20.二度目の異動
春樹が異動で単身赴任になってから2年目を迎え、海斗は6歳で年長、陽菜は4歳で年少組に進級していた。
子どもたちとの三人暮らしは、慌ただしいけれど、かけがえのない宝物のような時間だった。もちろん一日が終わるとどっと疲れが押し寄せるし、時には感情的に怒りすぎてしまい、寝顔を見ては反省することもあった。それでも、海斗と陽菜の成長を間近で見守り、一緒に笑い、遊び、何気ない日常を共有できることは、七海にとって何よりも幸せだった。
この一年で、二人は目覚ましい成長を見せてくれた。二人とも完全にトイレで用を足せるようになり、たまに甘えて手伝いを求める日もあるけれど、着替えも一人でできるようになった。おしゃべりもますます上手になり、幼稚園で覚えてきた歌を歌ってくれたり、少しずつ増えていく語彙で、大人顔負けの会話を楽しむこともできるようになった。七海は、そんな二人の成長を肌で感じられることが嬉しかった。
その年の年末、春樹が久しぶりに帰省してきた時のことだった。夕食後、子どもたちが寝静まったリビングで、春樹は唐突に言った。
「4月から異動でまた違う場所に行くことになりそうだ。」
「……そう、なの。」
七海はそれ以上のことを聞く気がなかった。
来年、海斗は小学生。幼稚園の友達とも離れ、新しい環境での生活が始まる。
海斗だけでなく、みんなが新しい環境・新しいお友達との環境に慣れようとする時期で異動についていくには良い時期であるとは思ったが、口にしなかった。
そして、口を開いたのは海斗だった。
年始にお互いの実家へ挨拶に行った際のことだった。七海の父親が、春樹の仕事について尋ねた。
「実は、まだ確定ではないんですが、四月からまた異動になりそうでして…」
春樹は、いつものように愛想の良い笑顔で答えている。七海は、春樹の外面の良さと裏の顔を知っているためギャップにいつもやりきれなくなる。両親は、何も知らないため「大変だね」と春樹を労っていた。
その時、おもちゃで遊んでいた海斗が春樹の言葉を聞きつけた。
「え?パパまたどこか行っちゃうの?かい君も行きたい!パパとママとひーちゃんと四人で暮らしたい!!」
海斗はすぐに春樹の元へ駆け寄り小さな体でしがみついた。その必死な様子に七海の胸は締め付けられた。
「でも、海斗?パパと一緒だとお友達と違う小学校になっちゃうよ?知っている人は、誰もいなくなっちゃうよ?それでもいいの?」
春樹は優しい口調で海斗に問いかけた。
「いい!!!パパと一緒の方がいい!!仲いい子は違う小学校で別々になっちゃうから、パパと一緒がいい。」
海斗は力強く頷いた。その言葉には父親を慕う純粋な気持ちが溢れていた。
「そうか。ありがとうな」
春樹はそう言って海斗の頭を撫で優しく抱きしめた。
「海斗良かったな。海斗パパ好きだもんな。」
何も事情を知らない七海の父親は、海斗の願いが叶ったと思い嬉しそうに笑っている。しかし、七海には春樹が一瞬ほんの少しだけ困ったような顔をしたように見えた。
実家から自宅に戻ってからも海斗は事あるごとに春樹に「一緒に行きたい」と伝えていた。
「パパがいないと寂しいから一緒がいい。パパが近くにいてほしい」と小さな声で何度も繰り返す海斗の言葉が、七海の胸に深く突き刺さった。
連休が終わり春樹が単身赴任先へ戻る日の朝だった。春樹の洗濯物を畳んでいると彼は突然、切り出した。
「異動のことだけど、今回は海斗の入学のタイミングかもしれないけれど、ずっと同じ場所にいれる保証はないし来ない方がいいと思うんだ。転校の繰り返しは、子どもたちの負担になると思う。」
「そう……。」
また単身赴任を選び、自分は子どもたちと生活を送るだろうと予想していたため、七海は表情を崩さず服を畳んでいる。
「海斗は一緒に行きたいと言うけれど、もう小学生になるんだし、いつまでもパパママじゃなくて友達なり習い事なり、自分の世界を持ってもらわないと困るよ。」
その言葉を聞いた瞬間、先ほどまでテキパキと洗濯物を畳んでいた七海の手がピタリと止まった。
『……自分の世界を持ってもらわないと困る!?』
これまで子育てについて母親としての自覚や役割について指摘されるのは、常に七海に対してだった。しかし、今回は違う。まだ六歳になったばかりの無垢な息子、海斗に対する苦言だった。その言葉は、七海にとって自分のことを非難されるよりもずっと辛く胸を締め付けるものだった。
『まだ6歳の子が父親と一緒に暮らしたいと言うのは、そんなにおかしなことなの?パパと一緒がいいって言われるのは、親として喜ばしいことではないの?』
七海の心の中で、様々な感情が渦巻いた。海斗の純粋な気持ちを、春樹は一体何だと思っているのだろう。
さらに春樹は言葉を続けた。
「僕の実家で、七海は海斗や陽菜が家事の手伝いをしてくれて助かっていると言っていたけど、そうやって頼りにしすぎることが子どもたちが頑張らなくちゃって負担になっているんじゃないの?だから海斗も寂しいとか言うんじゃないの?もっと海斗が寂しくない環境を作れるように努力してくれよ。」
『海斗が寂しいと言うのは、私のせい……?』
海斗や陽菜が小さな手で一生懸命手伝ってくれる姿を見るのは、七海にとって何よりも嬉しい瞬間だった。子どもたちが周りの人の気持ちを理解し、思いやりの心を持っている証だと感じていた。しかし、春樹にはそれが七海の甘えであり子どもたちの負担になっていると言うのだ。そして海斗が寂しさを訴えるのは七海が彼を寂しくさせているからだと。
鋭利なナイフで心臓を一突きされ、そのまま貫通してしまったかのように七海の胸は激しく痛んだ。苦しくて言葉を発することができない。心の奥底から湧き上がってくるブルブルとした震えが全身へと伝わっていく。
深い哀しみなのか、抑えきれない怒りなのか、どうしようもない悔しさなのか。様々な感情が濁流のように押し寄せ何が何だかわからなかった。ただ一つ明確だったのは、海斗の純粋な気持ちを踏みにじられたこと、そして、その原因が七海にあると断言されたことへの激しい憤りだった。七海の思考は完全に停止し、体は鉛のように重く感じられた。
ただ茫然と座っている七海を横目に、春樹は畳まれた洗濯物を無造作に掴み上げ何も言わずに家を出て行った。玄関のドアが閉まる音だけが静かに響く。七海はその場から立ち上がることすらできなかった。
心の中にぽっかりと空いた大きな穴が、冷たい風を通して全身を凍えさせていくようだった。自分のこと以上に、海斗のことを悪く言われるのは七海にとっては何よりも耐え難いことだった。
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