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29.別れ


三月に入り、春の兆しは感じられるものの空気はまだひんやりと肌を刺す。

喫茶ポロンが、今月末で静かにその歴史に幕を閉じる。そして、そのポロンの最後の土曜日に恭吾から会いたいと言われ、七海の心を激しく揺さぶっていた。



小学一年生になった海斗と、幼稚園の年中になった陽菜。愛しい二人の子どもたちのことを思えば、母親として会うべきではない。


恭吾のためにも、既婚者である自分のことは、早く忘れて新しい幸せを見つけてほしいから会わない方がいい。


頭の中では、幾度となく明確な理由が冷静な言葉となって繰り返される。

それなのに七海の心は、まるで嵐の海に浮かぶ小舟のように、激しく揺れ動き制御がきかない。あれから何度も何度も自問自答を繰り返した。


ただ、もう一度彼の顔を見てきちんと「さよなら」を言いたい。曖昧なまま、この気持ちに蓋をして日常に戻ることはきっとできない。七海はそう強く感じていた。自分自身にけじめをつけるためにも、恭吾が前に進むためにも会う必要がある。


約束の土曜日。七海は、重い決意を胸に、ポロンへと向かった。



「七海さん……」


恭吾は、七海の姿を見つけると安堵し、そしてほんの少しだけ期待を込めたような優しい微笑みを浮かべた。その笑顔が、七海の胸に複雑な感情を呼び起こした。


「来てくれたんですね」


恭吾の、穏やかな声が七海の耳に届く。


「……うん」


七海は、精一杯平静を装いながら小さく頷いた。今日は、笑顔で彼に別れを告げよう。そう心に決めていたのに、彼の優しい顔を見た途端、胸が締め付けられ言葉が出かかった「さよなら」は、喉の奥で詰まってしまった。


「あの……」


七海は、深呼吸を一つして、覚悟を決めて、言葉を紡ぎ始めた。


「今日は、恭吾くんに、ちゃんと別れを告げに来たの」


七海の言葉を聞いた瞬間、恭吾の顔から笑みが消え、代わりに戸惑いと悲しみの色がじわじわと広がっていくのがわかった。


「別れ……?」


恭吾は、低い声で問い返した。


「うん。でも、ここだと、少し話しづらいかな」


閉店を惜しむ常連客で、店内は賑わいを見せていた。思い出話に花を咲かせている人たち、名残惜しそうにコーヒーを味わっている人たち。そんな喧騒の中で話をするのは気が引けた。きちんと落ち着いて自分の気持ちを伝えたい。


「そうですね、七海さんの事情もあるだろうし飲んだら場所変えましょうか。」



恭吾は、明らかに落胆した声だったが、それでも七海の気持ちを理解しようと努めてくれる彼の優しさに七海は胸が痛んだ。恭吾の横顔を、七海はぼんやりと見つめていた。幸いなことに、この喫茶店には七海の知り合いはいなかった。恭吾が座るテーブルの向かいにそっと腰を下ろし、いつものブレンドコーヒーを頼んだ。この店で何度も顔を合わせ、言葉を交わしてきた二人だったが、こうして同じテーブルに並んで座るのは、今日が初めてだった。


(もう、こうして一緒に食事をしたり、コーヒーを飲んだりすることはないのだろうな……。)


そんなことを思い、感傷に浸りながら、運ばれてきた最後のコーヒーとトーストを、ゆっくりと味わった。サイフォンで丁寧に淹れられたコーヒーは、今日も変わらず高貴な香りで、七海の疲れた心をほんの少しだけ癒してくれた。



お互い、言葉少なに静かにコーヒーを飲み干し店を後にした。この店の最後の思い出は、先月、窓から一人で眺めた恭吾のアパートではなく、今日、恭吾と一緒に味わった温かいトーストの記憶へと静かに変わっていった。


店を出ると恭吾が遠慮がちに尋ねてきた。

「場所、どこがいいですか?僕の部屋だと、マズいですよね……。車を出しますので、どこか行きましょうか?」


喫茶店では人目が気になる。かといって、他にゆっくりと話せるような場所もすぐには思いつかなかった。

恭吾の部屋に入るのは抵抗があり、七海はしばらく黙っていると、七海の心にある場所が浮かんできた。


「……行きたい場所があるの。そこでもいい?」


七海は、意を決してそう言った。

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@MAYA183232

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