山に呼ばれる
室口さんは昔、登山が趣味だったという。しかしとある経験をしてから登山を出来なくなってしまったそうだ。
「別に山に登らなければどうってことはないんですよ。だからきっとこの先も困ることはないと思うんですがね、時々登山をしている夢を見るんですよ。未練がましいですよね」
そう言って彼は悲しそうに笑い、その経験を話してくれた。
アレは……そうですね、あまり良いものではないのでどこの山家は伏せておきます。とにかくその山は小学生が授業で登れるくらい簡単な山だったんですよ。僕も大したことはないだろうと高をくくって登ったんですよ。特に重装備でもなかったですね、遭難した人が出るようなこともありませんでしたから。
その山はしっかり登山道が整備されていてそこにそって歩いて行くだけで山頂に行けたんです。ハッキリ言うと私も舐めていましたね。道なりに進んでいくだけで登れる山だからと思っていたんです。
アレは登り始めてどのくらいだったですかね……そうですね、ある程度山に分け入って中腹くらいだったと思います。まだ体力はたっぷり残っていましたし、のんびり歩いていましたよ。ですがね、しばらく歩いていると登山道を歩いていたはずなのに藪の中にいつの間にか入っていたんです。簡単な山なのでそんな道があるはずは無いんですが、何故か不思議に思わなかったんです。
ただですね、子供の泣き声が聞こえていたんです。いくら小学生でも登れる山と言っても単独ではいるような場所ではありませんからね、本来はおかしいはずなんですよ。でも、何故か当時の私はそれを少しもおかしいとは思わず『助けなきゃ』という一心に支配されていたんです。普段なら捜索をしかるべきところに依頼するんですが、どうして自分でなんとかしようと思ったのかも分からないんです。とにかく、道から外れて山中を進んでいきました。
今でこそ知られていますが、山で迷ったときに川沿いに降りていくのは良くないんですよ。なのに何故か川を見つけるとその下流から子供の泣き声が聞こえてきたんです。子供がそのルールを知らずに降りていったのかもしれませんがね、とにかく声に導かれるままに進んで行ったんです。
普通なら滝なんかの段差に行き当たってどうしようもなくなるところなんですが、幸いと言うべきか、進んでいった先にあったのは小さな社だったんです。朽ち果ててはいたものの、かろうじてそれが人工物であると言うことは理解出来ました。その小さな社の中から声が響いてきたんです。
「やめておけば良かったんですがねぇ……」と言ってその続きを彼は話した。
社を開けると中には黒い石が入っていました。なんの種類かまでは分かりませんよ、鉱物には詳しくないので。ただ普通の石だとは思えませんでしたね。なんとなく不気味なものをそれから感じたんです。だから私はそっとその場を離れました。そして少しだけ尾根を歩くと驚くほど簡単に登山道に出ました。
社まであんなに歩いたはずなのに登山道がこんなに近いはずはないんですよね。それで登頂はせず逃げるように山を下りて、駐車場で車に乗り込みさっさと自宅に向け、まっすぐ帰りました。あれがなんだったのかは分かりません、ただ、良いものではないのだろうと思いますよ。ただね、それで終わればその山に近づかなければ済む話だったんですが……
その後、いくつかの山に登ろうとしたんですけどね、どの山でも何か不思議な声が聞こえるんですよね。それよりも問題なのは、その声が成長しているんですよ。
「成長……と言いますと?」
私ははじめに子供の泣き声って言いましたよね、それがだんだんと助けを求めるハッキリとした少女の声になり、その後だんだんと落ち着いた声になって、見えるわけではないのですが何度も聞くと成人女性の声だなと理解出来るようになったんです。
さらに問題なのはその声が同一人物のものだとなんとなく分かるんですよね。始めの時から徐々に成長していっているんです、あり得ない速度でね。しかもどの山に登っても聞こえてくるんですよ。別の県にある山だろうが、離島にある山だろうが平気で声が聞こえるんです。こういうのはなんていうんでしょうね? 狙われたと言えばいいのでしょうか。とにかく真相はさっぱり分かりませんが、声が成人女性のものになったところでもうだめだと思って逃げました。あれがなんだったのかなんて知りたくもありません。
幸い、山に登らなければ問題無いんですがね、やはり山に登るのが趣味だった身としては辛いですね。趣味の一つを奪い取られたわけですから。しかし山っていうのは説明のつかないことが起きるものなのだと思います。だから私はもう山に登れないんですよ。
そう言ってからため息を一つついた。私はなんと言っていいか考えていると、彼が一言言った。
「幸い、その何かも山から出られないんでしょうね。山に登らなければ普通の生活が送れるんです。ただ、最近になっておかしな事が起き始めているんですよ」
「おかしな事ですか? しかしそれは山から出られないんでしょう?」
「ええ、だからでしょうね。何故か登山ツアーの案内が結構頻繁に自宅に届くんですよ。どのツアー会社も利用した覚えが無いんですがね、どうやって送っているのかは分かりませんが、案内を見る度に衝動的に申し込みたくなるんです」
そう言って彼は力なく笑った。私はそんなことがあるのだろうかと思いつつ、その話は終わった。その後、何度か山での大規模遭難のニュースを見たが、調べたところ彼の名前は出ていなかったのでおそらく無事なのだろうと信じている。