第二話
教会への定期的な訪問は王太子の公務の一つだ。本来の目的がなんであるかは公然の秘密。しかし、その裏で交わされている密約については気づかれてはならない。だからこそのパフォーマンス。
王太子であるアンドレア・ガルディーニはそのことについて不満や疑問を抱いたことは一度もなかった。――――この日までは。
「なんですって?」
次期聖女であり、未来の王太子妃でもあるエレオノーラ・サローニとのティータイム。
普段『淑女の鑑』とも呼ばれている彼女がとてもそうとは思えない表情を浮かべた。
けれど、そこはさすがのエレオノーラ。
アンドレアが「なにかあったのかい?」と尋ねれば、「いえ。なんでもありませんわ」とすぐに表情を取り繕った。ただ、あの表情を見た後だとその表情に違和感を覚えずにはいられなかったが。
アンドレアは己の金の髪を軽く整え立ち上がる。
「アンドレア様?」
「残念だけど、もう帰らないといけないんだ」
「まあ。もう、ですか?」
「ああ。実は、今日中に片付けないといけない仕事がまだ残っていて……」
「それならば仕方ありませんね」
「理解が早くて助かるよ」
「当然のことですわ。それではお見送りだけでも」
「いや、今日はいいよ。帰る前に大司教と話さないといけないことがあるからね」
「そうですか」
残念そうにしながらも、どこかホッとした表情のエレオノーラ。
アンドレアはエレオノーラと別れた後、時間を置いてから大司教の元に……は行かずエレオノーラの後を追った。エレオノーラについている騎士からバレないように距離を取って。
――――あんなところに部屋が?
教会の奥にある日が当たらない場所。物置部屋かと思えばどうやらそこに誰かが住んでいるらしい。扉の前で助祭がなにやら困った様子で立ち尽くしている。
エレオノーラはその助祭に声をかけ、立ち話を始めた。
なにを話しているかまでは聞こえない。ただ、助祭の話を聞いてエレオノーラの機嫌が悪くなったのは確かだ。助祭が必死にエレオノーラに頭を下げている。
――――ここからでは聞こえないな。
アンドレアはバレないようにそっと距離を縮めた。
「……ですが、マリー様が仕事を放棄して部屋に閉じこもってしまったんです」
「そんなの無理やり引きずり出してやらせればいいでしょう」
「そ、それはさすがに……男性の私が許可なく女性の部屋に入るわけにはいきませんから。仮にもマリー様は聖女候補ですし」
「使えない聖女になんのお伺いを立てる必要があるっていうの?」
「エレオノーラ様、彼はまだ助祭なのです。問題を起こせば司教どころか、司祭にもなれない立場。何卒ご容赦を……」
エレオノーラの後ろに侍っていた司祭が口を挟む。エレオノーラは不服そうな表情を浮かべたが、司祭の言うことも一理あると思ったようでそれ以上咎めることはしなかった。
――――やはり素のエレオノーラはかなり気が強いんだな。ある意味上に立つにふさわしい気質だとは言えるけど……。
話し合いは済んだのか助祭を押しのけ、エレオノーラが例の部屋の前に立った。
「私がマリーと話すからあなたたちは外で待っていてちょうだい」
「かしこまりました。よろしくお願いいたします」
「はあ。面倒だけれど仕方ないわね。今から女性の司祭を連れてきてマリーを引きずり出すのは時間がかかるもの。仕事が終わらないのは私も困るし……次からはそこのところをきちんと考えて動きなさいよ」
エレオノーラの言葉に男二人が深々と頭を下げる。
その光景を見ていて、ふと気づいた。
――――そういえばエレオノーラの周りにはいつも誰かしら人がいるが皆男性ばかりだ。
次期聖女を守るためと言われれば理解しないでもないが、女性の付き人が一人もいないというのは不自然だ。
――――変なうわさが立つ前に気づけてよかった。サローニ公爵と大司教に話を通しておこう。それともう一つ気になるのはマリーの扱いだ。父上はマリーがどのような扱いを受けているのか知っているのだろうか。
