消防士の憂鬱
栄南消防署。本日、新任が配属されてくる事となった。
なった。と言うのは間違いかもしれない。既に人事の通達は来ていたのだから、本日付で赴任してくると言った方が正しいのだろう。
そんな事を考えながら忙しなく新任の受け入れ準備に奔走する後輩たちを横目に、灰色の事務机へ頬杖をつきながらあくびをかみ殺す柊慶介消防士長。短く刈り込んだ頭髪。年齢はもうすぐ三十路であった。
「柊さん。今日来る相川の装備品片付けなくていいんですか」
視界の外から飛んできた声に柊は一瞥を向け、掌をひらひらと振りながら「それは新任にやらせるさ。装備品の確認も兼ねてな」と、細い目を更に細める。
その仕草に、後輩である高峰良平消防士が肩をすくめ「指導はもう始まっているという事ですか」と苦笑いを見せた。それに柊も苦笑を返す。
「俺が指導員なんて、ガラじゃねぇよな」
「仕方ないですよ。署長が決めた事です」
高峰はそう言うと、足早に柊の脇を通り抜け自分のデスクにつく。そして、勤務日誌を取り出すとボールペンを走らせ始めた。
記す文言はここ数カ月同じだ。ただ一文。異常なし。
栄南消防署が管轄する栄市南部は、農村の色が濃い旧来からの町。ハイテクなビルもなく大がかりな工場もない。最近発展してきた北部のベッドタウンになるには少し遠いため、人口も減りつつあった。
人口が少ないのと比例して現場も少なくなる。当然だ。火災はほぼ人災と言えるからだ。つまり栄南消防署は、他に類を見ないほど平和な消防署だったのだ。
そんな消防署に新任が来るなど珍しい。それ故、柊を除く他の職員はまるで祭りの準備をしているかのような慌ただしさだった。その姿に溜め息を漏らし、柊は物想いにふける。
新任には必ず指導期間が用意される。その指導員に抜擢されたのが、つい数日前。署長室に呼ばれ、署長と隊長から任命された。
「今度来る相川昇は優秀な人材だと聞いている。柊君。指導、しっかり頼むぞ」
お偉いさん方の期待の眼差しはどちらに向いているのだろうか。そう考えてしまう自分がなんだか寂しく、責任という言葉に翻弄されてしまいそうで、それ以来柊の心はここに在らずといった状態だった。
「やっぱ、ガラじゃねぇよ……」
「本日付で、栄南署消防士を命ぜられました相川昇です。みなさん、これから御指導御鞭撻のほど、よろしくお願いします」
歳はまだ十九と聞いた。丸々とした坊主頭がなんとも初々しい。消防学校でみっちりしごかれてきたのだろう。日焼けで茶色い肌が輝いて見える。
その隣で署長が小柄な体をゆすりながら、相川の肩をポンと叩く。
「相川君は消防学校を首席で卒業してきた期待のエースだ。みんなしっかり教えてやるように」
それに合わせて、もう一度敬礼する相川。動きの機敏さが小さな動作からでも見て取れた。
「それでは相川君。あそこにいるのが君の指導員。柊消防士長だ。我が署の切り込み隊長と言われる猛者だからな。色々教えてもらうように」
そう言いながら署長が柊を指示する。向けられた指先に沿って相川の輝く瞳が向けられると、つい視線を逸らしてしまいそうになった。眩しいなぁ。と内心、「よろしく」と手を挙げた柊へ「よろしくお願いいます」と再度の敬礼が送られた。
挨拶も早々に、勤務が始まる。しかし、柊と高峰は当直明けであるため、特別勤務といった扱いだ。その勤務の内容はもちろん、指導という名目の赴任手伝い。
一通り署内を案内し、専用ロッカーの鍵を渡す。個人貸与品などはもう既に署の方で管理していたので、世話好きな他の職員が放り込んであった。その確認をした後、装備品と、保管場所を説明するためポンプ車や指揮車・救急車などの実働車両が並ぶ車庫へと移動した。
コンクリート張りの薄暗い車庫。外を見ると降り注ぐ白い日差しが眩しく、柊の目を細くさせる。並ぶ車両は全て“赤”――救急は出動しているようだ。それに彼は瞼を強く閉じると、暗い車庫の方へ視線を移す。彼が見つめたその先――壁際にある木製の棚には各々の面帯やボンベと言った装備品が並んでいた。
