第七話
マリーの心情を表したかのような晴天の中。マリーはリヒャルトとカールとともにシュヴァルツァー皇国の馬車に乗り込んだ。見送りは一人もいない。これはリヒャルトが断ったためだ。国王は最後の最後まで粘り、なんとかリヒャルトと、というよりはシュヴァルツァー皇国との仲を深めようとしていたが、リヒャルトはそれに対して「しつこい。見送りは必要ない。むしろ邪魔だ」と一刀両断した。
国王の言動は想定内だったが、意外だったのはエレオノーラたちだ。あれだけ敵意をあらわにしてきたにも関わらず、なんのアクションもなかった。あれから顔すら見ていない。自分たちの地位が確立できたから満足したのか。それともリヒャルトが常にマリーの側にいたから手出しができなかっただけなのか。そういえば教会からも連絡はなかった。マリーがいなくなったことは知っているはずなのに。まあ、おそらくサローニ公爵あたりが動いたのだろう。とにもかくにも問題なく国を出られそうで安心した。
「着くまで寝ていてもいいぞ。到着までには時間がかかるからな」
「かかるってどれくらい?」
「そうだな……二時間くらいか?」
リヒャルトがちらりとカールに視線を移す。カールは頷き返した。
「行きはそれくらいでしたね」
「思ったよりも早いんだね」
「まあ、国境を超えるまで我慢すれば後は転移魔法ですぐだからな」
「え? 確か転移魔法って難しい上に、かなりの魔力量使うんじゃないの? しかも、馬車ごとでしょう?」
驚いてそういえば、リヒャルトが得意顔になった。
カールが本人に代わって口を開く。
「リヒャルト様は人間離れした力をお持ちですから」
「へ、へえ」
「すごい」とは素直に言いたくなくて濁してしまったが、リヒャルトは特に気にした様子はない。いきなりグイッと肩を引き寄せられる。驚いて抵抗できないまま上半身はリヒャルトの膝上に倒れた。
「旅慣れしていないマリーには二時間も馬車の中はつまらんだろう。着いたら起こしてやるから寝ておけ」
「だ、だからってこれはっ……わ、わかった。おやすみ」
「ああ」
到底眠れそうにはなかったが、上から覗き込まれてつい顔を背けてしまった。そのまま目を閉じる。不思議なもので目を閉じれば本当に眠気がやってきた。昨晩、眠れなかったせいかもしれない。
マリーが完全に寝たのを確認した後、カールは口を開いた。
「リヒャルト様、そういうことでいいんですよね?」
「ああ。不満か?」
「いいえ。もともと不満はありませんでしたよ。ただ……マリー様にお会いするまでのリヒャルト様は絶対に認めないという姿勢だったので念のため確認をしたまでです」
「ああ。今回ばかりは大司教に感謝せねばならないな」
「そうですね。本来は司教数名と騎士たちだけで迎えに行くっていう話だったのを、大司教からの助言でリヒャルト様が迎えに行くことになったのですから。もし、それがなかったらリヒャルト様がマリー様とお会いすることは一生なかったかもしれません」
「そんなことは……あったかもしれないな。マリーに会うまでは俺もマリーのことを他の聖女たちと同じだと勝手に思い込んでいたから」
「でも、リヒャルト様はこうしてマリー様と出会われた。しかも、最高のタイミングで」
「ああ。あの時の衝撃は今でも忘れられない。守られてばかりの聖女というイメージがあの瞬間壊された。大立ち回りをする聖女なんてこの目で見なければ信じられなかっただろう」
「あれには私も驚きましたね。マリー様が聖女であることは髪の色と目の色ですぐにわかりましたが、それでもすぐには信じられませんでしたから。話していくうちにマリー様が普通のお方ではないと分かりましたが……帰国したらぜひ一度手合わせ願いたいところです」
「ダメだ。俺が先だ」
「もちろんですよ。私はその後でもかまいませんので」
「……マリーがいいって言えばな?」
マリーの寝顔に視線を落とすリヒャルト。優しげに細められた瞳。長年一緒にいて初めて見る表情だ。乳兄弟としても、臣下としても二人にはうまくいってほしいと思う。が。
