第十四話
エレオノーラ・サローニは『自分』という存在をとても高貴で特別な存在だと認識していた。王家に次ぐ権力を持ったサローニ公爵家に一人娘として生まれ、容姿にも、才能にも恵まれた。
『これだけ恵まれているということは、きっとニュクス様から選ばれた特別な子に違いない』
幼い頃、誰かから言われた言葉。その言葉を少しも疑いはしなかった。エレオノーラにとって、ソレは事実だったから。
だからこそ、本物の聖女という存在を認められなかった。けれど、そのマリーももうガルディーニ王国にはいない。
この国は、今代の聖女に、王太子妃にエレオノーラを選んだのだ。エレオノーラからしてみれば当然の結果。だったはずなのに……
イライラが止まらない。この苛立ちをナニカにぶつけたい。が、あいにく今はできない。そんなことをしたら彼らに見つかってしまうかもしれない。そうでなくても、魔物の目撃情報があった森に身を隠しているのだ。魔物の討伐は終わったと聞いたが、まだ立ち入り禁止の看板は立てられたままだった。
「……」
身を隠してからしばらくたったが周囲に人の気配はない。やっと人心地つけそうだ。
「はぁ」
淑女の鑑と呼ばれている普段のエレオノーラなら絶対にしない行動だが、今は誰の目も気にする必要はない。ドレスが汚れることも気にせず直接地面に座り込んだ。そして、どうしてこんなことになってしまったのかと考える。
国王陛下に言われたとおり、聖女の役目を全うしたはずなのに。称賛されこそすれ、責められる謂れはないのに。どうしてあんな風に……と思わずにはいられない。
魔物と遭遇する危険がある中、王太子妃は依頼相手にきてもらうのではなく、自分から訪ねて回った。彼らの悩みに真摯に耳を傾け、治療が必要な者には貴重な回復薬を使って治療した。貴族たちは皆、そんなエレオノーラへ感謝を示していた。
「それなのに、ぶをわきまえない者たちが……」
思い出しただけで腹立たしい。
聖女の務めを果たし、王城へと帰る途中。エレオノーラが乗った馬車の前に飛び出してきた者がいた。見るからにみすぼらしい格好をした女。その女はずうずうしくも、魔物対峙に参加して大けがを負った息子の治療をしてほしいと頼んできた。その対価に見合う物を差し出せるわけでもないのに。
それでも衆人の手前、エレオノーラは申し訳なさそうに断った。上級回復薬を切らしてしまったため無理だと。けれど、女は断った途端極悪人を見るような目でエレオノーラを睨みつけてきた。そんな目を向けられるのは初めてだった。
女は言った。
「それならば直接聖女の力で治してくれ」と。
まるで、おまえにそんな力はないだろうという目をして。よくないうわさが市井で流れていることは知っていた。でも、まさかあんな往来でそのことについて触れる者がいるとは思わなかった。言葉に詰まったエレオノーラを嘲笑うように女は詰め寄ってきた。
「どうして治療しないのか。庶民だからと差別するのか。そもそも聖女なのになぜ魔物討伐に参加していないのか。聖女の力があればここまで被害は広がらなかったのではないか。できない理由でもあるのか」
瞳孔の開いた眼でエレオノーラを見据え、捲し立てる女。恐怖を感じたエレオノーラは助けを求めるように周囲を見回した。けれど、誰一人としてエレオノーラを助けようとする者はいなかった。護衛についてくれていた騎士でさえ、巻き込まれたくないとでもいうようにエレオノーラの視界から逃げ、体を馬車の向こうへと隠したのだ。
突き刺さるいくつもの視線。その全ての視線がエレオノーラを責めている気がした。
考えるよりも早く、エレオノーラはその場から逃げ出していた。一刻も早く誰の目もないところへ行きたかった。そうして辿り着いたのが今いる場所だ。
「私のせいじゃないわ」
魔物が出現したのも。被害が増え続けているのも。剣を握ったこともない若い男たちが半ば強制的に戦場へと駆り出されるようになったのもエレオノーラのせいではない。それなのに、彼らはそれらの全てがエレオノーラのせいだと言いたげだった。
実際、逃げ出したエレオノーラを見て彼らは「やっぱり俺らを騙していたんだな!」「偽聖女!」「おまえが代わりに戦え!」と暴言を吐きながら追いかけてきた。護衛は全く役に立たなかった。
