妻からのメッセージ
栄介さんは半年前、奥さんに先立たれている。だがまったく寂しくはないらしい、その理由が不思議なので話しておきたいとのことだ。
「それで、その……ご愁傷様です」
「ああ、いや、まったく気にしなくていいですよ。妻は確かに死んでしまいましたが、今は一人ではありませんからね」
サラッと返された。触れてはならない話題というわけでもないのだろう、気になったのでその事について話してもらいたいのだが、こちらからは突っ込んだ話をしづらい。それを見て取ったのか、栄介さんは話を始めた。
実は妻を亡くして二三ヶ月は酒浸りだったんですよね。恥ずかしい話ですが、会社が徒歩圏内にあったので朝飲んで出社して、帰宅してからコンビニで買ってきた酒を飲んでいましたね。
存外に重い話になりそうだ。人間メンタルをやられると辛いものだと言うことがよく分かる。
そんなに気にしないでください、私はもう悩んでいませんし、気を遣われるようなことでもないですから。
軽くそう言う彼の目に迷いは無かった。どうすればそこまで割り切れるのだろう? 彼の歳はもうそれなりだ、今から新しい人生の伴侶を見つけるのは難しいだろう。
「何か悲しいことを乗り越えられた理由でもあるのでしょうか?」
私がそう訊ねると、シンプルな答えが返された。
「ええ、妻が助けてくれたんですよ。あなたは怪談を求めているんでしょう? そういった話なので気にしないでください、ただ話しておきたいだけです」
迷いのない目をしてそう言う栄介さんに私はなんと声をかけたものかと思ったが、向こうから続きを話してくれた。
酒浸りの毎日でよく会社をクビにならなかったものだと思います。同僚も事情は知っていたのでフォローしてくれたのかもしれません。今ではとても感謝していますよ。
そうして酒を飲んで数ヶ月が経ったんですが、ストロング缶チューハイを数本飲んだところで気絶したんです。もう死んでもいいやくらいの勢いで飲んでいましたからね、今生きている方が不思議ですよ。
それでその夢の中で妻が出てきましてね。涙を浮かべているんですよ。私より辛かったはずなのに夢の中では笑顔なんですね。久しぶりに見た妻の健康だった頃の姿を見て、思わず私は抱きしめようとしたんです。
彼は遠い目をして言った。遙か過去を思い出しているような視線だ。私には分からない絆のようなものがあるのだろうか?
私が妻を抱きしめようとしたときに、私は妻に突き飛ばされたんです。向こうは全くの笑顔で私を両手で突き飛ばしてきたんです。気がついたら部屋の中に吐いた跡があって目が覚めました。
泥酔したせいであんな夢を見たのかと思ったんです。しかしあの目は間違いなく妻の瞳でした。何故突き飛ばされたのか少し考えました。結局、妻は私に生きろと言いたかったのだと思います。だから私はきっと妻の分まで生きなければならないのでしょうね。
一応いい話のようになっている。しかし怪談としては少し弱いような気がした。それを悟ったのか栄介さんはその後の話をしてくれた。
実はその時吐いたと言いましたが、とりあえず前進に吐瀉物がついていたので部屋と体を洗うことにしたんです。久しぶりにスッキリした気分で洗面所に行きました。
それから一息置いて話が続く。
酷いものでしたね、自分では一応出社していたはずなんですがね、身だしなみというか清潔感というか、それがどれだけ酷いものになってしまっていたのか分かりました。無精髭に整っていない髪、シワだらけの服。酷いものです。とりあえず吐いたので口の中を洗おうと水でうがいをしたら赤みがかった水を吐きました、歯周病でしょうね、ここのところはも磨いていなかったのに気付きました。
そこで髭を剃り、眉毛を整え、来ているものを洗濯機に入れてから体を洗おうとしたんです。上のシャツを脱いだときに気付きました。胸のところが赤くなっていたんです、そこは間違いなく妻に突き飛ばされたときに触れられた場所でした。
少しだけ泣いて、それからすっかり身なりを整え、今ではすっかり社会人に復帰しました。一日後のことも考えないような生き方をしていたんですがね、それからは立派に生きようと決めました。会社に出ても今まで迷惑をかけた分を取り戻すために必死になりました。おかげでみんなを安心させられましたし、迷惑分残業もして普通の生活を取り戻したんですよ。
そうして彼は妻がいないこと以外は今までの生活に戻ったらしい。少しだけ違うこともあるというのでそれを訊いた。
実はですね、それから何度か寝て分かったのですが、妻が夢に出てくる日があったので、出てきてくれた日と出てこなかった日の記録を残したんです。そうしたら一つのことが分かりまして、酒を飲んだ日には妻が夢に出てきてくれたんです。少し寂しそうな顔をしながら私から離れていくんです。それを追いかけて抱き留めようとしたところで目が覚めるんですよ。始めはビール一缶でも夢に出てきたんですが、次第に出てきてくれなくなったのでどうしたものかと思ったのですがね、いろいろな酒を試してみたところ、アルコール度数が高ければ妻が出てきてくれるようなんです。
そう言った栄介さんは今では甲類焼酎を毎晩飲んでいるそうだ。そして最後に、「日増しに鏡を見ると妻が私につけた手の後が濃くなっているんですよ。何時まで経っても心配されているんだと思うと必死に生きなきゃなと思えますよ」そう言って笑いながら栄介さんは話を終えた。これでこの話は一応終わりだ。しかし彼がその話をしてくれたとき、彼の後ろから真っ白な手が伸びて彼の胸を抱いていることはいよいよ言えなかった。彼は『続きはまた会えたときにお話ししますよ』と言っていたが、その話を聞いた居酒屋に一時通ってもその後彼の姿を見たことはなかった。
一体何が起きたのかは分からない。ただ今では彼が無事立ち直って生活していることを祈るばかりだ。




