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エピローグ 第22話 月が綺麗な夜に

長かったようで、あっという間だった日々。

仕事場でのすれ違い、突然聞こえてきた“心のBGM”、予想もしなかった恋の始まり。

いくつもの瞬間を重ねて、ふたりはようやく“ちゃんと、出会う”夜を迎えます。


最後のBGMは──言葉じゃ足りない、でも確かに伝わる想い。

ナオと佐久間の、静かで強いラストを見届けてください。

数日後。

職場では、いつもの日常が流れていた。


「佐久間さん、来週の出張の件ですが──」

「午後イチで資料まとめといて。確認はその後でいい」


佐久間さんは変わらず、的確に業務をこなしている。

その姿は、以前と何も変わらないようでいて……

ほんの少しだけ、目の奥がやわらかくなったように見えた。


ナオも、以前と変わらず仕事をしていた。

ただ一つ、心のなかに大きな確かさを抱えながら。


──業務終了。


「おつかれー!」

「おつかれさまです!」


同僚たちがぞろぞろと帰っていく中、ナオはデスクでそっと時間を潰す。

タイミングをずらして、オフィスビルの外で佐久間さんと合流した。


「……待ったか?」


「いえ、今来たとこです」


自然に並んで歩き出す。

あえて会社の人たちの視界から外れるルートを選びながら。


「……やっちゃん、もう店に着いたみたいです」


「そうか。じゃあ、行こうか」


少し前、やっちゃんが言い出したのだ。

「ほんとにいろいろ迷惑かけたから、ちゃんとお詫びさせて!」と、やっちゃんは言っていた。

“お礼とお詫びとよろしくの会”、だそうだ。


ナオは最初、遠慮していたのだけど──


「大事な人の友達は、俺にとっても大事な友達だよ」


そう佐久間さんに言われて、心がじんわりとあたたかくなった。

そして今日、三人でご飯を食べに行くことになった。

「ちなみに、焼肉予約してるからね!」

──やっちゃんの弾んだ声が、数日前LINEに届いていた。


「……焼肉でいいんですか?」


「肉は好きだ」


ぶっきらぼうだけど、どこか柔らかい声だった。


ジュッという音とともに、網の上でカルビが焼ける香ばしい匂いが広がる。


三人掛けのテーブル。やっちゃんはビールジョッキ片手にご機嫌だ。


「佐久間さん、ほんと今日はありがとうね。無事にまとまって……ほっとしたよ」


「……いや、こちらこそ」


佐久間さんはグラスを軽く持ち上げ、やっちゃんと乾杯した。


ナオは冷たいウーロンハイを片手に、どこか気まずそうにしていた。


「ていうかさー、ちょっと聞いてもいい?」


やっちゃんが唐突に身を乗り出す。


「……いつから、ナオのこと好きだったんですか?」


「ぶっ!」


ナオがウーロンハイを盛大に噴きかける。


「な、なに言ってんのやっちゃん!?」


「だって気になるでしょ! こういうの、聞いとかないと!」


やっちゃんがケタケタと笑う一方で、佐久間さんは少しだけ驚いたように眉を動かし、それから視線をグラスに落とした。


「……たぶん、最初に意識したのは、入社してきた時だな」


ナオがぴくりと反応する。


「……あの年、俺の弟が亡くなって、ちょうど四十九日が終わった直後だった」


やっちゃんも思わず表情を引き締めた。


「家でも会社でも、ずっと無音みたいな日々だったんだけど……三崎が来て、なんていうか──音が戻った感じがした」


「……音?」


「うるさいって意味じゃないぞ」


「全然フォローになってないんですけど!」


ナオが慌てて突っ込むと、佐久間さんの口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだ。


「……すごく静かな時でも、コピー機の紙詰まりを直したあと、ちょっとだけ指をぱたぱたって振る癖、あるよな」


「……え?」


「あと、社内の備品棚、ほぼ毎回三崎がきっちり整えてる。誰も見てなくてもやってるとこ、知ってる」


「え、なんで知ってるんですか……」


「それから、書類に朱ペン入れる時、無意識にペンのキャップを口に咥えるクセもな」


「それは今すぐやめたい……」


やっちゃんが、くくっと笑いながら口に手を当てた。


「なにそれ……ガチで観察してないと気づかないやつ……」


「いや、別に見張ってたわけじゃない。ただ……気づいたら、目で追ってたんだと思う」


その声は淡々としていたけれど、どこか確かで、やわらかかった。


「……あの頃は、笑ってる人を見るだけで、救われる気がしたんだ。三崎が、よく笑うから……たぶん、それが最初」


ナオは赤くなって、箸を止めたまま、黙り込んでいた。


「……好きって、そういうもんなんですね」


やっちゃんがしみじみと呟いた。


「……そういうもんだな」


佐久間さんは、ひとつだけ残っていたカルビを、そっとナオの皿に置いた。


「……食え。冷める」


ナオは顔を真っ赤にしたまま、小さくうなずいた。


──◇

食後、やっちゃんと別れたあとの帰り道。

ナオと佐久間さんは、夜の街をゆっくりと歩いていた。


「……あ、そういえば……」


「ん?」


「この前、“ナオ”って呼んでくれたじゃないですか」


佐久間さんが、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。


「……ああ」


「それ、ずっと嬉しくて。なんか、名前で呼ばれるって……特別ですよね」


「お前も、俺のこと下の名前で呼んでいいんだぞ」


不意にそう言われ、ナオの足が止まる。


「……えっ?」


「……俺の、下の名前は──“れん”だ」


(れん……)


ナオは知っていた。

社内の名簿で見たこともあるし、何度か耳にもしたことがある。


でも──


「……呼ぼうと思っても、なんか……言えないですね……」


唇がもぞもぞと動くだけで、声にならない。

呼びたいのに、呼べない。

なんだかくすぐったくて、恥ずかしくて。


そんなナオの手に、ふいに温もりが重なる。


佐久間さんの指が、ナオの手に絡まり──

きゅ、と、やさしく握ってきた。

その瞬間。


──♪ ル〜ル〜ル〜 言葉じゃ足りない

ル〜ル〜ル〜 でもこの胸は

好きって ただそれだけで いっぱいで

そばにいたいよ そばにいたいよ……


(……うわ、なにこの歌……きれいすぎる……)


言葉にできない想いが、音になって降りそそぐ。


まるで心の奥の奥に触れられたようで──

ナオは思わず、目を閉じてしまいそうになった。

見上げると、夜空には月。


「……月が、綺麗だな」


「…………はい」


言葉なんて、いらない気がした。

この温度だけで、すべてが伝わる気がして。


ふたりは黙ったまま、しばらく夜道を歩いた。


心地よい沈黙と、寄り添う手のぬくもり。


──まるで、これから先の未来が

ずっとこのまま、続いていくような。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

心のBGMが聞こえるという、少し不思議でちょっと切ない設定から始まった物語が、ようやく一つの区切りを迎えました。


恋は、言葉になる前に、音になるのかもしれません。

そしてその音は、相手がたったひとりであればあるほど、美しく鳴り響くものだと信じています。


今後も、彼らの日常は静かに続いていきます。

またどこかで、ふと“音”が聞こえてきたとき──続きを描く日が来るかもしれません。


心からの感謝を込めて。

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