第8話 匿名BGM、ターゲット確定
いつものカフェ。いつものパンケーキ。けれど、耳に届くBGMが今日は少し違って聞こえた。
誰かの“好き”が、佐久間さんの姿を借りて、歌になって流れてくる。
ナオの胸に、はじめての感情が芽を出した第8話。
──日曜の遅い朝。
グラインダーの唸りと、スチームミルクの白い息。
並んだトレーの上で、リネンのナプキンが小さく震える。
カウンターの内側で、伊織は短い挨拶を何十回も繰り返しながら、レジの列を捌いていた。
(……来た)
ガラス扉の鈴が鳴った瞬間、視界の端に“絵になる二人”が入る。
まず目を引くのは、背の高い黒髪。黒のオープンカラーシャツに細身のパンツ、足元は艶のあるローファーの佐久間。
その隣には、小柄でメガネ。やわらかな茶色の髪に、白Tと薄いグレーのジャケットのナオ。
高さのコントラストと色の抜け感まで含めて、二人はそのまま一枚の写真みたいに店内へ溶け込んだ。
(やっぱり好きだな、この並び)
彼らが列の先頭に来る。伊織はいつもの調子で微笑んだ。
「ご注文お伺いします」
「季節のレモンとリコッタのパンケーキを二つ。ドリンクは……フラットホワイトと、ロングブラックで」
佐久間の低い声が、端正に響く。
ナオが「お願いします」とぺこりと頭を下げた。
伊織は勇気をふりしぼって声をかけた。
「いつもありがとうございます。よく来てくださいますよね。お近くにお住まいなんですか?」
ナオが、人懐っこく目を細める。
「はい、最近このあたりに引っ越してきたんです。朝はここが一番落ち着くので」
「嬉しいです。……あ」
差し出されたスマホに伊織の視線が吸い寄せられた。透明ケースの内ポケットから、ゆるキャラのトレカが半分のぞいている。丸いクラゲの「くらら」。
「それ、『くらら』ですよね。自分も好きで」
言いながら、伊織はエプロンの腰から下げているキーリングをくるりと回して見せる。夜光グリーンに縁取りされた、同じ「くらら」のアクリル。
ナオの顔がぱっと明るくなった。
「えっ、それ夜光のイベント限定のやつですよね!? いいな〜、プレミアの……!」
「先月のポップアップでたまたま手に入って。夜になると縁がふわっと光るんです。かわいいですよ」
「うわ、絶対ほしい……! くらら、グッズ出るたびに財布が軽くなるんですよね」
横で佐久間が小さく息を笑いに混ぜる。
「……増えるやつだな」
「増えます。際限なく増えます」
「そういえば、来月また“くらら”公式のポップアップがあるみたいです。限定マグ、告知出てましたよ」
「え、ほんとですか? 絶対行きます!」
「ありがとうございます。──焼き上がり、少しだけお待ちください。番号札“17”でお呼びしますね」
「はい」
二人の「ありがとう」が店内のノイズにきれいに混ざった。
──トレーを手に取った瞬間、伊織は自分の指先がわずかに震えているのに気づいた。
(話しかけちゃった……!)
鼓動が一拍だけ跳ねる。けれど、二人の反応はごく自然で、いつも通りやさしかった。
ほっと胸の奥で息がほどける。
(この前、姉と一緒に“あの格好”で会った時の顔、覚えられてたらどうしようって、ちょっとだけ怖かったけど……大丈夫。気づかれてない)
女装のときと、いまの自分。声の高さも、立ち姿も、ぜんぜん違う。
「いらっしゃいませ」をもう一度、喉の低い位置から出してみる。店の空調の音にまぎれて、平常運転に戻っていく。
(よかった。……そしてやっぱり、素敵だな、あの二人)
*
ナオは、店に入った瞬間からずっと耳の奥で女声が一本、細い糸みたいに鳴っていた。
スピーカーのBGMじゃない。誰かの“心の歌”だ。
注文しながらも、メニュー黒板を見上げるふりをしながら、ナオはつい店内をきょろきょろと見回してしまっていた。…どこから鳴っているのか、ナオには特定できない。
席に腰を下ろした途端、その歌がすっと鮮明になる。ナオの鼓膜のすぐそばで、やわらかく揺れた。
──♪ 長身の黒、襟元ゆるく
低い声で言う「ロングブラック」
磨いたローファー、床に光を置く
(……え、これ完全に佐久間さんのことじゃん)
耳を澄ませても、歌主はやっぱり特定できない。満席のざわめきとカップの触れ合う音に紛れて、声だけがふいに立っては消える。
(……まあ、そうだよね。佐久間さん、かっこいいもん)
──♪ その指先に触れたい
肩越しの距離を埋めたい
並んで歩く夢を見ている
(……え、ちょ、なにこれ!? “触れたい”とか“肩越し”って……)
ナオは思わず背筋を強張らせた。
(かっこいいって歌うだけじゃなくて……近づきたいって? どういう意味……誰が、誰に……?)
苦笑しつつも、グラスを指でくるりと回す手がわずかに震えていた。
トレーが届く。薄い黄色の生地にレモンの皮が散り、リコッタの白が陽に透ける。
──なのに、ナオはパンケーキの味をほとんど覚えていなかった。
気づけば、ひと口ごとに佐久間へ身を寄せて、声をかけている。
「それ、どうですか?」
「こっちもシェアします?」
いつもより距離が近い。自分から積極的に話しかけ、相槌を打ち、目を合わせてしまっている。
(……なんでこんなに必死に距離を詰めてるんだ、僕)
耳の奥にまだ残るあの歌詞。
“触れたい”“肩越しの距離を埋めたい”——まるで見知らぬ誰かが、佐久間に恋しているみたいだった。
(……嫉妬してる? 僕、嫉妬……?)
胸の奥がざわざわして落ち着かない。
パンケーキの甘さよりも、その気づきのほうがずっと強く舌に残っていた。
(僕、どうしたんだろ……)
視線がふと、佐久間のシャツの襟元に落ちる。
喉のラインが陽にきらめき、艶やかに動くのを見た瞬間——思わず息が止まった。
(……セクシー、だ……)
自分の頭に浮かんだ言葉に、ナオは一番驚いていた。
(な、なに考えてるんだ僕……!)
胸の奥が急に熱くなり、慌てて窓の外へ視線を逃がした。
けれどその熱は、視線の先までは逃げてくれなかった。
──つづく。
「触れたい」「肩越しの距離を埋めたい」——それはナオがまだ言葉にしていない想いだったのかもしれません。
誰かの歌声に背中を押されるように、ナオのなかで何かが静かに動き始めたようです。
次回、ナオが“自分の手で”距離を詰めようとする第9話、お楽しみに。




