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第4話 触れられたのは、心の奥

社員旅行の夜。まさかの修羅場から始まったふたりの時間。

怒りと不安と、それでもそばにいたい気持ちが重なって、静かに、でも確かに──。

「……何してるんだ」


背後から落ちてきた低い声に、空気がきしんだ。

結城の肩がつかまれ、ナオの前からわずかに引き離される。


「誤解ですよ。ちょっと冗談が過ぎただけで」


結城は笑みを崩さない。けれど、その目は笑っていない。

佐久間は手を離さず、短く言う。


「彼は、嫌がってた」


「そう見えました? ……大人ですし、合意があれば問題ないと思いますけど」


「合意は、言葉に出る」


言葉がぶつかり、夜風が行き場をなくす。ナオは喉がからからで、やっとの思いで声を出した。


「や、やめてください、って……言いました」


結城が一瞬だけ目を伏せ、それから肩をすくめる。


「──お邪魔だったみたいですね。すみません、旅の夜に」


軽く会釈だけ残して、結城は踵を返した。

簀の子がきしみ、足音が遠ざかる。しばしの静寂。


「……大丈夫か」


佐久間の声はさっきより低く、しかし、怒りの温度より心配が勝っていた。

ナオはかすかにうなずく。


「……はい。びっくりして、固まっちゃっただけで」


佐久間が目を細め、なにか言いかけたとき──


「おーい、ここか!」


廊下の向こうから真鍋が駆けてくる。肩で息をしながら二人の顔色を見て、すぐ眉を寄せた。


「大丈夫? ……あ、今の人」


真鍋は結城の背中が消えた方角をちらりと見やると、声を落とした。


「昼、チェックインのときには言わなかったけど、あれ“結城”でしょ。表向きは不動産だけど、こっちの界隈じゃちょっと有名。新宿でキャストやってる。筋トレ鬼、撮影人気、指名強いタイプ」


「……そう、なんですか」


「なにかされた?」


真鍋が真っ直ぐに問う。ナオは言葉を探し、佐久間は淡々と答えた。


「もう済んだ。問題ない」


「そっか。……んじゃ、話題変えるね」


空気を読み切った笑顔に戻り、真鍋は胸元から紙を一枚ひらり。


「家族風呂、押さえといた。四十五分、露天の木桶、個室。二人で行ってきな。──顔色、戻るよ」


「真鍋さん……ありがとうございます」


「任せな。俺は宴会戻って、うまく煙に巻いとくから」


背中をポンと叩かれ、二人は控えめな照明の廊下を並んで歩く。

途中、佐久間が短く息を吐き、ナオはその横顔を盗み見た。いつもの落ち着きに戻っている。でも、目の奥にはまだ、消えきらない熱がある。



家族風呂の戸を引くと、木と湯の匂いがふわりと満ちた。

脱衣の籠、白いタオル、曇りガラス。奥には、丸い木桶の露天がひとつ。竹の垣と夜空のあいだを、湯気がやわらかく往復している。


「……きれいですね」


ナオが小さく漏らす。佐久間は頷き、紺の浴衣の帯をほどいた。

ためらいなく畳んで籠に置く所作に、日常の静けさが宿る。黒のボクサーがちらと見えた瞬間、ナオの心臓が跳ねた。


(お、落ち着け僕……)


自分も浴衣を解き、慌ててタオルを巻く。急に恥ずかしさが込み上げた。目が泳ぐ。


「先に、入ってて」


促され、ナオは木桶の縁の側で湯にかかる。湯面がふわりと揺れて、肌を包む。温度は少し高め。張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていく。


後に続く佐久間の気配。そして木桶の湯の隣に沈む重みが伝わって、波が寄せる。


「さっきは、怖かったか」


「……びっくりはしました。でも、今は大丈夫です」


返事をして、ナオは湯の上に指を出す。ふやけかけた指先に、佐久間の視線が落ちるのがわかった。

見られている、と意識した途端、胸の奥がざわざわと忙しくなる。


そのとき──ナオの耳に、低くうねるベースが焦れたシンコペーションを刻み、細い弦がかすかに震える。抑え込んだ鼓動みたいなパーカッションが奥で鳴り、静かな熱がせり上がる。乱されながらも、まっすぐに向かう、佐久間の曲。


