第9話 踊り返したはずなのに
誰かの“好き”を聴いたナオは、初めて自分から距離を縮めようとする。
一歩踏み出した勇気が、思いがけず佐久間の奥にある熱を引き出して——
第9話、すれ違いと接近のその先へ。
数日後、夜。
ナオは商店街の角で立ち止まり、スマホを耳に当てた。
「やっちゃん?」
『何、珍しいじゃん。どしたの』
「相談、というか……聞いてほしくて。最近よく行くカフェで、誰かのBGMが聞こえるんだ。女の人の声で、佐久間さんの服、かっこいいって歌ってて。指先に触れたいって……。」
『ふむふむ』
「でも、誰のかわからなくて……それで、なんか、狙われてる? のかなって」
『それ、狙ってるでしょ』
返事が速い。
電話の向こうで、やっちゃんが笑っているのがわかる。
『ナオ、前から言ってるけどさ。受け身すぎ。相手が歌ってくるなら、こっちは踊り返せばいいの』
「踊り返すって……僕が?」
『そう、“見せる”の。ふたりでいるときの距離感、もう一歩だけ近くする。手、自然につなぐ。名前、下の名前で呼ぶ。肩に手、ちょん、って置く。それだけで、こっちの宣言になる』
「む、無理だよ! 人前でそんな……」
『人前じゃなくていいよ。カフェの隅っこで、席に着く前に、くいっと袖を整えてあげるとか。シャツの裾、直してあげるとか。案外そういうのが効くんだって』
「効くって、何に……」
『“この人は私のものです”って、誰かのBGMにちゃんと書き込むの』
やっちゃんは楽しそうだ。
けれど声の底には、いつもの真剣さがある。
『ナオ、あなたさ、佐久間さんの事好きでなんでしょ。じゃあ、やれることやろ。自分のためにも、相手のためにも』
「……やれるかな。僕に」
『やれる。ナオならやれる。』
少し間が空いて、やっちゃんが柔らかく続けた。
『次の週末、そのカフェ行くでしょ? ひとつ、何かやってみな。』
夜風が、スマホのスピーカーをかすめた。
ナオは小さく息を吸う。
「……うん。やってみる」
『よし、その返事。じゃ、レモンサワー飲んでくるわ。報告待ってる』
通話が切れる。
画面には、やっちゃんのスタンプが一個、ぽんと残る。
(積極的に、か)
街灯の下、ナオは指先をぎゅっと握ってみた。
*
──日曜の午前。
カフェのドアベルが鳴ると、またしても“絵になる二人”が現れた。
今日の佐久間は、薄手のネイビーのニット。袖口が手首にやわらかく沿い、淡いベージュのチノパンに合わせた革ベルトが光を拾っている。足元は白のスニーカー。カジュアルなのに、立ち姿だけで雑誌の一頁みたいに見える。
隣にいるナオは、いつもより少し整えた髪に薄ブルーのシャツ。眼鏡越しにきゅっと表情を引き締めている。
(……やるって決めたんだ。今日こそ、“踊り返す”)
やっちゃんに言われた夜から、何度も心の中でリハーサルした。
けれど、いざ佐久間と肩を並べてレジに並んだ瞬間——すでに心臓が喉までせり上がってきている。
トレーを持つ佐久間の指先と、自分の手が、何度もかすかに触れた。
(近っ……! でも、離れない……!)
ぎゅっと拳を握って、ナオは小声で自分を励ます。
(こんなことやったことないけど……がんばれ、僕!)
「どうした?」
隣から低い声がして、ナオは慌てて首を振った。
「な、なんでもないです!」
番号札を受け取って、二人は席に腰を下ろす。
──いざ、作戦開始。
ナオは深呼吸し、カトラリーを取る手をわざとぎこちなく伸ばした。
「……あ、あの……はい、あ〜ん」
フォークを差し出された佐久間は一瞬固まり、目を瞬く。
「お、おい……人前だぞ」
「だめですか?」
潤んだ目で見上げるナオ。
数秒の沈黙のあと、佐久間は観念したように小さく口を開けた。
ぱくり。……耳まで赤い。
(よし、いけた!)
