第十九話
新たに国王となったアンドレアの執務室には部屋の持ち主であるアンドレアとリヒャルトだけがいた。机の上には二つの紙。どちらもシュヴァルツァー皇国が用意した契約書だ。文章に一とおり目を通した後、アンドレアはサインをした。次いで、リヒャルトがサインする。出来上がった契約書を確認してリヒャルトは頷いた。
控えをアンドレアに差し出す。
「これでガルディーニ王国はシュヴァルツァー皇国の衛星国となった。あとのことは国王のおまえに任せる」
「承知しました。……心より感謝します」
深く頭を下げたアンドレアに、リヒャルトはなにも言わず背を向け、部屋を出た。
まっすぐにマリーが待っている客室へと足を向ける。道中、人とすれ違うことはあったが、皆廊下の端により深く頭を下げるだけで声をかけてくることはなかった。
――――とにかく皇国の不興を買わないようにと言い含められているのだろうな。
客室の前にはカールが見張りとして立っていた。
「準備は」
「終わっております」
「なら、すぐ出るぞ」
「はい」
部屋の扉を開けると、ソファーに座っていたマリーがリヒャルトに視線を向けた。
「リヒャルト、終わったの?」
「ああ。行くぞ」
「もう?」
「まだなにか用事があるのか?」
「いや、ないけど。そうじゃなくて、リヒャルトは一仕事終えたばかりでしょう。休憩はしなくても大丈夫なの?」
「あんなのは仕事のうちに入らない。それよりも早くこの城から出よう。……面倒なことになる前にな」
「わかった」
「カール」
「はい」
カールを先頭に王城の廊下を歩く。マリーは感心していた。
――――よく道がわかるなあ。私、一人だったら絶対迷子になっていた。
「マリー、待て」
「え」
リヒャルトから腕を掴まれ歩みを止める。
カールの向こうに見えたのは、見覚えのない男二人。しかし、服装から彼らの身分は推測できる。おそらく登城を許されている貴族だ。彼らの目にはカールが映っていないようで、マリーにだけ向けられている。
「マリー様! お話があります」
「われわれの話を聞いてください!」
彼らがいう『話』がどんなものかはだいたい予想がつく。眉間に力を入れ、無言でいるとリヒャルトから抱き寄せられた。驚いて見上げる。が、リヒャルトはマリーではなく男たちを見据えていた。
男二人の顔色が一気に青ざめる。しかし、ここで引く気はないらしい。この場をなんとか乗り切ろうと二人は顔を見合わせ、目と目で会話しようとしている。
「その話とやら……俺が代わりに聞こう」
考える暇は与えないとばかりにリヒャルトが促す。
「い、いえ。われわれの『お願い』はマリー様でないとどうしようもできない内容なので……」
「お願いだと?」
「は、はい。ですからマリー様に聞いていただきたくっ」
顔面を蒼白にし、必死に言葉を紡ぐ男たち。
このままでは話が進まないだろうとリヒャルトの腕をたたいた。リヒャルトが不機嫌そうな顔でマリーを見る。マリーは無言でほほ笑み返し、男たちに向き合った。
「話は短くお願いね」
男たちの表情がみるみるうちに明るくなる。
「もちろんですとも! われわれの願いは一つのみ。マリー様には『真の聖女』として仕事を全うしていただきたいという至極当たり前のものです」
男の言葉にピクリとリヒャルトの片眉が上がる。その反応に気づかずにもう一人の男も続いた。
「わが国の状態はマリー様もご存じでしょう。ですから、ぜひマリー様にはシュヴァルツァー皇国に戻る前にわが国の問題を解決してから戻っていただきたいのです!」
リヒャルトの眉がさらに大きく動き、眉間の皺が深くなった。今にも彼らに掴みかかりそうだ。
待ったをかける前に、カールが動いた。
「な、なにをっ?!」
「ひっ!」
カールの両手にはそれぞれ短剣が握られている。いったいいつの間に取り出したのか。全く気付かなかった。短剣の刃先は男たちの首に添えられていた。いや、もっといえば刃先はすでに薄皮を切り血が滲んでいる。命の危険を感じた男たちは下手に動けず固まっていた。
カールが男たちの動きを奪っている間にリヒャルトが口を開く。
「せっかく生かされた命を捨てようとする愚か者がいるとはな。おまえたちがその気ならかまわない。……マリーは目を閉じていろ」
「お、おまちください! われわれはそのようなつもりはっ」