エレオノーラが日当たりのいい豪奢な部屋を与えられているのに対し、マリーの部屋は奥まった場所にある。教会でどんな扱いを受けているのかは容易に想像できる。
父上が言うにはマリーは何百年ぶりかに誕生した『真の聖女』らしい。父上とサローニ公爵は聖女の奇跡を利用していろいろとたくらんでいるようだが、それならばなぜマリーをもっと大切に扱わないのか。そもそもマリーの協力なしでは成し遂げられない計画だろうに。まさか、王命を下せばなんでもいうことを聞くとでも思っているのだろうか。
アンドレアは閉じられた扉をじっと見つめる。
――――もし、マリーに我慢の限界がきて仕事を放棄したのだとしたら……。今からでも間に合うだろうか。せめて、王太子である僕だけでもマリーと友好関係を築ければ。
一歩踏み出そうとした瞬間。エレオノーラが勢いよくマリーの部屋の扉を開けた。どうやらまともな鍵も付いていないらしい。呆気なく開いた部屋の中にエレオノーラは返事も待たずに入って行った。その荒々しさに驚いてタイミングを逃してしまったアンドレア。
しばらくして怒鳴り声が聞こえてきた。最初、その声を出したのはマリーだと思った。けれど違った。
「皆入ってきてちょうだい!」
「で、ですが」
「いいから!」
エレオノーラに怒鳴られ、おつきの騎士や聖職者たちもマリーの部屋へと入っていく。とは言っても部屋が狭いせいで全員入りきれていないが。
「こ、これは」と中からたじろぐ声が聞こえてきた。
「この頭の狂った女を引っ張り出してちょうだい! 」
「わ、私たちが触れるのはさすがに」
「私がいいって言っているでしょう!」
「なにを騒いでいるんだい?」
たまらず声をかければ一斉に皆が振り向いた。
エレオノーラがひどく焦った表情を浮かべて部屋から出てくる。
「ア、アンドレア王太子殿下。どうしてこちらに?」
「大司教を探していたらなにやら大きな声が聞こえてきてね。それで、なにがあったんだい?」
「そ、それは……とにかくここから離れましょう。説明は別の場所でしますから」
「え? 彼らは中に入っているのに僕はダメなのかい? 」
エレオノーラの後ろで部屋の入口をふさぐように立っている男たちを見据える。男たちは一瞬迷いを見せたがエレオノーラに睨まれ、再び中が見えないようにと立ち位置を改めた。
「こ、ここは殿下をお通しするにはふさわしい場所ではありません。別の場所に」
「でも、ここにもう一人の聖女候補がいるんだろう?」
『聖女候補』という単語にエレオノーラの顔が強張った。けれど、一瞬で元の顔に戻る。
「まさか、そんな。こんな場所に」
その時、ぺたぺたと足音が聞こえてきた。
「もー。うるさいわねー。人の部屋でごちゃごちゃ騒がないでよ。ゆっくり寝られないじゃない」
ざわめきとともに男たちが左右に別れる。真ん中から白の夜着一枚で現れた女性。眠気まなこで、素足をさらし、恥ずかしげもなく歩いてくる。
アンドレアは一瞬己の目を疑った。
「き、君は?」
「? 今更自己紹介が必要ですか? ああ。『偽の聖女』なんてどうでもいいから覚えていないのか。ならそのまま私のことは放っておいてください」
「ふ、不敬だわ!」
声を張り上げたエレオノーラに顔を顰める女性。いや、マリー。
「不敬? 女性の部屋に無断で入ってくるような人たちに払う礼儀があるとでも?」
「ぼ、僕は違うよ! たまたま騒いでいるのが聞こえてきたからここにきただけで」
「へえ。こんな教会の奥まで……それはそれは。ですが、ここには殿下の興味を引けるようなものは一切ありませんからどうぞお帰りください」
言いたいことは言ったとばかりに踵を返し部屋に戻って行こうとするマリー。考えるよりも先にマリーに向かって手を伸ばしていた。
マリーの細い手首を掴む……前にエレオノーラが彼女の腕を掴んだ。
