エピローグ 第22話 月が綺麗な夜に
長かったようで、あっという間だった日々。
仕事場でのすれ違い、突然聞こえてきた“心のBGM”、予想もしなかった恋の始まり。
いくつもの瞬間を重ねて、ふたりはようやく“ちゃんと、出会う”夜を迎えます。
最後のBGMは──言葉じゃ足りない、でも確かに伝わる想い。
ナオと佐久間の、静かで強いラストを見届けてください。
数日後。
職場では、いつもの日常が流れていた。
「佐久間さん、来週の出張の件ですが──」
「午後イチで資料まとめといて。確認はその後でいい」
佐久間さんは変わらず、的確に業務をこなしている。
その姿は、以前と何も変わらないようでいて……
ほんの少しだけ、目の奥がやわらかくなったように見えた。
ナオも、以前と変わらず仕事をしていた。
ただ一つ、心のなかに大きな確かさを抱えながら。
──業務終了。
「おつかれー!」
「おつかれさまです!」
同僚たちがぞろぞろと帰っていく中、ナオはデスクでそっと時間を潰す。
タイミングをずらして、オフィスビルの外で佐久間さんと合流した。
「……待ったか?」
「いえ、今来たとこです」
自然に並んで歩き出す。
あえて会社の人たちの視界から外れるルートを選びながら。
「……やっちゃん、もう店に着いたみたいです」
「そうか。じゃあ、行こうか」
少し前、やっちゃんが言い出したのだ。
「ほんとにいろいろ迷惑かけたから、ちゃんとお詫びさせて!」と、やっちゃんは言っていた。
“お礼とお詫びとよろしくの会”、だそうだ。
ナオは最初、遠慮していたのだけど──
「大事な人の友達は、俺にとっても大事な友達だよ」
そう佐久間さんに言われて、心がじんわりとあたたかくなった。
そして今日、三人でご飯を食べに行くことになった。
「ちなみに、焼肉予約してるからね!」
──やっちゃんの弾んだ声が、数日前LINEに届いていた。
「……焼肉でいいんですか?」
「肉は好きだ」
ぶっきらぼうだけど、どこか柔らかい声だった。
◇
ジュッという音とともに、網の上でカルビが焼ける香ばしい匂いが広がる。
三人掛けのテーブル。やっちゃんはビールジョッキ片手にご機嫌だ。
「佐久間さん、ほんと今日はありがとうね。無事にまとまって……ほっとしたよ」
「……いや、こちらこそ」
佐久間さんはグラスを軽く持ち上げ、やっちゃんと乾杯した。
ナオは冷たいウーロンハイを片手に、どこか気まずそうにしていた。
「ていうかさー、ちょっと聞いてもいい?」
やっちゃんが唐突に身を乗り出す。
「……いつから、ナオのこと好きだったんですか?」
「ぶっ!」
ナオがウーロンハイを盛大に噴きかける。
「な、なに言ってんのやっちゃん!?」
「だって気になるでしょ! こういうの、聞いとかないと!」
やっちゃんがケタケタと笑う一方で、佐久間さんは少しだけ驚いたように眉を動かし、それから視線をグラスに落とした。
「……たぶん、最初に意識したのは、入社してきた時だな」
ナオがぴくりと反応する。
「……あの年、俺の弟が亡くなって、ちょうど四十九日が終わった直後だった」
やっちゃんも思わず表情を引き締めた。
「家でも会社でも、ずっと無音みたいな日々だったんだけど……三崎が来て、なんていうか──音が戻った感じがした」
「……音?」
「うるさいって意味じゃないぞ」
「全然フォローになってないんですけど!」
ナオが慌てて突っ込むと、佐久間さんの口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだ。
「……すごく静かな時でも、コピー機の紙詰まりを直したあと、ちょっとだけ指をぱたぱたって振る癖、あるよな」
「……え?」
「あと、社内の備品棚、ほぼ毎回三崎がきっちり整えてる。誰も見てなくてもやってるとこ、知ってる」
「え、なんで知ってるんですか……」
「それから、書類に朱ペン入れる時、無意識にペンのキャップを口に咥えるクセもな」
「それは今すぐやめたい……」
やっちゃんが、くくっと笑いながら口に手を当てた。
「なにそれ……ガチで観察してないと気づかないやつ……」
「いや、別に見張ってたわけじゃない。ただ……気づいたら、目で追ってたんだと思う」
その声は淡々としていたけれど、どこか確かで、やわらかかった。
「……あの頃は、笑ってる人を見るだけで、救われる気がしたんだ。三崎が、よく笑うから……たぶん、それが最初」
ナオは赤くなって、箸を止めたまま、黙り込んでいた。
「……好きって、そういうもんなんですね」
やっちゃんがしみじみと呟いた。
「……そういうもんだな」
佐久間さんは、ひとつだけ残っていたカルビを、そっとナオの皿に置いた。
「……食え。冷める」
ナオは顔を真っ赤にしたまま、小さくうなずいた。
──◇
食後、やっちゃんと別れたあとの帰り道。
ナオと佐久間さんは、夜の街をゆっくりと歩いていた。
「……あ、そういえば……」
「ん?」
「この前、“ナオ”って呼んでくれたじゃないですか」
佐久間さんが、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。
「……ああ」
「それ、ずっと嬉しくて。なんか、名前で呼ばれるって……特別ですよね」
「お前も、俺のこと下の名前で呼んでいいんだぞ」
不意にそう言われ、ナオの足が止まる。
「……えっ?」
「……俺の、下の名前は──“蓮”だ」
(れん……)
ナオは知っていた。
社内の名簿で見たこともあるし、何度か耳にもしたことがある。
でも──
「……呼ぼうと思っても、なんか……言えないですね……」
唇がもぞもぞと動くだけで、声にならない。
呼びたいのに、呼べない。
なんだかくすぐったくて、恥ずかしくて。
そんなナオの手に、ふいに温もりが重なる。
佐久間さんの指が、ナオの手に絡まり──
きゅ、と、やさしく握ってきた。
その瞬間。
──♪ ル〜ル〜ル〜 言葉じゃ足りない
ル〜ル〜ル〜 でもこの胸は
好きって ただそれだけで いっぱいで
そばにいたいよ そばにいたいよ……
(……うわ、なにこの歌……きれいすぎる……)
言葉にできない想いが、音になって降りそそぐ。
まるで心の奥の奥に触れられたようで──
ナオは思わず、目を閉じてしまいそうになった。
見上げると、夜空には月。
「……月が、綺麗だな」
「…………はい」
言葉なんて、いらない気がした。
この温度だけで、すべてが伝わる気がして。
ふたりは黙ったまま、しばらく夜道を歩いた。
心地よい沈黙と、寄り添う手のぬくもり。
──まるで、これから先の未来が
ずっとこのまま、続いていくような。
完
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
心のBGMが聞こえるという、少し不思議でちょっと切ない設定から始まった物語が、ようやく一つの区切りを迎えました。
恋は、言葉になる前に、音になるのかもしれません。
そしてその音は、相手がたったひとりであればあるほど、美しく鳴り響くものだと信じています。
今後も、彼らの日常は静かに続いていきます。
またどこかで、ふと“音”が聞こえてきたとき──続きを描く日が来るかもしれません。
心からの感謝を込めて。