それぞれが現場において己が命を守る大切な道具だ。その脱着・使用方法は消防学校でもみっちりと訓練させられる。間違いや故障なんてもってのほかだと、担任教官が叫んでいたのを、ふと思い出した。
「相川、ここがお前の城だ。しっかり環境整理しとけよ」
「了解」
響く返答に柊が視線を逸らす。不意に入り込む“自分の名前”――相川が自ネームの貼られた場所で作業をしている姿を横目に、柊はそこへ手を伸ばす。そして……壁にかかった消防服を手に取った。
黒い厚手の防火服。オレンジ色が映えるラインに南消防と印字されたそれは、傷もなければ、汚れもない。
過去――柊がまだ新任であった頃は、銀色の防火服だった。技術の進歩なのだろうが、憧れた銀色は、既に過去の事になっていた。そして、今の防火服。袖を通したのはいつ以来だろうか。
「佐々岡消防士長。今日“も”訓練は実施しないのですか」
銀色の防火服を片手に柊は車庫で声を上げた。赴任してから一ヶ月――一度も、自分の指導員である佐々岡から指導という指導は受けていない。その不満が爆発したのだった。
「柊、そう熱くなるなって。この町は平和なんだから、操法の訓練をして何になる。逆に考えてみろ、何かあるかもしれない時に、体力使った後じゃまともに動けないだろう」
それは屁理屈だ。柊は更に佐々岡へ喰ってかかる。
「しかし、いざという時にミスがあれば、それこそ……」
「なあ柊。お前は学校でそれを学んできたんだろう。ミスをするのか?」
言葉を遮る先輩の声。それは低く、暗い物だ。しかし、柊には返せない。
「それは……」
違うと言葉が出ない。消防の操法に関して、誰にも負けない自負があった。それ故に、言葉が返せない。“しかし”――心は叫んでいる。佐々岡の言葉は“違う”と。
だが、自分一人では何一つできない身分が、彼の口を噤ませる。
「熱くなるのは良い事だ。俺はそれを否定したりしない。だけど、焦るな柊。現状を見ろよ。形だけの訓練に意味はない」
そう言い切る佐々岡の言葉に、涙が出そうになった。これが現実なのかと、柊は嘆く。
同期から寄せられる初出動の報告。それに焦っているのは確かだった。羨ましく相槌を打ち、その度に寂しく思う。
それを払拭したいが為に訓練に打ち込もうとしたが、それも拒絶された。
どうすればいいかわからない。何をすればいいかわからない。
勤務日誌に“異常なし”と記す度、現場のない栄南消防署を恨み――答えの出ない自問自答を繰り返す度、おざなりな生活へと堕ちていく自分。
何もかもが希望に沿わない結果――それは、新任の彼から輝きを奪うに十分だった。
溜め息が出る。自分の吐いた息――それで柊が現実に戻ると、相川の作業は終了していた。
「柊消防士長。作業終了しました」
直立して報告する相川に、柊は笑顔をつくろい、消防服を元に戻す。そして、「なら、次に行こうか」と踵を返した。
相川に対する署内の説明が全て終わった頃には、正午を回っていた。
「と、これで一応の説明は終わりだ。何か質問はあるかい」
そう言いながら、柊は署内の食堂と呼ばれる小さな部屋でパイプ椅子に腰かける。そして、つい先ほど同室に備え付けられた冷蔵庫から取り出した差し入れの缶コーヒーに、口を付けた。
「今のところ、ありません」
相川が直立したままそう答えるのに柊はひとつ息を吐く。
「そう固くなるなって、俺たちは仲間だ。一応階級があるからそれに準じてやっていかなきゃならねぇ場合もあるが、それは現場だけで、ここは家みたいなもんさ。肩の力を抜けよ新人」
「了解です」
真面目に返って来た言葉に、こめかみを押さえたくなったが、いきなりそれを求めるのは酷かと、「まあ、座ってコーヒーでも飲め」と背もたれを鳴らす。
律義に一礼して腰掛ける相川。だから……と口を突きそうになったが、その内慣れるのだろうと、飲み込む事にした。
