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第10話 その言葉が、遠くて苦くて、あたたかかった。

オフィスから少し離れた静かな店で、ふたりきりの食事。

少しの酔いと、ふいの優しさ。

それは嬉しいはずなのに、なぜか胸がざわついた。

佐久間さんの言葉に揺れるナオの心——その理由は、まだ自分でもわからない。

夜の街を歩くこと十分ほど。

オフィスから少し離れた、石畳の坂道を上った先に、その店はあった。


「ここ……?」


俺が戸惑って立ち止まると、佐久間さんは扉を押しながら言った。

「静かで、うまい店だ」


カラン、と鈴の音。


中は、木の温もりと和紙の灯りに包まれたシックな空間だった。広くはないが、居心地のよさそうなカウンターがメインで、奥には小さな個室もいくつかあるらしい。


「いらっしゃいませ……あら、佐久間さん、お連れ様がいらっしゃるなんて珍しいですね」


笑顔の店員さんにそう言われて、俺はなんだか居心地が悪くなった。


「常連……なんですね?」


「……まあな」


佐久間さんは無言でジャケットを脱ぎ、俺の後ろのハンガーラックにかける。

そのとき、ふわりといい匂いがした。香水じゃない。多分、柔軟剤と本人の体温が混ざった、落ち着いた香り。


(……なんか、ちょっとドキッとした)


俺は慌てて案内された佐久間さんの隣のカウンターの席につき、メニューに目を落とす。


「いつもの」


佐久間さんは一言だけそう言うと、グラスワインをオーダーした。


運ばれてきたのは、見た目にも美しい料理たち。白い器に盛られた季節野菜の炊き合わせ、鯛の昆布締め、炙り和牛の一皿。


「……なにこれ、めっちゃ美味しい……」


俺はひと口食べて思わず声が漏れた。


「静かに食え」


「す、すみません……!」


でも、笑ってる。目元が、少しだけ緩んでた。


ワインも軽めで飲みやすく、俺はすっかり酔いがまわり、ほっぺたがぽかぽかしてきた。

「……なんか、珍しいな」


「え?」


「こんなふうに、誰かとゆっくり飯食うの」

ぽつりと、佐久間さんがつぶやく。


カウンターの明かりが、グラス越しに揺れている。

グラスを傾けた佐久間さんの横顔は、どこか少しだけ遠くを見ていた。

「……実はな、俺には弟がいた」


不意に、佐久間さんが口を開いた。

「え?」


「お前と同じくらいの歳だった。……もう、いないけどな」


空気がすっと変わった。


「弟は、生まれつき身体が弱くて、ずっと病院と家の往復だった。俺ばっかり親と出かけて、どこか後ろめたさもあった」


グラスの縁を指先でなぞりながら、彼は続けた。


「医者には、小さい頃から“長くは生きられないかもしれない”って言われてて。……三崎が入社した年に、亡くなった」


「……そう、だったんですね」


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


「だから、なのかもな。お前みたいなやつと、こうして飯を食ってると……できなかったこと、少しずつ取り返せてる気がして、嬉しいんだ」


佐久間さんは、まっすぐ俺を見て言った。


「……よかったら、たまにはこうやって飲みに付き合ってくれ」


「……」


気づけば、俺は涙がこぼれそうになっていた。


でも──その言葉の意味を理解して、ふいに胸がぎゅっと締めつけられる。


(……弟。そうか、佐久間さんは、俺のことを弟みたいに……)


胸の奥が、じんわりと鈍く痛んだ。

言葉にすれば、ただの「ありがとう」なのに。

優しいはずのその想いが、なぜか俺には、やけに遠く感じた。


(ああ、そうか……そういう意味だったんだ)

ぽつりと、腑に落ちた気がして──

でも、その瞬間、足元がぐらっと揺れたような気がした。


嬉しいはずなのに、泣きそうになるのはどうしてだろう。

「誘ってもらえて嬉しい」って、さっきまで思ってたはずなのに。


ショックだった。

でも、それ以上に──

なんで俺がこんなにショックを受けてるのか、自分でもわからなかった。

胸の奥で、何かが苦しくて、もどかしくて。

なのに、その正体に、まだ触れられない。


(……俺、どうしちゃったんだろ)



──つづく。

読んでくださってありがとうございます。

今回は、佐久間さんの過去とナオの“自覚前”の心の揺れを丁寧に描いてみました。

「嬉しいのに、なんだか切ない」そんな気持ち、経験ありませんか?

次回はこの余韻を抱えたまま、ふたりの距離がまた少し変化する予定です。

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