「あと少し。あと少しだけ休んだら王城へ向かいましょう」
いろいろ考えているうちに気持ちは落ち着いてきた。
王城にはお父様がいる。お父様ならこの状況をなんとかしてくれるはず。国王陛下にはまた叱られるかもしれないが、すでに王太子妃となっている私をむげにはできないはず。後のことは二人に任せればいい。
あと少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。
その時、草を蹴るような音が聞こえてきた。勢いよく顔を上げる。木々の間から現れたのはここにはいないはずの人物。
「マルクス?! どうしてあなたがここに」
「お嬢様! ご無事でしたか?!」
マルクスはエレオノーラに駆け寄ると左腕でぎゅっと抱きしめた。その力強さと温もりにエレオノーラは安心感を覚える。おかげで、平常心を取り戻せた。
「マルクス」
「はい」
「なぜあなたがここにいるのか。今は聞かないことにするわ。王城まで安全に辿り着けるよう手を貸してちょうだい」
「……」
「マルクス?」
マルクスが返事をしないなんて珍しい。この距離で聞こえないはずはない。顔を上げ、マルクスの顔を見て目を見開いた、感情の読めないマルクスの表情。嫌な予感が頭を過る。
「マ、マルクス?」
「……お嬢様こちらに」
強引に手を引かれ、足を進める。違和感は拭えなかったが、マルクスが自分に危害を加えるとも思えなかった。
マルクスに誘導された道の先には一頭の馬がいた。
「も、もしかしてこの馬に乗るの? 二人で?」
「はい。そうです」
「で、でもマルクスは……左手だけで大丈夫なの?」
「ご安心ください。絶対にお嬢様にけがはさせませんから。それよりも、今はこの場から早く離れることが先決かと」
「そ、そうね」
マルクスの言葉にその通りだと頷き返し、覚悟を決める。
馬に乗るのは何年振りだろうか。久しぶりな上、なんの準備もしていない。
マルクスの手を借りてなんとか乗ることができた。
――――聖女用のドレスで良かったわ。他のドレスだったら乗るのも難しかったはず。……マルクスは本当に乗れるのかしら?
エレオノーラの心配をものともせずに、マルクスは右腕がないとは思えないような身軽さでエレオノーラの後ろに乗った。ほどなくして馬が進み始める。
どれくらい時間がたったのだろうか。ずいぶん時間がたった気がする。耐え切れず、エレオノーラは口を開いた。
「マルクス。後どれくらいで王城につくの?」
いつまでたっても周りは木々だらけだ。最初は人目につかないようにわざと遠回りをしているのだと思ったが、途中から違和感を覚えた。自分たちが今どこを走っているのか、エレオノーラには見当もつかない。ただ、王城に近づいている気は全くしない。むしろ、離れている気がする。その勘はどうやら当たっていたらしい。
「すみません」
「マルクス。どういうことなの? どこに向かっているの?」
マルクスの顔を見て問い詰めたいところだが、怖くて振り向くこともできない。
「止めて! 馬を止めてちょうだい!」
素直に従ったマルクスに、内心ホッとする。馬から降りるつもりはないらしいが、仕方ない。
「きちんと説明をして」
咎めるような声で強めに言えば、マルクスは声を絞り出して話し始めた。
「……このまま、ガルディーニ王国を出るつもりです」
「なんですって?! あっ」
予想していなかった話に思わず後ろを振り向いてバランスを崩す。
「あぶない!」
とっさにマルクスが支えてくれたおかげで助かったが、心臓は嫌な意味でドキドキし続けている。もし、コレが馬を走らせている時だったらと思うと怖くてたまらない。
マルクスはエレオノーラが落ち着くのを待ってから再び口を開いた。
「追手を撒くためには一度シュヴァルツァー皇国へ行く必要があります。最終的にどの国へ向かうかはそれから決め」
「待ってちょうだい。話についていけないわ。追手って……駆け落ちでもするつもりなの? 気持ちは嬉しいけれど、そんなことをしたら今度こそお父さまに殺されてしまうわ。今ならまだ間に合う。私がごまかしてあげるから。すぐに王城へ戻って」
「それはできません。戻ったら……お嬢様も殺されてしまいますから」
「……は?」
