第2話 あのBGMは、誰のもの?
人の“心の音楽”が聴こえるようになったかもしれない──
そんな非現実を前に、ナオはひとつの仮説を立てて、検証を始めます。
少しずつ見えてくる人間模様、そして……ひとりだけ音が聴こえない男、佐久間。
静かに進行していた“異変”が、ふとした瞬間に波紋を広げていきます。
昼休みの喧騒がまだ社内のあちこちに残る中、俺──三崎ナオは、自分のデスクに戻っても、ひとつも仕事が手につかなかった。
キーボードの上で指が宙ぶらりんになったまま、ただぼんやりと画面を見つめている。
あれは、なんだったんだろう。
人の心から……音楽が、聴こえていた? 本当に?
「そんなわけ、あるか」
思わず、口に出してしまった。
でも、たしかに聞こえていたんだ。受付の吉永さんから流れてきた、あのアイドルソング。
課長から響いた、軍隊みたいなブラスバンド。
幻覚? ストレスによる錯覚?
いや、音楽の傾向とその人の性格が、あまりにも合致していた。
偶然と言うには、出来すぎている。
(……検証、してみよう)
俺は立ち上がり、社内の給湯スペースへと向かった。午後の始業まで、まだ少し時間がある。
──まずは、同僚の音を聞いてみよう。
そこには、広報の佐々木さんと、経理の久保さんが立っていた。二人とも仲が良くて、昼食のあとにお茶を淹れているのはよく見かける光景だ。
佐々木さんのそばに立った瞬間、耳の奥にふわりと響いたのは、澄んだピアノの旋律だった。
どこか儚げで、でも優しく包み込むようなメロディ。
(……なんか、すごく佐々木さんっぽい)
そして、久保さんに視線を移すと、その場に流れ込んできたのは……トランペットのソロ。
勇ましくて、どこか間の抜けたような、でも嫌いになれない音色。
「うわ……マジで、聴こえてる……」
つぶやいた言葉に、二人がこちらを振り返る。
「え?」
「い、いえ、何でもないです」
ぎこちない笑顔を作って、その場を離れた。
──こんな現象、他に誰が経験してるっていうんだ。
自分だけが異常なんじゃないかって不安が、徐々に現実味を帯びてくる。けれどそれと同時に、ほんの少しだけ、興奮もあった。
誰にも見えない“心の音”が、自分には聞こえている──その感覚は、妙にくすぐったく、魅力的でもあった。
午後の仕事を終える頃には、俺はほとんどの社員の“BGM傾向”を把握しつつあった。
──それでも、彼の音は、まだ聴いていない。
佐久間悠人。
俺の斜め前に座る男。クールで無口、だけど仕事は完璧で、社内でも一目置かれている存在。
入社してすぐ、配属先で出会った先輩──それが佐久間さんだった。
俺より三つ年上で、直属の上司ではないけど、業務の相談に乗ってくれることもある。
だけど……ほとんど私語を交わしたことはない。
彼の周囲には、なぜか“音”がない。気づけば彼のそばでは音が消えるのだ。
何度も近くを通ってみたが、ノイズのような、無音のような、奇妙な感覚だけが残った。
(なんで……佐久間さんからだけ、音がしない?)
興味と、得体の知れない焦りが混じる。
全員から聞こえるなら、それで納得できる。でも、彼だけが“例外”だなんて──
午後7時、定時を過ぎてもデスクに残る社員は少なかった。
俺は資料を片付けるふりをしながら、こっそり佐久間さんの席に目を向けた。
彼は、まだいた。モニターを見つめたまま、静かにタイピングを続けている。
そのときだった。
ふ、と──耳の奥に、旋律が流れ込んできた。
……静かで、やわらかな旋律だった。
耳ではなく、意識の底で“かすかに”流れてくる音楽。
ゆっくりとしたテンポで、どこか懐かしく、切ないような、
──それでいて、奇妙な既視感を伴うメロディ。
その中に──ほんの一瞬だけ、言葉が混ざった気がした。
♪……nao……nao……♪
(……え?)
反射的に周囲を見渡す。
けれど、誰もこちらを気にしている様子はない。
佐久間さんはいつも通り、無表情でモニターを見つめているだけだった。
(今の、俺の……名前? ……いや、まさか。空耳か?)
鼓動が一拍遅れて強くなる。
けれど、次の瞬間には、旋律も、言葉も、跡形もなく消えていた。
なんだったんだ、今の……。
思わず席を立ち、給湯室へ向かう。
頭を冷やすように、水を一口。
喉を通る感覚よりも、その前に聞こえた“あの声”が気になって仕方がなかった。
(nao……って、言ってたよな……でも、それが俺のことだって、どうして……?)
その音楽は、ただの幻聴だったのかもしれない。
それとも──何かの、始まりだったのか。
けれど、今の俺には、それを知る術もなかった。
つづく
ご覧いただきありがとうございます。
2話では“日常の中の違和感”を中心に描きました。
無音の佐久間、そして最後に流れたかすかな旋律。
まだ確信には至らないけれど、何かが始まりかけている──
そんな“前夜”のような回です。
3話以降、ナオが“BGMの真相”にさらに迫っていく中で、
佐久間との距離も少しずつ変化していきます。
もしよろしければ、次回もお付き合いくださいませ!