バイクを降りる
岳谷さんは昔バイクで好き放題に走り回っていたそうだ。しかしその時に一度恐ろしい目に遭って、それ以来スッパリバイクから離れたらしい。その時の話を伺った。
「いやね、私も乗れるものなら今でも大型バイクで走りたいと思っていますよ、でもあんなことがあったあとじゃあね」
「一体何があったんですか?」
「アレは……幽霊っていうのかな? まあそういうものを見たわけだよ」
当時、まだまだバイクへの規制が民間の努力に任されていた頃、岳谷さんは中型バイクで好き放題走っていた。高校では免許を取らせないと保護者がやかましく言っていたそうだが、中学を出てすぐに働き始めた岳谷さんに高校の厳しい規制はまったく関係無かった。
「それでね、バイトをしてバイクを買ったんだよ、卒業して十六の誕生日が来るまでバイトに明け暮れて誕生日には一台買えるくらい貯まっていたんだよ。当時はまだ安かったかな、今のバイクならと手も買えないくらいの金額だったよ」
そうしてバイクを探し歩くことになった。駐輪場は自宅の庭にでも置けばいいだろう。スペースをとるものでもないし、自分の金で買ったのだからとやかく言われる覚えは無い。というわけで掘り出し物を探し求めた。
「結局、バイク店ではお金が厳しいと分かった。甘かったよ、確かに車体代は払えるのだけれど、税金と保険と整備まで考えたらとても足りなかったよ。当時は未成年が入れる保険がバカみたいに高かったからね」
結局、知り合いの伝手を辿ることになった。高校に進学したヤツから、同じく中卒で働き始めたヤツまで、片っ端からいいものがあったら売ってくれと頼み込んでね、一月位した頃だったかな? 破格の値段で譲ってくれるという人が知り合いのお兄さんにいたんだよ。一桁間違えてないかと思うほど安かったんだ。否も応もなく飛びついたね。事故車? もちろん何かワケありだとは思ったよ。でも当時はそんなもの怖くなかったし、これを逃すとまともに買えるものが当分出そうもないからね。
そうして念願のバイクを買った岳谷さん、一応そのメーカーに配慮してどの車種かは伏せておく、それを乗り回したんだよ。楽しかったなあ……今でも折に触れて思い出すくらいだからね。
当時はまだ田舎に住んでいたから走る場所には苦労しなかったよ。そのバイクはマフラーがやたらやかましかったんだけど、おおらかな時代だったから許されていたんだ。
で、しばらくの間は近所の山を走り抜けて楽しんでいたんだよ。夜風が気持ちいい季節だったね。その時に起きたのが問題でさ……山中の自販機前に白い服を着た女が立っていたんだ。もちろん田舎だよ? そんな場所にバスが止まるはずがないし、そもそもバスなんてとっくに終わってしまった時間だ。スマホどころか携帯電話さえ珍しかったからね、困っているのかと思って声をかけたんだ。
『姉ちゃん、大丈夫か? 一応ノーヘルはマズいんだけど困っているなら送るよ?」
褒められたことではないですがね、当時はノーヘルで大問題になるような時代じゃなかったからね、一応そう訊ねてみたんだ。するとニヤッとしたかと思うとその女は煙のように消えたんだ。びっくりしたけれど、同時に厄介ごとに巻き込まれずに済んだとも思った、それで縁起が悪いのでもう帰ろうと山から街への道を走って行ったんだよ。
ところで、バイクのコーナリングって知ってるかい? 車しか乗ったことがないと分からないと思うけど、バイクは曲がる方へ体重移動するんだよね。だからある程度は傾くんだよ。当然山の中を降りていくのだからいくつもコーナーがあるよ、そのたびに何故か体が反対方向に引っ張られるんだ。違和感を覚えながらも力尽くで運転していたんだけどさ、一番急なコーナーでスピードを落としてゆっくり進もうとしたらガクンと引かれてバイクがこけたんだよ。幸いにもプロテクターまでつけていたのでそれほど怪我はしなかったんだけどさ、仰向けに転がされた体を見下ろす影があったんだよ。
夜だっていうのに影というのもおかしな話かな? とにかくそうとしか呼びようのない真っ暗な人間の形を下影に目だけが白く光っていたよ。それに覗き込まれてね、『ちっ』と舌打ちをした音が聞こえたんだよ。バイク自体にはまだ乗れる程度の傷しか無かったんだけどね、それ以来怖くて僕はバイクを降りたんだ。
そんなにあっさり降りた理由は何かって? 帰宅してから怪我がないか確認した時に鏡にあの女が映ったんだよ。背後にピタリとくっついて立っていたんだ。鏡から逃げてそれきりさ。
ちなみにそれからずっと鏡を覗くとその女が背後に立っていてね、実家を出てから部屋の鏡は入居の度に全部隠すようにしてるんだ。
結局、あのバイクのせいか、それとも夜に変なあやかしの類いに声をかけたのが悪かったのかは分からないよ。ただ一つ僕が言えるのは命がけでバイクに乗るのはやめた方がいいってことだけだよ。
これが岳谷さんがバイクを降りた理由の全てだ。お祓いにでも行った方がいいのではないかとも思ったが、本人は『それでもバイクに乗る気は起きないからね、わざわざ行こうとは思わないかな』ということなので、きっと彼の背後には今でもその女が経っているのだと思う。『気にしなければバイク以外への悪さはしないからね』とは岳谷さんの談である。