今はなにも無い
Sさんは小学生の時、旅行に行ったそうだ。向かった先は景色の良い海沿いの旅館で、そこからは日本海の荒波がよく見えた。場所は明かせないが、そこは自殺者がよく出ているところだと後になって知った。
当時、Sさんは県外に出ることはほぼ無かったのではしゃいでいたらしい、彼も記憶に無く、母親からの談である。
「記憶にないんですけど、旅館に着くまでは来るまでワイワイ騒いでいたらしいです」
その頃はまだチャイルドシートも義務化されておらず、当然後部座席のシートベルトも義務化前だったので座席に寝転びながら携帯ゲーム機を遊んでいたそうだ。
「そのゲームなんですけど、敵にゴーストがいるんですが、滅多に出現しないのでパーティにゴースト特攻のキャラは一体も入れていなかったんです、その辺のことは覚えているのですが、滅多に出ないはずのゴーストに三四回連続で当たって、こちらは対策をしていないので削りきられてゲームオーバーになりましたね。それは覚えているのですが、その後グズりだしたそうです、そこは記憶に無いんですよ」
そうして幸先も不安な旅となったわけだが、旅館に着くとSさんはキョロキョロとあちこちを見ていたらしい。親も何故そんなに何も無いところを見るのか気になって『何か無くした?』と聞いたが、答えは無かったとのこと。母の談だがその時旅館の人は少しだけ不快そうな顔をし、急いで部屋に案内されたそうだ。
旅館と言っても畳の間と冷蔵庫のある縁側くらいのよくある旅館で、ビジネスホテルよりは少し豪華だったくらいらしい。
そしてなにより不気味だったというのは、Sさんが海が見える窓の方に張り付いてなにも無い荒波が打ち付けるだけの海に釘付けだったことだそうだ。
母も父も、聞かない方がいいことなのだろうと旅館の人の反応で察したので、夕食まで好きに過ごしていたそうだが、彼は古いゲームの置いてあるゲームコーナーまであるというのに、なにも無い海の方を見るのに集中して他のことに興味を示さなかったそうだ。
夕食が運ばれてきたときには彼も窓から離れて食事を取った。海沿いということで海の幸が豊富な夕食で、両親は満足したのだが、Sさんは食べ終わってまたすぐ海をじっと見つめていた。
見るに見かねた両親が『何か見えるの?』と聞いたところ、『おじさんが落ちた』とだけ言ったそうだ、ただ、本人にはまったくそんな記憶は無いらしい。
窘めようかと思った両親も、実際なにか起きたわけでもないのでそっと見ているままにしていたという。
そうして翌日には旅館から帰ることになった。帰りに何かあそこの部屋であったのか、両親が少し調べたそうだが、なにも情報が無かったので子供特有の妄想で片付けたらしい。
それでいったん話は終わったかに見えたのだが、一週間後、旅館近くの崖から身を投げた男性が出たと地方新聞に載ったそうだ。それ以来、家族旅行には行かなくなったという。