──♪ 奪わせない 波立つ胸の奥

   君はここだ 俺の隣で息をして

   守るだけじゃ足りない “俺のもの”でいて

   今夜 二度と その手を離さない


(……佐久間さん)


名前を呼ぶ前に、腕がそっと取られた。

湯にゆらぐ腕を掬うように引かれて、距離が近づく。

顎先に触れる指があたたかい。視線が重なって、夜が一段、深くなる。


「他の誰にも、触れさせたくない」


囁きは低く、真っ直ぐだった。

次の瞬間、唇が触れる。浅い口づけがもう一度、もう一度。重なるたび、呼吸が絡んで、熱が湯に溶けた。


「……っ」


唇が離れる。喉の奥で生まれた声が、かすれて零れた。

耳の後ろにかかる吐息、肩へ落ちる口づけ。

鎖骨のあたりで止まり、確かめるみたいにもう一度。

心臓の音が、湯の内側ではっきりと鳴る。


「嫌なら、言え」


「……嫌じゃ、ないです」


小さく、でもはっきりと。

佐久間の指が手首をたどり、そっと木桶の側にある木のベンチへと導く。

まだ湿り気を帯びた素足が木に触れたとき、ナオは少しだけ身を縮めた。


唇が、額。こめかみ。頬。

落ちてくる口づけは浅く、だけど数を重ねるほど、身体の奥で火が灯る。

直接触れていない場所まで、まるでなぞられているみたいに、皮膚が敏感に反応する。


「……れん」


気づけば、ナオの口から名前が零れていた。

自分でも驚くほど自然に、素直に、息と一緒に出てしまった音。

その声に、佐久間の指がほんの一瞬、わずかに震える。


「ナオ」


静かな夜。

木の香りと、少し冷たい風が、湯上がりの肌をやさしく撫でる。

ナオは、佐久間の視線を感じながら、そっと両腕で膝を抱えるように丸くなる。


(……見られてる……?)


タオル一枚。

それを隔てているとはいえ、いまの自分がどんな姿か、意識するだけでお腹の奥がぴくりと揺れる。

思わずタオルの端を掴んでぎゅっと握りしめた。


佐久間は何も言わない。ただ、視線だけを向けてくる。

逃げ道のない沈黙のなか、そのまなざしが、なにより雄弁だった。


「……そんな、見ないでください……」


しぼんだような声が、木の湯気にとける。

その声を合図にしたように、佐久間が手を伸ばす。


「可愛いなって、思っただけ」


囁きは、風よりも柔らかく耳に触れた。

鼓動が跳ね、ナオは思わず身体を揺らす。


唇が近づく。

ゆっくり、重なる。

もう逃げられないと知った瞬間、ナオは自分の奥で何かが溶けるのを感じた。


──♪ 溶けてく 夜の湯けむりに

   君の輪郭 やさしくなぞる

   指先じゃたりない

   心ごと 抱かせて


佐久間のBGMは、熱を秘めたまま、静かにナオの中を満たしていく。

さっきまでの強い主張は消え、まるで肌を撫でるような、滑らかな旋律だけが残った。

木の感触と体温と、ふたりの吐息が、夜に溶けていく。


(……ああ、愛されてる)


胸の奥に、なめらかで甘い何かが満ちていく。

たしかに、抱かれている。心まで、まるごと。


「……戻ったら、真鍋さんにお礼言わないとですね」


「そうだな」


短く交わした言葉。

ベンチの足元に落ちるふたりの影は、ぴたりと寄り添って──

竹の格子に、一つの形を描いていた。


──つづく。

いつもよりちょっと甘く、少しだけ強引な佐久間さんでした。

次回は、夜が明けたふたりの“リアル”と、少しずつ変わっていく心の距離を描きます。

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