「私が見る限りマリー様はなかなかの強敵ですね。リヒャルト様の顔を見てもたいした反応は見せませんし」
「……全く脈がないことはないと思うが」
「そう、ですね。まあ、私も微力ながら協力しますよ」
「ああ」
リヒャルトは素直に頷き返した。これまた珍しい反応だ。
◇
「あ、あれが皇城なの?」
「ああ」
馬車の窓から見えるのは、ガルディーニ王国の王城とは比べられないほど大きな城。城門から城までかなりの距離があるというのにそれでもわかる圧倒的な大きさだ。不意にどこからともなく複数の足音と声が聞こえてきた。だんだん近づいてくる。それに合わせて馬車もスピードを落とし、停止した。リヒャルトがカーテンと窓を開ける。外からは「お帰りなさい!」といういくつもの声が聞こえてきた。どれもリヒャルトにかけられたものらしい。
「皇太子殿下! 俺、殿下がいない間に完璧に双剣を扱えるようになったんですよ!」
「そんなことより聞いてくださいよ! またプロイセンの国が懲りずに暗殺者を送ってきたんすよ! 殿下はいないっていうのに。もちろんそいつらは全員捕まえておきました!」
「俺も俺も窃盗犯を」
「わかったわかった。話はまた後で聞く。今は急いでいるんでな」
「え? あれ、そちらの女性は」
窓越しに騎士の一人と目があった。その瞬間リヒャルトの腕が騎士の顔に伸びる。
「あいだだだだだだ!」
「おまえらは見るな。あいさつもするな。俺が許可を出すまで絶対にだ」
「しょ、承知しましたー!」
リヒャルトは手を放したと思ったらさっさと窓とカーテンを閉め直してしまった。馬車も動き出す。そして、すぐにリヒャルトは自分の上着を脱ぎ押し付けてきた。
「これで隠していろ」
「え?」
「……寝ている間きつそうだったからな」
なにがあってもいいようにとワンピースを着てきたが、サイズが若干合わなかったのかきつかった。いつのまにか胸元のボタンがとれていて胸元が開いている。「なっ」一気に顔に熱が集まる。これがリヒャルトでなければ頬をひっぱたいていたところだ。なぜだかリヒャルト相手には嫌悪感が湧かない。ニュクス様の加護を持っている人間だからだろうか。
遠慮なく渡された上着を羽織り、前のボタンをとめる。サイズが大きすぎるせいで格好が悪いが仕方ない。
「降りるぞ」
「え、ええ」
馬車の扉が開き、リヒャルトが先に外に出る。踵を返し、リヒャルトは手を差し出してきた。その手に己の手を重ね、一歩一歩降りる。
「リヒャルト皇太子殿下」
「トマスか」
「お帰りなさいませ」
「ああ。……わざわざ確認しにきたのか?」
リヒャルトが鋭い視線を左目にモノクルをつけた物腰が柔らかそうな男性に向ける。男性の息が少々上がっているところを見ると、リヒャルトの到着を聞いて慌てて駆けつけたのだろう。男性はリヒャルトの問いに苦笑で返した。
「頼まれましたので。それで……こちらの方が?」
「ああ」
男性がほほ笑みかけてくる。けれど、その目は私を値踏みしているようだ。まるで前世の鬼上司と対峙している時のような感覚。さりげなく背筋を伸ばし、両方の口角を上げる。男性の片眉がぴくりとだけ動いた。
「はじめまして。マリー・フィッツェです」
「これはこれは失礼いたしました。あいさつが後手に回ってしまいまして、私はトマス・ケーリングと申します」
「トマスさん」
「トマスとお呼びください。聖女様」
「その呼び名は困ります。まだ教会で認められたわけではありませんから」
「そうでした。すみません。歳のせいか気が急いてしまいまして」
「いえ」
「マリー」
「はい」
リヒャルトに名を呼ばれ、視線を向ける。リヒャルトはなぜか満足そうな顔でほほ笑みを浮かべていた。
「トマスはシュヴァルツァー皇国の宰相だ。大抵のことはカールでも十分対応できると言ったが、無理な場合もあるだろう。そういう時はトマスに頼むといい。もちろん俺に相談してくれてもいいが」
「え? いや、それはちょっと……」
