『みずのこ』
水の底に棲む記憶と、取り残された姉妹の物語。
静かな怪異、沁みるような怖さをお求めの方に。
どうぞ、最後までお付き合いください。
──水が、怖い。
そう思ったのは、あの夏が初めてだった。
◆
小学五年の夏休み。
私は母に連れられて、北海道の田舎にある祖母の家で過ごすことになった。
「おばあちゃんちはねぇ、昔は農家で、今はもう畑もないけど、のんびりできるわよ」
母はそう言ったけれど、のんびりなんてもんじゃなかった。
スマホは圏外、テレビは2チャンネルしか映らず、近所には同年代の子どももいない。
祖母は優しかったけれど、決まりごとが多かった。
「北の小道には入っちゃだめだよ。あっちはもう誰も住んでないからね」
「夜は早く寝なさい、ここらは獣も出るから」
「それから──あの池には、近づいちゃいけないよ」
──池?
私はその言葉にだけ、妙にひっかかった。
「どうして?」と訊いたけれど、祖母は首を振った。
「……あそこにはね、昔、悲しいことがあったのさ」
そのときはそれ以上、聞かなかった。
でも、子どもってのは、不思議と“禁止された場所”に惹かれる。
◆
数日後。昼過ぎ。
母は買い物で街へ出て、祖母は畑に行っていた。
私は一人で家を出た。
言われたとおり、北の小道をまっすぐ抜けていくと──あった。
雑木林の奥に、ぽっかりと空いた水面。
濁った緑色の水が、静かに揺れている。
そこは、人の手が入っていない“ため池”だった。
ごうん……と風が吹き、葦が揺れる。
近づこうとしたとき、水音がした。
ぱしゃり──と。
そこに、女の子がいた。
水面に立つようにして、腰まで浸かっている。
白いワンピース。肩までの黒髪。
顔は見えない。けれど、何かがおかしい。
「……だいじょうぶ?」
そう声をかけると、女の子はゆっくりと顔を上げた。
目が、あった。
どこか懐かしい。……でも、知らないはずの顔。
「──いっしょに、遊ぶ?」
その言葉と同時に、私は前のめりに倒れた。
◆
気づいたとき、水の中だった。
息ができない。
冷たい。暗い。
けれど、それよりも──女の子の手が、私を掴んでいた。
「まってたの」
「ずっと、まってたの」
その声は、確かに私の記憶にあった。
私には、もうひとり姉がいた。
「お姉ちゃん……?」
昔、母がぽろりと口にしたことがある。
「あなたが生まれる前にね、お姉ちゃんがいたのよ。でも……小さなころにね」
──死んだはずのお姉ちゃんが、水の中にいる。
視界が揺れていく。
暗い。
深い。
息が……できない。
◆
気づけば、地面に倒れていた。
咳き込むと、肺の奥からぬるりとした水の味がした。
祖母がそばにいた。顔を真っ青にして、私の背中をさすっていた。
「……よく、戻ってきたね」
「……お姉ちゃん、いたよ」
そう言うと、祖母は、目を伏せた。
「──そうか。見えたかい」
「……ほんとに、いたんだよね?」
祖母は静かに頷いた。
「……あんたのお姉ちゃんは、あの池で死んだんだよ」
「うん、聞いた」
「……でもね、まだいるんだ」
私は息を飲んだ。
「帰ってきたのは、あんたが妹だからさ。ほかの子だったら、きっと帰れなかった」
その言葉の意味は、深く、重かった。
◆
その夜、母が戻ってきた。
「ため池、行っちゃったのね」
私が頷くと、母はふぅ、と息をついた。
「……私も、子どものころ、あの子の声を聞いたことがあるの」
「お姉ちゃんの?」
「うん。でもね、行かなかった。怖かったから」
そう言った母の目は、少し潤んでいた。
「……でも、あなたは、会えたんだね」
私は黙って頷いた。
「じゃあさ、また会いに行ってもいい?」
そう聞いた私に、母はゆっくりと首を横に振った。
「……だめよ。次は、帰れないから」
◆
帰り道。
車の窓から、ため池のある山の方を見ると、ひとすじの風が吹いていた。
その中に、ふわりと揺れる白い影が見えた気がした。
「また、遊びたいな」
ふと、そんなことを思ってしまった自分が、少しだけ怖かった。
──水は、底を見せない。
何が沈んでいるのか、誰が待っているのか。
それはきっと、見た人にしか、わからない。
---(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
水は身近でありながら、底知れぬものを抱えています。
この物語が、皆さまの夏に小さな影を落とせたなら幸いです。