夜の散歩
Hさんは夜に散歩をしている。本当なら昼間の方がいいのだが、あいにく会社から帰ってこられる頃にはすっかり日没を過ぎているので、軽い運動も兼ねて夜に散歩をするのが習慣になった。
「今時はどこでも電灯が整備されてますし、家から漏れる明かりもあれば皓々と光るコンビニもあるので散歩事態は怖くないんだよ」
かなり空が暗くなっているとはいえ、夜中に散歩をすることに抵抗はなかったそうだ。しかしある時おかしな体験をしたことがあるそうだ。
あの日もくだらない案件を終わらせた後だったかな……やっと帰れたから軽くその辺を歩いてたんだ。
明るい道だし犯罪の心配も無いだろうと気楽に町をぶらついていたそうだ。
あの時は呑気に歩いてたんだがな、気がついたら神社の境内にいたんだよ。なんでそんなところにいるのかとか、そもそもこの辺に神社なんてあったかとか色々おかしく思えたんだがな、引き寄せられるように参拝したんだな。で、賽銭箱が目の前にあってな、俺もなんであの時あんなことをしたのか分からないんだが財布を出して賽銭箱に一万円札を入れたんだ。
いや、いつもなら絶対そんなことはしない。なんなら賽銭に五百円入れるのだって躊躇うんだぜ? それがどうしてあの時一万も入れたのか分からないんだよ。で、気がついたら病院のベッドで寝てたよ。
私は思わず『話が飛んでいませんか?』と訊ねてしまった。神社の話だったはずなのにいきなり病院に話が飛んだのに面食らったからだ。
「いや、どうも道ばたで倒れてたのを見つけられて救急車を呼ばれたらしいんだ。疲れが祟ったんだと医者は言ってたな、かなり無理のあるスケジュールをこなしてたし無理もないんだが見つかったのが道ばたなんだよな、どう考えても神社から出た記憶がないんだがな」
そして医師から『結構危ない状態でしたよ』と言われ、点滴をして数日間の療養の末帰宅した。彼は帰るなり退職届を書いて退職をしたそうだ。あんな仕事を延々とやっていたら命がいくつあっても足りないと思ったらしい。
「それだけの話なんだが、一つ解決していないことがあってな」
そう言って未だによく分かっていないことを離してくれた。
「病院で持ち物を返されたんだが、その中から一万円札が一枚だけ消えてたんだ。普通誰かががめたなら全部持ってくだろ? 万札は数枚入ってたのに一枚だけ減ってるんだよ。だから俺の命はあの神社の神様が助けてくれたんだと思ってるよ。ま、自分の命が一万かと思うと安い気もするがな、それからは財布に必ず万札を一枚は入れることにしてるんだ。保険みたいなもんだよ」
大笑いをするHさんにかける言葉は思いつかなかったが、とにかく彼は、今では残業がそれほど無い企業に勤めているらしい。




