第6話 やさしい音が聞こえた日
昨日の飲み会の帰り道、佐久間さんのBGMが突然、爆音でラブソングになった。
しかも俺の名前入りで、思い出すたびに頭がぐるぐるする。
……なのに今朝は風邪っぽくて、それどころじゃなくて──
これは、そんな“しんどい日の優しさ”に、心が溶けるお話です。
朝、目を覚ました瞬間から、どうにも身体が重かった。
喉がいがらっぽくて、頭の芯がぼんやりしている。
(……風邪、ひいたかな)
昨日の飲み会が響いたのか、それとも季節の変わり目のせいか。
微熱と倦怠感に包まれながら、それでもいつもの習慣でスーツに着替えて、俺は電車に揺られていた。
車窓の外を流れる風景をぼんやりと眺めながら、昨夜の出来事が脳裏に浮かぶ。
あの、ラテン調の情熱的すぎるBGM。
佐久間さんの──心の音楽。
「ミサキ、ミサキ、ナオ〜〜〜♪」
……あれ、なんだったんだろう。
普段はまるで無音に近い彼のBGMが、お酒のせいか突然、爆音で鳴り響いた。
しかも、その歌には、はっきりと俺の名前が刻まれていて──
(……いやいや、偶然、偶然)
そう思い込もうとしても、脳裏には“ソイヤッ!”の掛け声がこだまして離れなかった。
◆
そのころ会社では、佐久間さんが自席でPCに向かっていた。
「佐久間くん、今日、三崎くん、お休みだって」
通りかかった課長が、ふと呟く。
「……体調不良ですか?」
「みたいだね。出勤途中気分悪くなったらしく、ちょっと風邪っぽいって。昨日、飲み会あったから疲れたのかもね」
佐久間は言葉少なに頷いたが、その視線はすぐにディスプレイから外れ、どこか宙を漂うように彷徨った。
手元のキーボードに置いた指が、いつの間にか止まっている。
マウスにかけた右手にも力が入らず、クリックの手前で静止したまま、数秒が過ぎていく。
表情は相変わらず淡々としていたけれど、ほんのわずか──眉間の奥に、不穏な影が差していた。
なにかを言いかけて、結局言葉にせず、佐久間はゆっくりと視線を伏せる。
それは、誰にも見せない、静かな動揺だった。
◆
その頃、俺はベッドでうとうとと眠り続けていた。
だが、次第に空腹と喉の渇きに耐えきれなくなって、ふらふらと立ち上がる。
(……何か、食べなきゃ。薬も買わないと)
スマホと財布と鍵だけをポケットに入れて、近所のコンビニまで歩き出した。
だが、体力は思っていた以上に落ちていたらしい。
「……あれ、ちょっと……」
店の入り口が見えた瞬間、視界がにじむ。
足元がふらつき、意識が遠のきそうになる。
そのときだった。
「──三崎!」
どこかで聞いた声に、身体が支えられる。
倒れかけた俺を、誰かの腕がしっかりと抱きとめていた。
「……佐久間さん……?」
霞む視界の中に、見慣れた黒髪と涼しげな瞳が映った。
「立てるか?」
「……すみません、ちょっと、ふらっとして……」
情けない声を出す俺に、彼は何も言わず、ゆっくりと支えるように歩き出した。
その瞬間だった。
──聞こえた。
耳の奥、いや、もっと深い場所。鼓膜じゃなく、心のどこかが拾ったような感覚で。
いきなり鳴り出したのは、まるで冬の夜に降りはじめる雪のように、静かで、でも確かにあたたかいラブソングだった。
イントロのピアノがぽつりぽつりと優しく跳ね、やがてストリングスが重なると、旋律はゆっくりと大きな波になって広がっていく。
──なんで、こんな曲が……今、佐久間さんから?
耳に届いたBGMのメロディが、そのまま流れ込んでくる。
♪「会えたことが こんなにも
心を動かすなんて 知らなかった」
♪「寒い夜を照らすように
君がいる それだけで」
ひとつひとつの音に込められた気持ちが、まっすぐに胸を貫いてくる。
(……佐久間さんの、BGM……)
体温と一緒に伝わってくるそのメロディは、静かで、確かで、少しだけ泣きたくなるほど優しかった。
◆
目が覚めたとき、俺は自分の部屋の布団の中にいた。
(……え、なんで……?)
思わず起き上がろうとしたが、身体がまだ熱っぽい。
台所の方から、トントンと包丁の音が聞こえる。
そっと覗いてみると、エプロン姿の佐久間さんが、小鍋にだしを注ぎ、刻んだネギと卵を丁寧に加えていた。
鰹の香りがふわっと部屋に広がって、なんだか懐かしい気持ちになる。
鍋の隣には、買ってきたらしいお粥セットやスポーツドリンク、熱を下げる冷えピタまで並んでいて──
(……どこまで、気がきくんですか)
心の中でそっと呟くと、また胸があたたかくなった。
「……目、覚めたか」
低く落ち着いた声に、反射的に目をこすった。
その瞬間、また──“BGM”が流れ出した。
今度は、春の午後に吹くやわらかな風のようなバラードだった。
ピアノがそっと語りかけるように低く、静かに響き、やがてアコースティックギターの音色が優しく寄り添う。
音はごく控えめで、声を張り上げることもなく、ただ「そばにいるよ」とささやくような曲。
♪「言わなくていいよ ムリしないで
笑わなくても いいから」
♪「痛みも 熱も 君の全部
ひとりで抱えなくていい」
言葉にすればきっと気恥ずかしくて、面と向かってはとても言えないような優しさ。
(……佐久間さんの、BGM……)
その旋律は、まるでそっと毛布をかけてくれるみたいに、あたたかかった。
何かが壊れそうになる心の奥を、静かに、静かに撫でてくれた。
「佐久間さん……なんで……?」
「午後休とって……様子、見に来た」
「……心配、してくれたんですか?」
「……まあ、気になってただけだ」
少しだけ照れたように目を逸らす佐久間さんを見て、胸がぽっと熱くなった。
その言葉が、思っていた以上に心に沁みて、どう返せばいいか一瞬わからなくなった。
心配されるなんて、こんなふうに優しくされるなんて──想像していなかったから。
「……ありがとうございます」
心からのその言葉に、彼のBGMがまた、ほんの少しだけ音を強めた──気がした。
それは、見えない手で頭を撫でられたような、やさしい、やさしい音だった。
つづく
今回はナオくん、風邪でぐったり回。
でも、そんなときほど人の優しさって沁みますよね……。
言葉じゃなくて、音楽で気持ちが伝わる。
それが佐久間さんの“BGM”の魅力であり、彼なりの不器用な愛情表現です。