気持ち的にはリヒャルトに頼む方が楽だが、宰相のトマスさんの前でそんなことを言えるわけがない。私の思考を読んでいるのかリヒャルトはにやりと笑った。
「トマス」
「はい」
「マリーの部屋の準備は終わっているか?」
「いえ、あともう少し……小一時間ほどいただいてもよろしいでしょうか。それと、鍵はどうしましょう?」
「ああ。帰国が予定より早くなったから仕方ないか。鍵は……まだいい」
「かしこまりました。それでは、失礼します 」
トマスが頭を下げ去って行くのを目で追っていると、リヒャルトから背中を押された。どうやら移動するらしい。
「どこに行くの?」
まさか今から皇帝陛下と顔を合わせるなんてことはないよね。と見上げれば、リヒャルトはフッと笑った。
「部屋の準備が終わるまで俺の執務室で休憩するのと俺の私室に行くのどちらがいい?」
すぐには返答できずに顔が真っ赤になる。そんな私を見てニヤニヤしているリヒャルトに苛立ちが込み上げてきた。
ぶっきらぼうに「執務室」と答えれば、「そうか、それは残念だ」と返ってくる。ただ、そう言いながらもリヒャルトは全く残念そうには見えなかった。おそらくからかわれただけだろう。文句の一つくらいは言いたかったが、執務室で忙しそうに仕事を始めたリヒャルトを見たらなにも言えなくなった。カールと違って手伝うこともできない私は黙って出されたお茶菓子に口をつけて時間をつぶすしかない。しばらくして、メイド長が部屋の準備ができたと言ってやってきた。二人がついてこようとするのを断って一人でついていく。
「こちらがマリー様のお部屋です」
「……ここですか?」
マリーが通された部屋はエレオノーラの部屋以上に広く、豪奢な部屋だった。間違いじゃないのかと尋ねるが間違いないという。
「そ、そう」
「マリー様」
「はい」
「お風呂の準備が出来ていますが入られますか?」
「本当?!」
「はい」
「入る!」
嬉しすぎて思わず満面の笑みを浮かべてしまった。メイド長が驚いたように一瞬だけ目を丸くする。次の瞬間には元の表情に戻っていたので気のせいかもしれないが。とにかくお風呂に入れることが嬉しい。前世では毎日入っていたのに、現世では一週間に一回入れたらいいくらいだ。それも、ガルディーニの教会では皆が使い終わった後のほぼ水の状態のお湯しか使わせてもらえなかった。さすがにいろんな意味で耐え切れなくて、掃除を押し付けられたフリをしてこっそり冷たい水で全身を洗っていたけど。
「その前にお伝えしておかねばいけないことが一つ」
「な、なに?」
まさかここでも湯船には入れずに拭くだけしか許してもらえないのだろうか。
「お風呂を出た後に皇族の方々との食事会が予定されております。ですからあまりゆっくりとはできないのですが」
「あ、ああ。そういうこと。それくらいは別に……って、え?! この後食事会なの?!」
「はい」
「こうしている時間ももったいないわね。すぐに入るわ」
「かしこまりました。なお、お風呂の手伝いは私とほか二人でお手伝いします」
「え……わかったわ」
正直手伝いはいらないと断りたいところだが、ここのお風呂事情も知らない私一人だと時間がかかるかもしれない。今はスピード重視だ。お風呂に入ってすっきりした後、用意されていた黒のドレスに身を包む。想像していた聖女の衣装とは違って驚く。そして、そんな自分にも驚いた。なんだかんだまだ洗脳は解け切れていないのかもしれない。いや、この場合は先入観か。勝手に白=聖女の印というイメージを持っていた。よくよく考えてみればなにもおかしいことはないのに。
「マリー」
部屋を出れば、扉の前にリヒャルトとカールがいた。目が合ったリヒャルトは私の頭から爪の先まで見てもう一度顔を見た。
「……似合うな」
「あ、ありがとう。こういう格好初めてだから落ち着かないけど」
「大丈夫だ。これからはこれが普通になる。すぐに慣れるさ」
「そう、だね」
「ああ。行くか」
差し出された手に己の手を重ねて歩き出した。