理解できない言葉が聞こえた気がする。
「お、お父さまが私にそんなことをするわけないでしょう。私は王太子妃なのよ。まだまだ使い道があるの。だから大丈夫。王城に行けばお父様が守ってくれるはずよ」
「……サローニ公爵家に仕える騎士たちに密命がくだされました。お嬢様をいち早く見つけて始末するようにと」
「え?」
「閣下は今回の騒動の全ての責任をお嬢様一人に押し付けて片付けるつもりのようです」
「ま、まさかそんなわけ」
「おそらく王家も承知の上です。その証拠に、国王陛下が秘密裏にアンドレア王太子殿下をシュヴァルツァー皇国へ向かわせています」
「っ。……なぜ」
確かにここ数日アンドレア王太子殿下の姿を見ていない。国王陛下に尋ねてもごまかされてばかりだった。
「おそらく、シュヴァルツァー皇国に援助を求めるためでしょう」
「なっ。シュヴァルツァー皇国が助けてくれるはずがないでしょう。リヒャルト皇太子殿下のあの態度を見たらそんな考えは」
「シュヴァルツァー皇国にはマリーがいます」
「マリー?」
「はい。マリーはシュヴァルツァー皇国の今代の聖女ではありますが、ガルディーニ王国の血も引いていますから……」
エレオノーラは絶句した。まさか、国王陛下はいまだにマリーのことを自分の思い通りにできる駒だと思っているのだろうか。マリーがガルディーニ王国を助けてくれるはずがないのに。リヒャルト皇太子殿下も許可するはずがない。下手をしたら戦争になる可能性もある。それともなにかいい交換条件でもあるのだろうか……
「もしかして、それで私の首を?」
「閣下が情で動く人間ではないことはお嬢様もよくご存じのはずです」
マルクスのトドメのような言葉になにも言い返せなかった。実際、お父様はそうして今の地位を築き上げてきたから。
「ははは」
笑いがこみあげてきた。面白くもなんともないのに。いや、ここまできたら面白いかもしれない。今まで築き上げてきたものが、こんなにも呆気なく壊れてしまうのだから。
頭に浮かんだのは先程エレオノーラへ敵意をぶつけてきた人々の顔。これからはそこに貴族も加わるのだ。今まで好意的な視線を向けてきた者たちもきっと簡単に手のひらを反す。
―――――ああ。なんてくだらない!
ようやく手に入れた『聖女』の地位も『王太子妃』の地位も一気に無価値になった。
「わかったわ。行きましょう」
「……はい」
前を向いているエレオノーラの顔は見えない。けれど、マルクスには彼女が今どんな顔をしているのかわかる気がした。かける言葉は見つからない。今できるのはできるだけ早く馬を走らせることだけだ。二人を乗せた馬はどんどん王城から離れて行った。
◇
「やっぱり。マリー嬢が本物だったんだね」
ベッドに横たわったまま、熱にうかされたような瞳で見つめてくるアンドレア。居心地が悪くてつい視線を逸らしてしまった。
「マリーはシュヴァルツァー皇国の聖女だぞ」
アンドレアを睨みつけけん制するリヒャルト。不機嫌さを隠そうともしないリヒャルトに苦笑する。重傷者に対する言動ではない。けれど、アンドレアは気にした様子もなかった。
じっと、アンドレアを診る。聖女の力で外傷は治したものの顔色は悪い。流れた血を戻すことはできないので当たり前といえば当たり前だが、しばらくは貧血の症状に悩まされるはずだ。
もし、あの時私がアンドレアを見つけられなかったらどうなっていたことか。
アンドレアに聞きたいことはたくさんあるのだが、青白い顔を見たら聞くに聞けない。けれど、リヒャルトは違ったらしい。
「そろそろ話してもらおうか。密入国した理由について。なにが狙いだ?」
「密入国……したつもりはありませんが。きちんと検問を通って入国しました……いえ、そうですね。狙いがあって入国したのは確かです。そう考えると、今はまさに絶好の機会ですね」
まだ本調子ではないだろうに、姿勢を正し始めるアンドレア。それがこれからろくでもない話を始める合図のような気がして思わず顔をしかめた。
アンドレアは懐から手紙らしきものを取り出した。
「ここに、国王陛下からの手紙を預かっています。が、この手紙を読む前に僕の話を聞いてください。どうか、お願いします」
深々と頭を下げたアンドレアに、眉間の皺はさらに深くなった。