなのに次の瞬間には、さっきまでそこにいたはずの姿がどこにもなく、見失ったと思った頃になって目の前の黒い法衣がゆっくりと崩れ落ちる。
何が起きたのだろう。
理解が追いつかないまま視線だけが倒れていく身体を追う。胸元へ細い赤い線が走っていた。それが傷なのだと気付いた時には、肉を裂く音が遅れて森へ響き、同時に赤い花びらが視界を横切った。
花びらだと思った。
いや、違う。血だった。
そう理解した時には、もう一人が倒れ、その向こうで黒い法衣の一人だけが霧へ溶けるように姿が消える。
そう思う間もなく、残っていた白いローブの女へアンディが身体を向けた。膝をついたまま祈るように俯いているが、その腹だけが不自然に膨らんでいる。
何かに気付いたようにも見えた。だが、足は止まらない。
槍が静かに薙ぐ。
白いローブの胸元へ赤が滲み、その身体は糸が切れたように崩れ落ちた。それを確かめることもなく、アンディはこちらへ歩いてきた。
身体が浮く。驚くほど自然に。
抵抗しようと思ったはずなのに力は入らず、気付けば揺れる景色だけをぼんやり眺めていて、その時になって初めて、自分には暴れる力さえ残っていなかったのだと知る。
木々の隙間を縫うように夜風が流れていく。
頬は冷たい。けれど、さっきまでの冷たさとは少し違った。
抱える腕だけは少しも揺れない。
あの場所から離れていく。ただそれだけで胸を締めつけていた何かが、少しずつ遠ざかっていく気がした。
その時になって初めて、自分には暴れる力さえ残っていなかったのだと知る。
7
どれほど時間が過ぎたのだろう。
アンディは大木の陰でようやく足を止め.周囲を見渡すと森は静まり返っていた。
すると、その手から槍が静かに崩れる。
赤黒い液体だった──血。
思わず身体が強張る。
「……何を」
答えは返ってこない。
アンディは指先へ掬った血を静かにジェシカの唇へ触れさせた。
温かい血をほんの数滴、それだけだった。
反射的に顔を背ける。
血なんて飲みたくない。
そう思うより早く、唇へ残った熱がゆっくりと口の中へ溶け込み、喉の奥へ落ちていく。
乾いた砂へ水が滴るように、その熱は静かに身体の奥へ染み込んでいった。
冷え切っていた身体へ少しずつ熱が戻り、重かった呼吸が軽くなる。それなのに一滴だけでは足りないと喉だけが続きを待っていた。
「……っ」
思わず唇を押さえる。
違う。そんなことを思うはずがない。
なのに身体は、その温もりを離したくないと静かに訴えていた。
「わ、分からない……」
思わず震えた声が漏れる。
胸が苦しい。
何が起きているのか分からない。
どうして血なんかで身体が楽になるのかも。
どうしてこの人が自分の名前を知っているのかも。
何も分からない。
「分からないよ!」
気付けば叫んでいた。
「何も思い出せないよ!それに貴方は誰なんですか!さっきからジェシカって……それって、私の事なんだよね!」
息が乱れる。それでも言葉は止まらない。
「クロスリーパーって何なの!? ねぇ!」
アンディは表情が歪む。そしてジェシカの肩を掴んだ。
「そうだ。お前がジェシカだ」
掴む手へ力が入る。
「俺はアンディ。 お前の家族だ」
「……家族?」
「ああそうだ」
その言葉だけが耳に残るが、何も浮かばない。
温もりも。顔も。思い出も。何一つ。
アンディは周囲を見渡す。
「説明は後だ。今は受け入れろ」
そう言うと、もう一度静かにジェシカの身体を抱き上げた。
「帰るぞ」
短い一言だった。
帰るって一体どこへ。そう思ったはずなのに、不思議と胸の奥から小さく力が抜け、その言葉になぜか安堵していた。
理由は分からないし、思い出せない。
それでも抱える腕だけは少しも揺れなかった。
木々の隙間を縫うように夜風が吹き抜ける。
流れていく景色の向こうへ、アンディは森を抜け、工房へ向かって駆け出した。




