30.桜舞う季節
恭吾のSUV車に乗り込み、七海は助手席でこれから向かう場所を静かに見つめていた。この地で生まれ育った七海は、学生時代から辛いことや悲しいことがあった時、誰にも言えない悩みを抱えた時、そして志望校を決める、結婚する、など人生の大きな決断をする時にも必ず足を運んでいたかけがえのない大切な場所だった。
車は、少しばかり傾斜のある道をゆっくりと、しかし力強く昇っていく。七海の軽自動車では、アクセルを踏むたびにエンジンがブオンブオンと苦しそうな音を立てていた坂道も、恭吾のSUVは、静かに、そして軽快に進んでいく。
「綺麗な場所ですね。」
木々の間を抜け視界が開けた場所で、恭吾が穏やかな声で言った。
「うん。学生時代からの思い出の場所なの」
七海は、窓の外に広がる景色を見ながらそう答えた。
地元の人しかほとんど知らない秘密の場所だった。人通りもめったになく、七海は、一人になりたい時や誰にも邪魔されずに考え事をしたい時、いつもここに来て時間を過ごしていた。小高い丘の上からは、どこまでも広がる青い海を一望できる。今日は、雲一つない晴天で降り注ぐ太陽の光が海面に反射し、まるで無数の宝石を散りばめたようにキラキラと一面が輝いている。
3月末になり、周囲の桜の木々は固い蕾をゆっくりと開き始め淡いピンク色の花を咲かせている。温かい春の陽気と、穏やかな風に包まれ、時折、花びらがひらひらと舞い落ちてくる。その光景は、まるで絵画のように美しく、七海の張り詰めていた心を優しく包み込んでくれるようだった。
車を降り、二人で丘の端まで歩いていく。七海は、何と切り出していいか分からず、ただただ目の前に広がる美しい景色を言葉もなく眺めていた。別れを告げに来たのに、この穏やかな空気に包まれていると、そんな言葉が喉の奥で 詰まってしまう。
そんな静寂をやぶったのは恭吾だった。
「僕、この前、七海さんが帰った時に、シンデレラを思い出しました。あの夜、七海さんが、ほんの少しでも僕を頼ってきてくれた気がしてすごく嬉しくて、守りたいって強く思ったんです。良い雰囲気になったと思ったのに、朝になったら、まるで人が変わったように何も言わずに走って去っていって。魔法が解けて、どこか遠くへ行っちゃったんじゃないかって。」
恭吾は少し照れたように、でも真剣な眼差しで七海を見つめながらそう言った。
「……恭吾くんってロマンチストだね」
七海は、思わず苦笑いを浮かべながら答えた。彼の純粋な感性に、心がほんの少しだけ和んだ。
「そうですか?でも、その後、もしかしたら、僕に何か危険を感じて、逃げるように帰ったんじゃないかとか、もしかしたら、嫌われてしまったんじゃないかって、ずっと不安でした。ポロンや魚基地で、偶然会えるかもしれない、と何度も思ったけれど、全然会えなくて……本当に、偶然でもいいから、どうにかして、もう一度、逢いたいと思っていました。」
恭吾の、切実な言葉が七海の胸に深く突き刺さる。
「……私ね、あの時、これ以上一緒にいたら、きっと離れたくなくなってしまうと思ったの。それが、すごく、怖くて、逃げるように帰ったの。……私は、母親で、母親だから……。守るべき、大切な子どもたちがいるから、自分の感情に溺れてはいけないと思った。」
七海は、ゆっくりと言葉を選びながら自分の複雑な思いを少しずつ恭吾に打ち明けた。
「……。」
恭吾は、何も言わず、ただ静かに、七海の言葉に耳を傾けている。その真剣な眼差しが、七海の背中をそっと押してくれるようだった。
「今までね、ずっと自分のことを後回しにして、子ども優先、家族優先で過ごしてきたんだ。そのうち、自分が何が好きで、何をしたいのかも、だんだん分からなくなっていた。そんなこと考えることさえしなくなっていた。だから恭吾くんに出逢って、楽しそうに自分のことを話す恭吾くんがすごく眩しくて輝いて見えた。一緒にいたら、きっと楽しいだろうな、同じ時間を過ごして、自分も恭吾くんのようにキラキラとした笑顔で話している姿が自然と想像出来たの。」
七海は、遠い目をして、自分の心の奥底にしまっていた、秘めた思いを語った。
「でも……私は、恭吾くんといると弱くなってしまう。恭吾くんが、優しく、温かく包み込んでくれるから、その優しさに甘えてしまう。母親として、強くあるようにと、ずっと鎧をまとって生活していたのに、恭吾くんといると、その鎧の重さに気がついて、ふっと力が抜けて弱くなってしまうの。」
「……私は、弱くなるわけにはいかない。私は、母親で、子どもたちのことが、本当に大好きで、大切だから、これからは子どもたちのためにしっかりと生きていこうって改めて決めたの。だから、父親のことが大好きな子どもたちのために、夫と別れるつもりもない。別れるつもりがないのに、恭吾くんの気持ちに応えることはできない。恭吾くんに迷惑がかかってしまうし、恭吾くにんには幸せになってほしいの。だから……これ以上、一緒にいることはできない」
七海は、言葉の途中で何度も声を詰まらせ、顔を歪めながら、何度も鼻をすすり溢れてくる涙を拭いながら懸命に自分の気持ちを伝えた。うまく伝えられているか不安になったが、それでも、恭吾に惹かれている気持ちがあること、しかし、子どもたちのために夫と別れるつもりはないこと、そして、今の生活を守るために、以前の、母親としての自分に戻ることを必死で伝えた。
恭吾は、七海の言葉が終わると、しばらくの間、俯いて口元に手を当てて、何も言わずにいた。彼の表情からは様々な感情が読み取れた。
そして、ゆっくりと顔を上げた恭吾は、潤んだ瞳で七海を見つめながら、静かに言った。
「……いつも、そんなに鎧をまとっていなくても、いいんじゃないですか?僕の前では、その鎧を外して、自分の気持ちも、もっと大切にしたら、駄目ですか?そのあと、普段の生活に戻るために、また鎧を着れるように、今度は僕が七海さんをサポートするから。」
恭吾の瞳からも、大粒の涙が、静かにこぼれ落ちた。
「それは恭吾くんに悪い。恭吾くんを困らせるようなことは出来ない……。」
七海は、首を横に振り、そう答えた。
「そう言うなら、僕といると幸せだと感じてくれているのに僕から離れようとしている七海さんの行動は矛盾しています。嫌ではないのに、今後二度と会えないなんて僕は嫌です。その方がずっと困っています」
恭吾は、声を震わせながら自分の正直な気持ちをぶつけた。
「……ごめんなさい。」
七海は、それ以上何も言い返すことができなかった。ただ、罪悪感とどうしようもない切なさで胸がいっぱいになった。
「ねえ、七海さん?」
恭吾は優しく七海の名前を呼び、七海が顔を上げた瞬間、力強く抱きしめた。突然のことに、七海は息を呑んだ。恭吾の腕は、優しく、そして温かく、七海の背中を包み込む。
「いや……ですか?」
恭吾が、七海の耳元で囁くように問いかけてくる。その声は、かすかに震えていた。
「……ずるい、嫌じゃないって、分かってるくせに……。ずるいよ」
七海は、そう呟きながら恭吾の背中にそっと手を回した。
「はい、ずるいです。でも嫌じゃなかったら、側にいたいです。僕は七海さんの側にいて支えたいです。」
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