続けざまに、カップを持つ佐久間の手に、自分の指先をそっと重ねてみる。
「……っ!」
佐久間は驚いてグラスを揺らしそうになり、慌てて持ち直す。
「なお……」
低い声が掠れている。
(だ、大丈夫。これは……“宣言”だから!)
さらにナオは、佐久間のシャツの裾が少し出ているのに気づき、そっと直してやった。
「こういうの、気になりますから」
「……っ」
呼吸を飲む佐久間。肩が固まって動けない。
(……すごい、効いてる。こんなに照れる佐久間さん、初めて見た……!)
ナオが見上げると、佐久間はカップを手にしたまま、静かに息をついた。
けれどその指先は微かに強張っていて、口元とは裏腹に、目の奥に熱が宿っていた。
耳まで赤いまま、ぽつりと漏らす。
「……そんな顔で見られたら、俺……ダメだろ」
そしてそのとき——
ナオの耳に、また“BGM”が流れ込んできた。
──♪ 触れたい すぐに いますぐに
この手で この身体で
おまえを確かめたい
(……っ、なに……これ)
低くて、湿った声。
微熱を帯びた息づかいが、鼓膜の内側に触れてくる。
これは、誰の感情でもない。
ナオに向けられた、佐久間の——
(……やっぱり、佐久間さん……)
足元で、ナオの靴がふと佐久間の靴先に触れた。
反射的に引こうとして、でも引ききれずに止まる。
そのまま、かすかに当たったままのつま先。
意識しないふりをしているけれど、二人とも確かに気づいていた。
視線がぶつかる。
佐久間の瞳は、深く静かで、でもどこか焦げるような色をしていた。
その奥にあるものが、今にもこぼれてきそうだった。
(……だめだ。こっちまで……)
ナオは、うまく呼吸ができていないことに気づく。
喉が渇いて、胸が熱くて、なのに背筋はひんやりとしていた。
(こんな気持ち、知らない……)
でも、嫌じゃない。
むしろ、その熱の中に、もっと沈んでみたくなっている自分がいた。
ナオはカップを持ち上げて、そっと口をつけた。
その縁越しに、佐久間の顔がゆらいで見えた。
(……もう少しだけ、この先へ進んでみたい)
テーブルの下では、まだ靴先が、そっとふれていた。
そのとき、佐久間がふいに言った。
「このあと、予定あるか?」
ナオは一瞬きょとんとして、それから小さく首を振る。
「……いえ、特には」
「じゃあ、帰ろうか。」
言い終えた佐久間の声は、静かで穏やかだった。
けれど、その奥にある“なにか”は、ナオの耳の奥に確かに届いていた。
──♪ 抱きしめたい この手で
誰にも邪魔されない場所で
君の熱を ぜんぶ 受け止めたい
(……え、うちって……今、帰ろって……)
思わず心臓が跳ね上がる。
(待って、それって……)
今まで必死に距離を詰めていたのは自分のはずだったのに。
“踊り返してやる”つもりだったのに。
なのに、今この瞬間——
(……踊らされてるの、僕の方じゃん……!)
顔から耳まで一気に熱くなる。
うまく返事ができず、ナオはカップを両手で包むように持ったまま、黙ってうなずいた。
佐久間はそれを見て、少しだけ微笑んだ。
その笑みにまた、火がつく。
──つづく。
視線、声、つま先。
ほんの小さな接触が、心と身体を熱くする。
ナオの“仕掛けた恋”は、いつの間にか佐久間に主導権を握られていたようです。
次回、ふたりが向かう“誰にも邪魔されない場所”で何が待っているのか──
どうぞお楽しみに。