バツの悪い沈黙が流れる。姿勢正しく座る相川を横目に、手持ちぶさたな柊の右手が飲み終えたコーヒーの缶を何度も口元へ運ぶ。
何を話せば良いのか――溜め息が鼻から漏れた。
その時……
「柊消防士長」
突然沈黙を破った新任の声に、柊の目が丸くなる。
「な、なんだ」
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「ああ、俺にわかる事なら、何でも聞いてくれ」
好都合だと思った。質問に答える事で会話が生まれるなら、きっかけとして悪くない。真っ直ぐ柊を見つめる若い瞳に映る強張った顔が、解されていく。
「はい。この署では、どういった現場が多いのでしょうか」
真面目だな。と、柊の口元が緩んだ。
「もしかしたら聞いているかもしれないが、この町はな、“平和”なんだ。ドラマや漫画に出てくる住宅火災なんてものはめったに起こらん。農家のおっちゃんが野焼きして、収集がつかなくなったくらいの現場があるくらいだ。言ってしまえば、ここの主役は救急だよ」
柊が指先で缶を弄びながら言った。
「救急ですか」
「そうだ。俺たち火消は、あいつらのサポートに回る事が多いな」
頬笑みが、皮肉交じりの苦笑に変わる。それに相川が愛想笑いを浮かべた。
「しかし、柊消防士長。消防士長は切り込み隊長と聞いています。きっと、凄い経験を積まれているのですよね」
少ない情報から導き出した相川精一杯のフォローだったが、柊の顔から、苦笑も消えた。
「署長が言っていた事か。あれは、お世辞が詰まったふたつ名だろう。俺には武勇伝と言えるカッコイイエピソードなんてこれっぽっちもない……」
語尾を濁すと、缶を握る柊の右手に力がこもった。静かな空間に缶の悲鳴がひとつ鳴る。
「なぁ、相川」
「はい」
「お前は、なんで消防士になった」
「それはもちろん……」
相川の言葉を待たず、柊は内心舌を打つ。俺は何を求めているんだ。
柊も昔は相川の様に瞳を輝かせ、消防士になった。
採用枠の少ないこの町で、消防士になるために必死の努力をした。体力作りから座学まで、必死になって研鑽した。飽き症だった柊が、投げ出さずに続けられたのには理由があったのだ。
それは、消防士への憧れ。命をかけて火を消し、人を助けるヒーローになりたかった。命をかける職業に就く理由など、子供じみた夢だと思われるかもしれない。だが、夢が彼を消防士へ導いた。それは変わらない。しかし、柊の夢は現実によって阻まれる。
いざ、消防士として勤務していても、血わき肉躍る様な現場などありはしなかった。
不謹慎な例えかもしれない。しかし、それを求めていた少年時代。抜け出せない意識の殻。それに囚われる今もまだ、柊の心を荒ませていたのだ。
そんな柊と対照的に、相川の表情が赤らむ。言葉の続きが紡ぎだされた。
「大切なモノを守るためです」
その言葉に柊の眉が少し上がる。
「大切なモノ?」
「はい」
「いったい何だ、お前の大切なモノって」
矢継ぎ早に出た言葉――“好奇心”とは違う。“猜疑心”だった。だが、相川は照れ隠しに笑う。
「大切なモノは、大切なモノです」
はぐらかされた。そう思った。しかし、頬を赤く染め、子供の様に純粋な瞳の輝きを見ていると、柊の心は寂しく……いや、悲しくなってくる。
本音を言えば“可哀そうに思えてくる”なのだろう。だが、現実に打ちひしがれる前の自分を見ている様で、悲しくなってくる。
「そうか……」
眩しい光を目の当たりに、溜め息が零れた。それを覚られない様、天井を仰ぐ。元は白い天井――黄色く煙草の脂で変色した視界が、まるで汚れてしまった柊の心を写している様だ。
相川はまだ夢を見ている。真っ白で温かい夢を。それが現実を前に変化していく姿を、自分は、自分を重ねながら見ていく事になるのだろう。そう、柊は下唇を噛む。
「……頑張れよ」
「はい」
相川最初の当直は、例外にもれず平和だった。仮眠も充分取れ、体調も万全と言ったところだろう。
