第3話 お茶と佐久間さんとBGM
社外の人にも“心のBGM”が聴こえるようになったナオ。コンビニ店員や得意先の音に戸惑いながらも、どこか楽しくなってきている──そんな午後、ふと差し出した1本のお茶が、予想外の旋律を呼び起こすとは、彼自身まだ知らない。
日差しの強さが少し和らいだ午後三時すぎ。俺──三崎ナオは、会社から徒歩で10分ほどの得意先へ、書類の受け渡しに向かっていた。
外回りといっても大げさなものじゃない。だけど、こうして社外に出るのは気分転換にもなる。
ビル街の歩道を歩きながら、俺はすれ違う人々から微かに聴こえてくる“BGM”に意識を向けていた。
──どうやら、この現象は社内限定じゃないらしい。
前を歩くOL風の女性からは、軽やかなジャズピアノが漂い、配達員のお兄さんからはヒップホップ系の重低音が響いてきた。
そして、立ち寄ったコンビニのレジで──
「ありがとうございましたー」
明るい笑顔の店員さんの背後から流れてきたのは、まさかの演歌だった。
♪ああ、人生に悔いはない……だけど明日はどこへ行く〜♪
(ええっ、若そうなのに演歌!?)
動揺を隠しつつ会計を済ませた俺は、資料を届けたあと、少し遠回りして会社に戻った。
ビルに入った瞬間、外のざわつきがスッと引いて、いつもの“オフィスの音”が耳に馴染んでくる。
午後の仕事を終えたあとも、細かい雑務が片付かず、俺は残業をすることになった。静かなフロアには、コピー機のかすかな音だけが響いている。
(……あれ?)
ふと顔を上げると、佐久間さんがいた。
俺の斜め前の席で、いつものように静かに作業を続けている。
外回りの疲れで喉が渇いていた俺は、自販機に飲み物を買いに行くついでに、ふと思い立った。
(佐久間さん、今日も遅くまで残ってるし……)
俺はペットボトルのお茶を2本買い、席に戻ってから、そっと彼のデスクに近づいた。
「……あの、佐久間さん」
彼が顔を上げる。
「これ、よかったら。……暑かったですよね、今日」
佐久間さんは、ほんの一瞬だけフリーズしたように動きを止めた。
でも、すぐに無表情に戻って、静かに一礼してお茶を受け取った。
「……どうも」
その反応があまりにそっけなくて、俺は少しだけ気まずくなった。
(あれ……しまった。もしかして、佐久間さんってコーヒー派だったっけ)
気になった俺は、再び自販機に戻って今度は缶コーヒーを購入。
そして再びフロアへ戻ろうとした瞬間だった。
──聴こえた。
あの“音”が。
ふわりと、意識の奥に染みこむように、メロディが広がっていく。
♪ナオ……ナオ……gift for me……?
Is this real? Is this mine?──First one ever… thank you……♪
……まるで、プレゼントをもらった子どもみたいな喜びに満ちた、
少しぎこちなくて、でも真っ直ぐな英語混じりのバラード。
(な……なんだ、これ!?)
驚きと焦りで、俺は思わずフロアの手前で立ち止まり、そのままドアをそっと閉じてしまった。
心臓がバクバクいっている。
(今の、佐久間さんの……BGM!? あのお茶で!?)
少し時間を置いてから席に戻ると、佐久間さんは何事もなかったかのように、変わらぬ表情でパソコンに向かっていた。
「あ、さっきの……やっぱコーヒーの方がよかったかなって思って」
そう言って、俺は缶コーヒーをそっと彼のデスクに置いた。
佐久間さんは、それを見てまた一瞬、完全に静止した。
そして……
「……失礼」
と、小声で言って立ち上がり、鞄にお茶とコーヒーをきちんとしまうと、そそくさとオフィスを出て行った。
俺は、ぽかんとその背中を見送る。
(……お茶が嬉しかったのかな。なんか、意外)
そんなことを思いながら、まだ温かい缶コーヒーの余韻を手のひらに感じていた。
(つづく)
「静かな人ほど、心の中はうるさいのかもしれない」
そんな仮説が浮かぶくらい、佐久間さんのBGMは真っ直ぐでしたね。
気づかないふりをしながら、少しずつ近づいていく2人の距離感を、これからも楽しんでいただけたら嬉しいです。




