21.抜け殻
『私は何をやっているんだろう……。』
長期休暇が終わり、久しぶりに出社した昼休みのことだった。七海は、ぼんやりと窓の外を眺めながら心の中で何度も同じ言葉を繰り返していた。帰り際に春樹から投げつけられたあの冷たい言葉の刃は、今もまだ七海の胸に深く突き刺さったまま、じくじくと痛みを訴えてくる。
海斗の事を悪く言われたことも、そして寂しさの原因や無理をさせているのは七海が元凶であると指摘され苦しかった。
ふとした瞬間に、あの時の春樹の表情や声が鮮明に蘇り涙腺が緩みそうになる。
慌てて意識を別の場所へ向けようとするのだが、頭の中に浮かんでくるのは、愛しい海斗と陽菜の笑顔ばかりだ。そして子どもたちのことを思うと、春樹の顔が出てきて、心ない言葉が繰り返されてしまうのであった。
家族以外のことを考えようとしても、なかなか思考がそちらへ向かわない。自分が心から楽しいと感じることは何だったのかさえ、もう思い出せないほど日々の生活は子どもたちのことで埋め尽くされていた。
1週間がとてつもなく長く感じた。家にいる時も、ふとした瞬間に涙がこぼれそうで、何度もトイレに駆け込んでは、やり場のない感情を押し殺していた。
(このままでは海斗や陽菜に異変を気づかれてしまうかもしれない。あの子たちに余計な心配をかけてしまうのは絶対に避けたい。どうにかしてこの気持ちを紛らわせなくては……。)
週末の金曜日、七海は子どもたちを預かって欲しいと思い切って実家の両親に電話をかけた。毎月、決まってお願いしている第四週の週末以外に頼むのは初めてだったので両親は少し不思議がっていたが、七海の疲れた声を感じ取ったのか快く承諾してくれた。
最近、子どもたちのこと以外で何か楽しいと感じたことはなかっただろうかと必死に記憶を辿った。そして、ようやく思い当たったのは、半年前、魚基地に行き偶然居合わせた恭吾と一緒に少しだけお酒を飲んだ日のことだった。
『あれから半年経っているんだ……。』
最近の楽しい思い出を探そうとしたのに、子どもたちのことを除くと、半年以上前の記憶まで遡らなければ何も出てこないことに、七海は改めて、自分の生活が完全に子ども中心になっているのだと痛感した。それは、幸せなことであるはずなのに、今の七海にとっては、どこか空虚な事実として重くのしかかってきた。
恭吾とは、初めて会ってから一年半近くが経ち、顔見知りではあるけれど普段は喫茶店などで会釈をして、たまに一言、二言交わすくらいの関係だ。偶然、居酒屋で一度だけ会い一緒に飲んだことはあったが彼の連絡先は知らない。
☆
仕事が終わると、七海は自然と足が魚基地へと向かっていた。週末の夜にしては、まだ早い時間に入店したためか店内には一組の客しかいなかった。
一人だと告げると、カウンター席に案内されたので一番隅の席にそっと腰を下ろし、冷えたビールを注文した。カウンターのショーウィンドウに並べられた新鮮な魚介類を眺めていると少しだけ心が紛れるような気がした。
『鮪に鰹に鯛。隣にあるのは、なんだろう……鰤かな?』
午後七時を回ると、店内にも徐々にお客さんが増え始め賑やかな話し声が響き渡るようになった。楽しそうな笑い声が飛び交う中、七海は一人、運ばれてきた料理をゆっくりと静かに味わっていた。
『そろそろ混み合ってきたしお店にも悪いかな。八時までには店を出て家に帰ろう。』
そんなことを考えながら、七海はビールのおかわりと太刀魚の天ぷらを注文した。二杯目のビールが運ばれてきて、店員の方へ軽く会釈をした瞬間、店の入口の引き戸が開く音が聞こえ、反射的にそちらへ視線を向けた。
「あれ?七海さん?」
店の入口に立っていたのは恭吾だった。いつもの無邪気な笑顔でこちらに向かって手を振っている。予期せぬ再会に七海の心は複雑に揺れた。彼の顔を見たかったような気もするけれど、今、こんなにも落ち込んでいる自分の姿を見せたくないという気持ちも強くあった。それでも、恭吾の明るい笑顔につられて小さく微笑みを返した。
「平日の夜に会うなんて珍しいですね。お休みですか?」
恭吾はカウンターの七海の近くまで歩み寄り声をかけてきた。
「ううん。仕事終わり。なんだかたまには外に出たくなって。」
七海はできるだけ平静を装って答えた。
「そうなんですね。隣、いいですか?」
恭吾は遠慮がちに七海の隣の席を指さした。
「……うん、どうぞ。」
七海は小さく頷く。
恭吾が隣の席に腰を下ろすとすぐに明るい声で話し始めた。
「このお店、同僚も美味しいって気に入ってました。七海さんのおかげで良いお店を知っているねって褒められたんですよ。ありがとうございます。」
「そっか、気に入ってくれて良かった。」
半年前にこの店を紹介したことが誰かの役に立っていたのだと思うとほんの少しだけ心が温かくなった。
恭吾は、あれから時々こうして一人で飲みに来るらしい。店員さんともすっかり顔なじみになっているようで親しげな様子が窺えた。
『恭吾くんって本当に人と仲良くなるのが上手いんだよな。話しているとなんだか癒されるような、悪い人じゃないっていう安心感があるんだよね。』
恭吾は、年末年始に実家に帰省した時の話や、先日同僚とスノーボード旅行に行ってきた時のことなどを楽しそうに話してくれた。
東京生まれの東京育ちでずっと都会で暮らしだった恭吾。自然に触れさせたいと両親の勧めでボーイスカウトやキャンプに参加していたが、遠くに行かなくて自然を感じられるのはとても魅力的らしい。
仕事の都合でこの地域にやってきたが、近所の人たちは皆、見かけると声をかけてくれて、親切で温かいと穏やかな笑顔で話す。ずっとこの場所で生まれ育ってきた七海は、自分の住む街のことを褒められるとなんだか誇らしい気持ちになった。
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