表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/41

第8話 匿名BGM、ターゲット確定

いつものカフェ。いつものパンケーキ。けれど、耳に届くBGMが今日は少し違って聞こえた。

誰かの“好き”が、佐久間さんの姿を借りて、歌になって流れてくる。

ナオの胸に、はじめての感情が芽を出した第8話。

──日曜の遅い朝。

グラインダーの唸りと、スチームミルクの白い息。

並んだトレーの上で、リネンのナプキンが小さく震える。


カウンターの内側で、伊織は短い挨拶を何十回も繰り返しながら、レジの列を捌いていた。

(……来た)


ガラス扉の鈴が鳴った瞬間、視界の端に“絵になる二人”が入る。

まず目を引くのは、背の高い黒髪。黒のオープンカラーシャツに細身のパンツ、足元は艶のあるローファーの佐久間。

その隣には、小柄でメガネ。やわらかな茶色の髪に、白Tと薄いグレーのジャケットのナオ。

高さのコントラストと色の抜け感まで含めて、二人はそのまま一枚の写真みたいに店内へ溶け込んだ。

(やっぱり好きだな、この並び)


彼らが列の先頭に来る。伊織はいつもの調子で微笑んだ。


「ご注文お伺いします」


「季節のレモンとリコッタのパンケーキを二つ。ドリンクは……フラットホワイトと、ロングブラックで」


佐久間の低い声が、端正に響く。

ナオが「お願いします」とぺこりと頭を下げた。


伊織は勇気をふりしぼって声をかけた。


「いつもありがとうございます。よく来てくださいますよね。お近くにお住まいなんですか?」


ナオが、人懐っこく目を細める。


「はい、最近このあたりに引っ越してきたんです。朝はここが一番落ち着くので」


「嬉しいです。……あ」


差し出されたスマホに伊織の視線が吸い寄せられた。透明ケースの内ポケットから、ゆるキャラのトレカが半分のぞいている。丸いクラゲの「くらら」。 


「それ、『くらら』ですよね。自分も好きで」


言いながら、伊織はエプロンの腰から下げているキーリングをくるりと回して見せる。夜光グリーンに縁取りされた、同じ「くらら」のアクリル。


ナオの顔がぱっと明るくなった。


「えっ、それ夜光のイベント限定のやつですよね!? いいな〜、プレミアの……!」


「先月のポップアップでたまたま手に入って。夜になると縁がふわっと光るんです。かわいいですよ」


「うわ、絶対ほしい……! くらら、グッズ出るたびに財布が軽くなるんですよね」


横で佐久間が小さく息を笑いに混ぜる。


「……増えるやつだな」


「増えます。際限なく増えます」


「そういえば、来月また“くらら”公式のポップアップがあるみたいです。限定マグ、告知出てましたよ」

「え、ほんとですか? 絶対行きます!」


「ありがとうございます。──焼き上がり、少しだけお待ちください。番号札“17”でお呼びしますね」


「はい」

二人の「ありがとう」が店内のノイズにきれいに混ざった。


──トレーを手に取った瞬間、伊織は自分の指先がわずかに震えているのに気づいた。


(話しかけちゃった……!)


鼓動が一拍だけ跳ねる。けれど、二人の反応はごく自然で、いつも通りやさしかった。

ほっと胸の奥で息がほどける。


(この前、姉と一緒に“あの格好”で会った時の顔、覚えられてたらどうしようって、ちょっとだけ怖かったけど……大丈夫。気づかれてない)


女装のときと、いまの自分。声の高さも、立ち姿も、ぜんぜん違う。

「いらっしゃいませ」をもう一度、喉の低い位置から出してみる。店の空調の音にまぎれて、平常運転に戻っていく。


(よかった。……そしてやっぱり、素敵だな、あの二人)

ナオは、店に入った瞬間からずっと耳の奥で女声が一本、細い糸みたいに鳴っていた。

スピーカーのBGMじゃない。誰かの“心の歌”だ。

注文しながらも、メニュー黒板を見上げるふりをしながら、ナオはつい店内をきょろきょろと見回してしまっていた。…どこから鳴っているのか、ナオには特定できない。


席に腰を下ろした途端、その歌がすっと鮮明になる。ナオの鼓膜のすぐそばで、やわらかく揺れた。


──♪ 長身の黒、襟元ゆるく

  低い声で言う「ロングブラック」

  磨いたローファー、床に光を置く


(……え、これ完全に佐久間さんのことじゃん)


耳を澄ませても、歌主はやっぱり特定できない。満席のざわめきとカップの触れ合う音に紛れて、声だけがふいに立っては消える。

(……まあ、そうだよね。佐久間さん、かっこいいもん)


──♪ その指先に触れたい

   肩越しの距離を埋めたい

   並んで歩く夢を見ている


(……え、ちょ、なにこれ!? “触れたい”とか“肩越し”って……)


ナオは思わず背筋を強張らせた。

(かっこいいって歌うだけじゃなくて……近づきたいって? どういう意味……誰が、誰に……?)


苦笑しつつも、グラスを指でくるりと回す手がわずかに震えていた。


トレーが届く。薄い黄色の生地にレモンの皮が散り、リコッタの白が陽に透ける。


──なのに、ナオはパンケーキの味をほとんど覚えていなかった。


気づけば、ひと口ごとに佐久間へ身を寄せて、声をかけている。

「それ、どうですか?」

「こっちもシェアします?」

いつもより距離が近い。自分から積極的に話しかけ、相槌を打ち、目を合わせてしまっている。


(……なんでこんなに必死に距離を詰めてるんだ、僕)


耳の奥にまだ残るあの歌詞。

“触れたい”“肩越しの距離を埋めたい”——まるで見知らぬ誰かが、佐久間に恋しているみたいだった。

(……嫉妬してる? 僕、嫉妬……?)


胸の奥がざわざわして落ち着かない。

パンケーキの甘さよりも、その気づきのほうがずっと強く舌に残っていた。


(僕、どうしたんだろ……)


視線がふと、佐久間のシャツの襟元に落ちる。

喉のラインが陽にきらめき、艶やかに動くのを見た瞬間——思わず息が止まった。

(……セクシー、だ……)


自分の頭に浮かんだ言葉に、ナオは一番驚いていた。

(な、なに考えてるんだ僕……!)

胸の奥が急に熱くなり、慌てて窓の外へ視線を逃がした。

けれどその熱は、視線の先までは逃げてくれなかった。


──つづく。


「触れたい」「肩越しの距離を埋めたい」——それはナオがまだ言葉にしていない想いだったのかもしれません。

誰かの歌声に背中を押されるように、ナオのなかで何かが静かに動き始めたようです。

次回、ナオが“自分の手で”距離を詰めようとする第9話、お楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