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パッと顔を手の主の方向へ向けると互いの視線が、恥ずかし気な表情を逃さなかった。
『あっ、すいません』
互いに咄嗟に出た言葉が二人の心を和らげた。
大二郎はおしとやかな女性の口調に対して好印象を抱いた。
『いえ、僕こそ失礼しました』
『私にお構いなく・・・』
結局、在庫がなく一冊しかなかった本の持ち主は、互いに譲り合った末に
彼女のものとなったが、大二郎は後日に貸してもらうことになり、申し訳なさそうに深々と頭を下げて一礼した。
すっかり気分が良くなった大二郎の足取りは軽く、帰宅を済ませこの日は何もせずに布団の中に潜り込み、つい先ほどまで手を伸ばせば届く距離に居た彼女を思い、安らかな心地を堪能せずにはいられなかった。
やがて彼女から本を貸してもらう日が訪れた。
冨川沙彩と名乗り、書店を後にした彼女の後ろ姿が鮮やかに甦る。
書店の真向かいにある喫茶店での待ち合わせだった。
大二郎は約束の時間より一時間も早く、待ち合わせ場所の喫茶店に到着していた。
こじんまりとした店内。正面扉を開いて縦長に店は作られていた。
カウンターと真逆にテーブルが七組、一組に対してベージュ一色の丸椅子が四つあり、突き当たりの席だけが丸椅子は二つだった。
証明の明るさは大二郎好みで薄暗く、店内に流れるBGMもクラシック調で滑らかさが際立っていた。
リズミカルなテンポのメロディーは、モーツァルトのアイネクライネナハトムジークを思わせた。
片隅の席に座り、沙彩の訪れを待った。
沙彩は本当に来るのだろうか。初対面でもあることから連絡先は名前以外は知らせていない。
口約束という信頼と何かあれば待ち合わせ場所である喫茶店に連絡しようとだけ決めて、二人は書店を後にしていた。
しばらく大二郎は店内を見渡し、静寂さに触れていた。
腕時計に目を見やると約束の時間が近づいてきた。
その瞬間、カランカランと正面扉の上部に取り付けてある来店を知らせる鈴の音色が心地よく店内に響き渡る。
どうやら沙彩が来たようだ。
透明のテーブル、ベージュ一色の丸椅子・・・彼女もまた一礼して大二郎の真向かいに着席した。
『久しぶりです。来てくださったのですね』
『貴女こそ、来てくださったのですね』
『随分と早くに来られていたのですか?』
『いえ、私も先ほど来たばかりですからお気遣いなく。有り難う御座います』
二人はアイスコーヒーを注文した。
沙彩はショルダーバッグから一冊の本を取り出して、テーブルの上にそっと置いた。
互いが大の読書好きであったことから、二人の関係は一気に深まりをみせた。
大二郎が作家を目指し、大きな壁に今、向き合っていることを知り、次第に沙彩は懇親的な支えとなり、彼を励ましていく。
数時間があっという間に過ぎ、二人は何気ない会話を済ませたのち、残っていたアイスコーヒーをそっと飲み干して店内を後にして、それぞれの帰路へと向かった。
大二郎は帰宅後、沙彩から借りた本をデスクの脇に置き、それとなく原稿を取り出して筆を取ってみた。
とりあえず何でもいいから書いてみた。沙彩と過ごしたことを思うままに書き綴った。
書く気を奪われる。集中力が途切れる。書いては休み、書いては休みを繰り返し、納得がいかないにせよ、最後まで完成させた。