親知らず
歯には親知らずというものがあるが、それに助けられたと言うのはAさんだ。彼によると親知らずなんて名前がついているのに、親が知っているのではないかと思えてしまうそうだ。
「上京してしばらくした頃の話なんですけど、やはりそれなりに遊んでいたんです。一応大学に進学しての上京だったんですがね。放蕩生活でなかなか苦労していたんです。自業自得ではあるんですけどね」
彼の実家は飛行機か新幹線を使わないと現実的な時間で着かないような場所にあるらしい。在来線で行けないわけではないが、長期休暇でもなければ丸一日が潰れるくらいだ。だから彼はゴールデンウィークくらいでは実家に帰ることはなかったそうだ。
「時代が時代なのでスマホで話せばいいやくらいに思ってました。対面しなくても顔を見て喋れるんだからそれでいいと思っていたんです。両親も俺が卒業したらあとは定年を待つばかりくらいの感覚でしたから気楽なものです。まあその分『就職はこっちでしろ』とか言われることも多かったんですけどね」
そんな時のこと、いつものように彼はバイト代が出た日に飲み歩いて散財をしてしまったらしい。
「遊び歩くのはいつものことなんですけどね……その頃に親父が入院したから見舞いに来いと母親から連絡がありまして。ちょうど連休があったのでシフトだけ代わってもらって少し顔を出そうと思ったんですよ」
とはいえ、彼に飛行機や新幹線に乗る資金はない。となると長距離はバスか通常の電車くらいだ。彼はその時乗り放題の切符を販売期間に買っておかなかった事を後悔したそうだ。
「仕方ないので時刻表を見ながら実家までの路線を調べたんです。まあ結構な乗り換えがありますが、金額的には行けなくはなかったんです。親不孝者ですがね、親父もいろいろ患っていたので顔くらい見せておこうと思って計画を立てたんです」
一通りの道を調べてその日は早めに寝たそうだ。しかし翌日に頬の痛みで目が覚めたらしい。
「もうズキズキどころじゃないんですよ、水を飲もうとしたら針でも刺されたように痛みが走るんです。仕方ないから急いで病院に行きました。それで痛み止めをもらおうと思ったんですが、口腔外科に回されてレントゲンを見せられたんです。医師によると親知らずが酷い炎症を起こしているので抜いた方がいいと言われたんです。しかも町の歯医者では扱えないような生え方をしているので少し切ってから抜かないと行けないと言われたんです。否も応もなく同意してさっさと親知らずを抜いたんです……未だにそれが正しかったのかは分かりませんがね」
「何かあったのでしょうか?」
そう訊くと、彼は悲しそうな顔をして答える。
「病院代で帰省に使うお金の大半を使ったんです。おかげで帰省が出来なかったんですよ。次の給料をもらっていけばいいかくらいに思っていたんですが……後で聞いたんですけど、親父も俺に心配をかけないようにあまり深刻に話すなと言っていたそうなんです。実は結構な病気で危ない状態だったそうです。結局、俺は親父の最後に会えなかったんです。ただ、とある事件がありまして、偶然で片付けるのもおかしいんですよね」
「偶然ではないと?」
「何か証拠があるわけではないんですけど、訃報を聞いて呆けながらテレビを見ていたんです。そうしたら列車事故の話題が流れていたんです。実家の方だったので少し調べてみたんですが、俺の帰省予定で使う便だったんですよ。それとそれまで少しも変な様子の無かった親知らずが突然痛み出したことを考えると……ただの希望なんですけど偶然だとは思いたくないんですよ。親父が守ってくれたのかなって、そう思いたいんすよ」
彼は力なく笑い、話を終えた。彼が親知らずを抜いた後の予後は極端に良く、医師もこんなに良くなるのにどうして突然あそこまで炎症を起こしていたのか分からないと言われたそうだ。