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23.春風

しばらくすると恭吾の住むアパートの前に着いた。雨は依然として強く降り続いていた。


「助かりました。本当にありがとうございます。」


「どういたしまして。おやすみなさい。」


「おやすみなさい。……あ、あの、さっき雨強くて言いそびれたんですが、大丈夫って聞かれたら大丈夫じゃなくても『大丈夫!』って答えるしかないですよね。だから、もし本当は大丈夫じゃなかった時は無理しないで言ってくださいね。僕が笑わせますから!」


恭吾は、七海を元気づけようと白い歯を見せていたずらっぽく、でも真剣な眼差しで微笑んだ。


その笑顔のせいで彼の長いまつ毛と左頬に浮かび、可愛らしいえくぼがより一層強調されている。そう思った次の瞬間、七海はなぜか恭吾の姿がぼやけてよく見えなくなったことに気づいた。恭吾の顔だけではない。目の前の景色も、雨の色彩も、全てが歪んで、まだらに霞んで見える。



(……え……? なんで……?)




「……七海さん???」


心配そうな恭吾の声が聞こえ、ハッとして自分の頬に触れた時、七海は初めて自分が泣いているのだと知った。それは、目にゴミが入ったとか、そういうレベルの涙ではなかった。無表情のまま、まるで壊れた蛇口のように大粒の涙がボタボタと頬を伝い落ちていた。



「ごめんね、本当ごめんね。もう……大丈夫だから」


必死に指で溢れる涙を拭った。目の前の恭吾の顔をちゃんと見ようとしたけれど、またすぐに涙が溢れ出してきて言葉にならなかった。喉の奥が締め付けられ息をするのも苦しかった。



「……全然大丈夫に見えませんよ。」

恭吾は心配の色を濃くした表情で七海を見つめている。


「ごめんね、大丈夫。」

七海は繰り返した。自分でも全く大丈夫ではないことはわかっていたけれど、これ以上、恭吾に心配をかけたくなかった。



「いや、でも……」

恭吾は何か言いたげに言葉を詰まらせた。


「大丈夫じゃなかったら笑わせるって言ってくれて……そんなこと今まで誰にも言われたことがなかったから、すごく嬉しかった……嬉しいのかな?なんだか温かい気持ちになったの。そうしたら涙が止まらなくなっちゃって……。ありがとう。もう本当に大丈夫だから」


七海は必死に笑顔を作ろうとしたが頬を伝う涙は止まらなかった。明らかに様子がおかしいのに大丈夫だと強がる七海を見て、恭吾は静かに深くため息をついた。



その瞬間、七海は恭吾のその仕草が普段の春樹のため息と重なってゾッとして身震いをした。


春樹のため息はいつも七海を責める合図だった。何かを期待してはいけない、と突き放されるような冷たい空気を含んでいる。その行動が日常化され恭吾のため息にも恐怖を感じた。


しかし、恭吾の口から掛けられた言葉は七海の予想に反し驚くほど温かいものだった。


「……七海さん普段から無理して大丈夫って言ってませんか?理由は分からないけど、そんなに頑張りすぎなくても大丈夫です。きっと七海さん十分すぎるくらい頑張っていると思います。」



恭吾の優しい声が七海の心の奥深くまで染み渡った。やっとの思いで引っ込めたはずの涙が、恭吾の温かい言葉に触れた途端、堰を切ったように再び溢れ出した。今までのどうしようもない悲しみや苦しさを含んだ涙とは違い、今はじんわりとした温かさも混じった涙だった。



「ありがとう。……でも、今、優しい言葉かけられると、また泣けてくるから駄目……」

七海は、両手で何度も頬を拭った。



その時、ふわりとした冬の夜には似つかわしくない、柔らかな温かい風を感じた。それは季節外れの春風などではなかった。恭吾が心配そうに一歩、七海に近づいたために起きたほんのわずかな空気の動きだった。


次の瞬間、恭吾の温かい指が七海の冷たい頬にそっと添えられ優しく涙を拭った。


「七海さんが泣いてるところを見ると僕まで切なくなってきます。悲しくなります。だから……泣かないでください。」


春樹にいつも冷たく言い放たれる「泣くな」という言葉とは全く違っていた。恭吾の瞳は、七海を心から心配する切実な思いで潤んでいて、その声は懇願するように優しく、そして悲しみを湛えていた。


自分の指でも、愛しい子どもたちの細い指でもない骨太で少し角ばった、普段触れることのない大人の男の指の感触に七海はそっと自分の冷たい手を重ねた。


「七海さん、頬も、指も、すごく冷たくなっていますよ。」



涙の露がつき、七海の頬を拭ってくれる恭吾の指先も雨に濡れて冷たくなっていた。七海はかじかんだ恭吾の指を温めるように自分の両手でそっと包み込み、自分の口元へと引き寄せた。温かい息を吹きかけると恭吾の指がほんの少しだけ赤みを帯びたように見えた。


「……こんな大雨の中帰ったら風邪をひいてしまいますよ?」


恭吾は少し戸惑ったような表情を浮かべたが、七海の目を見つめ優しく微笑んだ。そして、そっと七海の手を引き自分の部屋の中へと導いた。


お読みいただきありがとうございます。

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@MAYA183232

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