「なら、どういうつもりだ? マリーはシュヴァルツァー皇国の聖女だ。おまえたちが好き勝手できる存在ではない。それとも、そんなことすらも指摘されないとわからないくらいおまえたちは馬鹿なのか?」
「っそ、それは」
「私たちはただ『お願い』しただけですっ。命令したわけでも、好き勝手使おうとしたわけではありませんっ」
「『お願い』ねえ。そもそもその『お願い』からしておかしいだろう。この国は一時的だとはいえマリーの力の恩恵を受けていた期間があった。にもかかわらずそのことへの感謝は一切述べない。いったいどの口が『お願い』を口にするのか。聞いて呆れる」
「「っ」」
反論できずに黙り込んだ二人。マリーは溜息を吐いた。救いを求めるように男たちはマリーを見た。
「はっきり言っておくわね。私はシュヴァルツァー皇国の聖女なの。ガルディーニ王国の聖女じゃない。皇帝陛下が私にこの国に残って民を救えというならその通りに動く。けれど、今回は言われていない。だから、私はこのまま帰るわ。……リヒャルト行きましょう」
リヒャルトの腕を引いて歩き出す。カールは未だ二人を抑えたままだが、そのうち追いかけて来るだろう。シュヴァルツァー皇国の騎士と侍女が外で待っている。早く行こうとスピードを上げようとして足を止めた。もうひとこと言っておこうと振り向く。
「今後、そういう『お願い』は私にじゃなくて、シュヴァルツァー皇国へ正式な手順を踏んで申請してね」
マリーは男たちの返事を待たずに、進行方向へ顔を向けた。
「マリーは優しいな」
「そう?」
「ああ。俺なら手っ取り早くあのまま切り捨てるぞ。後の面倒事が減るからな」
「リヒャルトならそうでしょうね」
マリーは苦笑した。
「でも、私は違う考えなの。できるなら不必要な血は流したくない」
「さすが『真の聖女』様」
「別にそういうんじゃないわよ。ただ、あんな小物まで逐一処分していたらすごい数になるでしょう。それじゃあ国が回らなくなる。特にガルディーニ王国のような小さな国はね。せっかく生き延びたのに、それはさすがにかわいそうでしょう」
「……結局アンドレアのためってことか?」
「なに、嫉妬?」
からかうように言えば、むっとした表情で頷き返してくる。
「ああ。そのとおりだ」
素直に返されるとは思っていなかったので驚いた。顔が熱い。
「べ、べつに嫉妬するような関係じゃないわよ。ただ、アンドレアには恩があるの。それだけだから……変な誤解しないでよね」
「恩? なんのだ?」
「っ。お、教えない! それより、はやく行こう」
リヒャルトの腕を引いて歩くスピードを速める。顔を見られないように。
王城を出てすぐの場所にシュヴァルツァー皇国の馬車が停まっていた。二台。一台は侍女や荷物が乗っている。すでに帰っていると思っていた魔物の討伐のためについてきた騎士たちもいる。どうやら帰りは護衛してくれるらしい。
――――これってもしかしなくても、ガルディーニ王国へのけん制だよね。
大袈裟な気もするがさきほどの貴族たちを見ていたらありえないとも言えない。
マリーは馬車に乗り込もうとして、ふと王城を見上げた。国王の執務室があるあたりの窓からアンドレアが顔を覗かせている。遠くて表情まではしっかり見えないがあの金髪はアンドレアに間違いない。
マリーはアンドレアに向かって軽く手を振った。
アンドレアらしき人物は軽く手を振り返してくれた。そして、すぐに窓から消えた。
「行くぞ」
「うん」
馬車が走りだし、しばらくの間マリーとリヒャルトは無言だった。――――これ以上は我慢できない。
雄弁な視線を送ってくるリヒャルト。
「ア、アンドレアとは本当になんでもないからね。……さっき私が言った恩っていうのは……以前アンドレアにした恋愛相談のことだから」
「恋愛相談? あいつに?」
「そう。私……恋愛なんて初めてだったから。自分の気持ちがよくわからなくて。でも、アンドレアのおかげでリヒャルトへの気持ちに気づけたの。アンドレアは私の恋の先生なのよ!」
「せ、先生」
リヒャルトは珍しく目を丸くして呟いた。マリーは真剣な表情でその通りなのだと頷き返す。
「そういう意味ではリヒャルトにとってもアンドレアは恩人だと思うわ」
「そ、それなら……そう、なのかもしれないな」
なんとも言えない表情で頷くリヒャルト。認めたくはないのだろうが事実だ。
「あ。そういえばニュクス様から伝言があったんだった」
「ニュクス様から?」
