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28.閉店

夏が終わり、秋の深まりを感じる間もなく、街は再び冬の冷たい空気に包まれていた。木枯らしが吹き抜け、枯葉が舞い上がる季節。七海は、日々の慌ただしさの中で、過ぎゆく時間に身を任せていた。




2月に入り、七海は思い出の詰まった喫茶ポロンが3月末で閉店することを知る。近所の人の噂で耳にしたその知らせは、七海の心に小さな波紋を広げた。店主の体調不良が原因らしい。あの場所から遠ざかって、一年近い月日が流れた。恭吾ともあの雨の日以来、一度も顔を合わせていない。


思えば、二人の接点は、あの温かいコーヒーの香りが漂う喫茶店と、活気あふれる魚基地だけだった。普段の生活圏も行動する時間帯も全く違う二人。恭吾が転勤族だったことを思えば、もうこの街にはいないのかもしれない。そんなことを考えると、胸の奥にほんの少しの寂しさが湧き上がってきた。


2月末、七海は最後の思い出作りのために意を決して店へと向かった。いつもは土曜日に訪れていたが、恭吾と偶然再会する可能性を少しでも減らすために、今日は日曜日の午後の時間を選んだ。


店の扉を開けると、懐かしい温かいコーヒーの香りが鼻を優しくくすぐった。しかし、レジに立っていたのは初めて恭吾と出会った時にいた大学生の男の子ではなく、見慣れない少し年配の女性だった。時の流れを感じるとともに一抹の寂しさが七海の心に広がった。



いつものように窓際の席に腰を下ろし、温かいコーヒーをゆっくりと味わいながら七海はぼんやりと店の外に目をやった。通りを挟んだ向かいには恭吾が住んでいたアパートが見える。あの窓の向こうで、彼も同じようにこの街の景色を見ていたのだろうか。もう二度と会うことはないかもしれない、遠い存在になってしまった恭吾のことを思うと、胸が締め付けられるように切なくなった。


運ばれてきたトーストをゆっくりと口に運ぶと、様々な記憶が鮮やかに蘇ってきた。恭吾がいないかさりげなく店内を見渡した日のこと。目が合いぎこちなく会釈を交わしたこと。そして、あの雨の日のこと……。



「僕じゃダメですか?僕に七海さんの悲しみを取らせてもらえませんか?」


あの時、耳の奥で響いた切なく、そして真剣な声が再び七海の鼓膜を震わせた。胸が締め付けられるように苦しくなった。彼の優しい言葉、温かい眼差しが思い出される。



(恭吾くん……ありがとう。)

七海は心の中でそっと呟き、ゆっくりと残りのコーヒーを飲み干した。



店を出て、恭吾のアパートを見上げている時だった。背後から、聞き慣れた優しい声が七海を呼んだ。


「七海さん」

驚いて振り返ると、恭吾が少し戸惑ったような表情で立っていた。


「恭吾くん……」

七海は思わず彼の名前を呟いた。再会するなんて夢にも思っていなかった。


「あの……」

恭吾は、言葉を探すように少し視線を彷徨わせ、そして、ゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。


「……あの夜のこと、本当にすみませんでした。心配で、少しでも一緒にいたかっただけだったんです。でも、僕は、七海さんを傷つけてしまった……。嫌われても仕方がないと思っています。だけど、それでも、どうしても、七海さんに会いたかったです。」


真っ直ぐと偽りのない言葉で伝えてくる恭吾の言葉に、七海の胸は熱くなるのを感じた。あの時、何も言わずに立ち去ってしまったこと。恭吾に誤解を与えたままにしてしまったことを後悔していた。本当の理由を話さなければ。


「恭吾くん……あのね、私、結婚してるの」


七海の口から出た予想外の言葉に恭吾は目を大きく見開いた。驚愕の色が彼の表情を覆った。


「小学一年生と、年中の子どもがいる。夫は単身赴任中で、一緒に住んでいないし、今後もその予定はない。でも、私は既婚者だから……あの朝、現実に戻って、罪悪感に襲われて、あなたから逃げるように帰ってしまったの」


「……」



恭吾は言葉を失い、ただ七海を見つめていた。彼の瞳には様々な感情が渦巻いているようだったが、七海は続けた。


「私は母親なのに……。って、何度も自分を責めた。だから、恭吾くんが悪いわけじゃないの。」


「……あの夜、泣いていたのは旦那さんが理由だったんですか?」


恭吾の問いに七海は静かに頷いた。


「そう。だけど、子どもたちは父親のことが大好きだから、これからも、私たちの家族のカタチが変わることは、きっとないの」


「……そう、ですか……」


恭吾はしばらくの間、何も言わずに俯き、そして、顔を上げ静かに言った。その声は先ほどの力強い言葉とは裏腹にひどく寂しげに聞こえた。七海の胸は、再び締め付けられるような痛みに襲われた。


「あの……七海さん、今、元気ですか?笑えていますか?」


恭吾の問いかけに、言葉が見つけることができなかった。


(大丈夫ではない。元気ではない。あなたのことを思い出しては、夜中に一人で涙する日もある。あの日、あなたの手を振り払ってから、私が心から笑えた日は、一度もない……)



子どもたちと過ごす日々は、確かに幸せで、楽しい時間もたくさんある。けれど、あの日以来、その幸せの裏には常に拭いきれない罪悪感が付きまとっていた。何事もなかったかのように振る舞う自分に、嘘をついているような気がしてならなかった。恭吾という存在が、七海の心の中で大きくなるにつれて、子どもたちとの暮らし以外の別の形の楽しさや幸せを知ってしまったような気がしていた。


「あの、もし迷惑じゃなければ……また会えませんか?」


恭吾の思いがけない言葉に、七海は息を呑んだ。


「……」


母親としての責任、そして、恭吾への想い。二つの感情が激しくぶつかり合っている。


「……あの来月、またここに来てくれませんか?いつもの土曜に。ポロンで待っています。」


「恭吾くん……。」


「もし、七海さんが嫌じゃなければ、また、逢いたいです。」


そう言い残して、恭吾は七海に背を向けゆっくりと歩き去っていった。彼の背中が、冬の冷たい空気の中に小さく消えていくのを見つめながら、七海はその場に立ち尽くしていた。


(……もう、会わない方が、恭吾くんのためにも、きっと良いはずなのに、どうして私は、そう言えなかったんだろう……。)


七海の心は、激しく揺れ動いていた。

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