「まちなさい」
「……なんですか?」
「仕事がまだ終わっていないでしょう」
「私の分は終わっていますよ」
「うそをついても無駄よ。各担当の司教たちから苦情がきているんですから」
「ああ。でもそれって……本来私がする必要のないものばかりですよね」
「え?」
「聖女がする仕事でしょう? 『偽の聖女』の仕事じゃない。そもそも、別に私やエレオノーラ様でなくてもできる仕事ですし」
「なっ」
何度目のざわめきだろうか。事情を知らない者たちがいったいどういう意味なのかと顔を見合わせている。エレオノーラは口をパクパクさせているだけでごまかす余裕もないらしい。
――――嫌な予感が最悪の形で当たってしまった。
われに返ったエレオノーラが口を開く。その前に二人の間に己の体を滑り込ませた。
「マリー嬢、で名前はあっているよね?」
「そうですが」
「気づいているようだけど、僕はアンドレア・ガルディーニ。この国の王太子だ。休んでいる所を邪魔してしまったね。この者たちは僕がつれていくからゆっくり休んで。謝罪は後日改めて」
「いえ。謝罪は必要ありません」
「そういうわけにはいかないよ。面倒だろうけど理解してほしい。僕にも王太子という立場があるんだ。僕に挽回のチャンスをくれないかな」
「……それなら今からでもいいですか。後日時間を作るのも面倒ですし、さすがにもう目も覚めたんで」
「もちろん。ただ」
「ただ?」
「その前に服を着替えてきてもらえると嬉しいな。その服装は少々刺激が強いから。僕は庭園で待っているからゆっくりでいいよ」
「ああ……わかりました」
「うん。じゃあ」
続きを言う前にバタンと閉められた扉。
不服そうなエレオノーラをつれてとりあえずその場から離れる。おつきの者たちには少し離れてもらった。
「アンドレア王太子殿下、どうしてですか?」
言いたいことはなんとなくわかるがそのことについて明言するわけにもいかず「何がだい?」と首をかしげる。
「……」
エレオノーラもわかっているのだろう。苦虫を嚙みつぶしたような表情を浮かべ顔を背けた。心の中で嘆息しながらも笑顔を向ける。
「今日はあまりエレオノーラ嬢とは話せなかったね。大司教にも会えなかったし、近いうちにまたくるよ。その時に僕に埋め合わせをさせてくれるかな?」
「……もちろんですわ。後日、楽しみにしています」
「うん。僕も楽しみにしているよ。ああ、君たち」
「は、はい」
一定の距離をあけて後ろをついてきていたエレオノーラつきの者たちを呼び寄せれば戸惑った様子で駆けてきた。
「エレオノーラ嬢のことを頼むよ」
「はい!」
彼らにエレオノーラのことを任せ、庭園へと向かう。
―――さて、僕の対応でマリーの機嫌がなおるといいけど。そもそも、今までなにも考えずにマリーを避けていたのが間違っていたんだ。もっと早く僕が動いていれば……。
エレオノーラとの婚約を機に自分の目でエレオノーラの為人を確かめようとした結果がこれだ。今まで自分がどれだけ『真の聖女』に無関心だったのかがあらわになった。込み上げてくる罪悪感。
数十分前まで座っていた椅子に再び座る。
「おまたせしました」
「いや。まっては……」
顔を上げて驚いた。マリーは司祭が着る祭服で現れたのだ。隙のない清廉さ。夜着とは受ける印象が真逆だ。
――――エレオノーラはいつも白いドレスを着ているからてっきりマリーも似たような服装で現れるのかと思っていた。
なぜかマリーを直視できない。露出度でいったら先程よりもよっぽどましなはずなのに、あの下にあの女性らしい肢体が隠れていると思うと……。
「こ、こうしてマリー嬢と二人きりで話すのは初めてだね」
「そうですね」
「う、うん」
「……」
「……」
無言が気まずい。次の言葉がうまく出てこない。――――おかしい、こんなはずでは……。
「今更私の顔色を窺う必要はありませんよ」