「うん。ちゃんと監視できるようにガルディーニ王国にあるニュクス像を新調してほしいんですって。あの教会にあるニュクス像はもう捨てたものだから、二度と使いたくないみたいよ。今のガルディーニ王国には新しく建てる余裕はないだろうから、シュヴァルツァー皇国でどうにかできないかな?」
「ニュクス様からのお願いなら大丈夫だろう。父上には俺から話しておく」
「よろしくね」
「ああ。……なあ」
「なに?」
「さっきの話についてなんだが……恋愛が初めてっていうのは本当か?」
「うぐっ。……そ、そうよ。私、ガルディーニ王国にいた頃は恋愛する余裕もなかったし、しようとも思わなかったから。リヒャルトが初めてなの。その……好きな人っていうか、恋人っていうか、婚約者っていうのが」
「マリーにとって初めての相手は全て俺ってことか。それはいいことを聞いた」
「……未来のことはわからないけどね」
「は?! 別れるつもりか?!」
「ちがっ。そうじゃなくて……わからないでしょう。私たちはまだ婚約しただけで結婚したわけじゃないし。もしかしたら、これからリヒャルトにふさわしい人が現れんっ」
続きはリヒャルトの唇によって遮られた。それ以上言わせないためなのか、口づけが次第に深くなっていく。呼吸が続かない。意識が飛びそうになる寸前、ようやくリヒャルトは離してくれた。
「はあはあはあ」
「俺にはマリーだけだ。他は必要ない。マリーも俺だけだ。いいな?」
「う、んんっ」
再び唇が重なる。今度は最初から深い口づけ。体が熱くて、リヒャルトの体も熱くてこのままどうにかなってしまいそうだ。リヒャルトの大きな手がマリーの体をなぞるように動き始める。その動きがなまめかしくて……
「っ!」
「はあはあはあ……このけだものっ! そういうのはこういうところでするものじゃないでしょう!」
「すまん」
できる限りの抵抗でリヒャルトの手の甲に爪を立てた。血が滲んでいるからそれなりに痛いはずなのに、リヒャルトは嬉しそうに笑っている。呆れた。
不用意なおさわりをさけるため、マリーは向かいの席に移動した。
シュヴァルツァー皇国に到着するまでの間にリヒャルトから聞いておきたいことがある。
「エレオノーラたちを逃したんだって?」
「ああ。処刑の方がよかったか?」
「いや。ただ、リヒャルトのことだからてっとり早くそうするのかなと思っていたから驚いただけ」
――――私に教えてくれなかったし。
「それじゃあ満足できないからな」
「……どんな罰を下したの?」
「国から追放した」
「それは知っているけど、本当にそれだけ?」
リヒャルトは目を細めて笑う。
「シュヴァルツァー皇国への入国は永久的に禁止。もし、破ったら処刑。それと、あいつらのことをニュクス様の加護がある国全てに通達した。皆、わが国と似た対応をするらしい。やはり、どの国も『真の聖女』を謀る者を許せないそうだ」
「それは、あの二人……特にエレオノーラ様にとっては処刑よりもきつい罰でしょうね」
「罰、だからな」
追放して入国禁止までは予想していたが、まさか他の国も巻き込むとは思っていなかった。
どうやら、彼女たちは私が想像していた以上に過酷な人生を送ることになりそうだ。
果たしてそんな環境下で二人の愛は育っていくのか。ある意味、ニュクス様から追放された人たちの方がマシだったかもしれない。
ちらりとリヒャルトを見上げる。考えてみるとリヒャルトの思考とニュクスさまの思考は似ている。ニュクス様が己の子供だと言っているのもわかる気がする。
じっと見つめているとリヒャルトがなにを思ったのかフッとほほ笑んだ。
「これで問題はほぼほぼ片付いたな。後は俺たちの結婚式に集中するだけだ」
「う、うん。いろいろ頑張らないとね」
――――皇太子の結婚式だ。やるべきことは山のようにあるだろう。
「ああ。でも、無理はするなよ。おまえは人を頼るのが苦手なようだからな。なにかあっても、なくても俺を頼れ」
「ありがとう」
リヒャルトはおもむろにマリーの左手をすくい上げると、そこに口づけた。いきなりの行動にびっくりして手を引く。
「な、ななななななにを」
「結婚式までに慣れておく必要があるだろう? 初夜の後は我慢するつもりがないからな」
ニヤリと口角を上げたリヒャルトに向かって、お尻に敷いていたクッションを投げつける。睨みつけながらもまんざらでもない自分がいて、マリーは怒っているフリをしたままリヒャルトから顔を背けた。