「いや。僕は本当に謝罪がしたかっただけだよ。未婚女性のあんな姿を見たのになにもしないわけには」
「すみませんでした。お目汚しをしてしまって」
「そ、そんなことは」
「マリー! アンドレア王太子殿下にその物言いはなんなの?! しかも、お茶の用意もしていないし、それにその服装」
どこからともなく現れたエレオノーラに驚く。
「エ、エレオノーラ嬢?! どうして君が」
「部屋に戻るつもりだったのですが、マリーがアンドレア王太子殿下にまた不敬を働いているのではないかと思い心配になって引き返してきたのです」
「お茶の用意ができないのは仕方ないじゃないですか。この教会に私の頼みを聞いてくれる者なんていないんですから。どうせアンドレア王太子殿下もすぐ帰るだろうって思っていましたし」
「そんなのあなたが自分で入れれば」
「だから、私はお茶の場所すら知らないって」
「マリー嬢の頼みを聞いてくれる者がいない?」
アンドレアのつぶやきを拾い、エレオノーラが一瞬固まる。
「そ、それはマリーの素行の悪さが原因ですわ。ほら、見ての通りマリーは聖女らしくないでしょう。ですから、誰もマリーの話をまともに聞こうとしないのですわ。つまりは自業自得」
「いや、それでもおかしいだろう。彼女は聖女候補だぞ」
「それはっ」
「やっぱりおかしいですよねー。そもそも今までの私はかなり優等生だったと思いますけど。大量の仕事を押し付けられても文句ひとつ言いませんでしたし、ぞんざいな扱いを受けても甘んじて受け入れていましたから。でも、それも今日までです。これ以上のただ働きなんて絶対にしません。いっそのことさっさとここを出て、ただの子爵令嬢として暮らそうかしら」
ぎょっとした表情を浮かべるエレオノーラとアンドレア。口を開こうとするエレオノーラを制し、アンドレアがマリーに話しかける。
「それはさすがに許可できないよ。君はこの国の聖女」
「ではないですよね。どう考えてもこの扱いは。それに、別に私がいる必要もないですよね。私がしていた仕事は私じゃなくてもできますし、私がいなくてもエレオノーラ様を聖女に仕立てることはできるんですから」
「! そのことも聞きたかったんだ。君はどうしてそのことを知っている……いや、どこまで知っているんだい?」
「……少し話しすぎちゃったか」
「え?」
「いえ、別に。そんなに不思議に思うことではないですよ。『歴代聖女の奇跡』に目を通して、すこーし想像を働かせてみたらわかることですから」
「マリー!」
堪忍袋の緒が切れたようにマリーを睨みつけるエレオノーラ。
「それ以上ふざけた態度を取るのは止めなさい。本気でここから追い出すわよ。もうすぐ私の聖女のお披露目式があることは知っているでしょう。それが終わればあなたはもう聖女候補ではなくなるんだから」
「やっとここから解放されるってことですよね? 嬉しい限りです」
「そんなこと絶対許しは」
「エレオノーラ嬢!」
そこから先はまだマリーも知らないはず。この調子ならマリーが知れば絶対に受け入れてはくれないだろう。むしろ、いますぐにでも逃げ出そうとするかもしれない。それだけは避けなければ。
どうやってこの場を切り抜けようか。アンドレアがそんなことを考えている間にマリーは立ち上がった。
「私、そろそろ部屋に戻りますね。後はお二人でごゆっくり」
「マ、マリー嬢。もう少し僕と話を」
「もう話すことはありません。話したところで何も変わらないですし」
そう言ってほほ笑んだマリーの目はとても冷めていた。
――――ああ。父上になんて報告すれば。
アンドレアは痛むこめかみを人差し指の関節でぐりぐりと押さえる。次いで溜息を零した。
「エレオノーラ嬢。今日の事は僕から父上たちに報告するよ。それじゃあ、また」
返事を待たずに席を立つ。
エレオノーラの様子を気にする余裕は今のアンドレアにはなかった。