柊が座るデスク。その隣で、高峰に教わりながら勤務日誌を記す相川を横目に、頬杖を突く。意識をしなくても流れ込む彼らの会話。それに耳を傾けながら、柊はあくびをかみ殺した。
「昨日も平和だったからな。記事欄には『異常なし』って書いとけ」
と、高峰が言う。
「了解」
やがて当たり前の事になる記事。それを相川が丁寧な楷書体で記した。それを満足げに高峰が微笑む。
「まあ、これで仕事は終わりだ。お疲れさん」
「あの、高峰さん。もし現場があった時はどうすればいいんでしょうか」
ペンを相川から受け取り、胸ポケットにしまう高峰に飛んできた質問。それを高峰は笑う。
「それは、現場があった時にでも教えるよ。あった時にな」
彼が言った言葉に柊は鼻を鳴らす。それに気が付いたのか、二人の視線が柊に向いた。
「なんだぁ、聞いてたんですか柊さん」
「ああ、一応俺が指導員だからな。お前の指導に間違いがないか監視してた」
微笑を浮かべた皮肉に、高峰が溜め息をついた。
「監視って……」
「仕方ないだろ、お前は俺以上に問題児なんだからな」
自虐だと思い嘲笑する柊。それに合わせて、高峰が大袈裟に声を大にした。
「酷い。酷いなぁ。そう思うだろ相川。ほら、俺を援護してくれ」
そう言いながら、相川の肩をバシンと叩く。
「わかりました」
そう頷く相川。一拍置いた後、意地悪い笑みを浮かべた柊の名を呼ぶ。
「柊さん」
「ん、何だ」
「高峰さんは、問題“児”じゃありませんよ。だってもう立派な大人です」
「だったら余計に性質が悪いな」
そう言って声を上げ笑う柊。合わせて相川も笑った。しかし、一人置いてけ堀にされた高峰が「どういう意味ですか」と訝しそうな表情を浮かべ視線を二人に泳がせる。それもまた面白いと、柊のボリュームが上がっていく。
現場のない当直には、腐るほどの時間がある。本を読む者、携帯電話を弄る者、トレーニングに励む者――その時間のつぶし方は人それぞれだが、会話に費やす時間として使われる事が基本だろう。
その時間を使って築き上げられる絆。それは正に家族とも呼べる。相川もその輪の中心に少しだけ近づいた。柊の事を“柊消防士長”と呼ばず、“柊さん”と呼ぶ様になっているのがその成果だと、柊は内心満足していた。
「もう、柊さんも相川も、笑ってないで引き継ぎ行きますよ」
意味はわからずとも、バカにされている事だけは理解したのだろう。高峰はそう言い残し、のっしのっしと部屋を出ていった。
その姿にちらりと舌先を見せた相川が「了解」と、小走りで後を追う。
「さてと……」
最後に柊が深く息を吐き出し、重い腰を持ち上げた。
本日の当直員への引き継ぎが終わり、柊たちは仕事から解放された。
「お疲れ様でした」
そう言って高峰が早々にロッカールームへ駆けこんでいく。今日はデートだと、昨日しきりにメールを打っていた。
「おう、お疲れ」
柊はそう片手を上げて送りだすと、自分のデスクにドカリと座った。残業と言う訳ではない。現場が起こらなければ、書類もたまらないのだ。伸ばした体が背もたれをギイと鳴らす。
その時だ。
「柊君、ちょっといいかい」
名前を呼ばれた。その方向に視線を向けると、小隊長が手招きをしている姿が見えた。視線が合うと、小隊長は踵を返しながら手招く。
柊は首を傾げてみるが、小隊長はそれ以上の言葉を口にせず、手招きだけを繰り返した。いったい何だろう。そう目を細めながら腰を上げ、小隊長の後に続いた。
行きついた先は署長室。ここに来るのは一週間ぶりかと、小隊長の後に続き中へと入る。
大きな窓。そこから差し込む日差しを背に、署長が立っていた。その前へ小隊長と並ぶ。
署長が直立する二人に一瞥を向け、視線を柊に留めた。そして、動き出した唇。
「柊君。以前君が希望していたハイパーレスキューの件だ……」
「失礼します」
小隊長を残し、柊は署長室を後にした。廊下を進む足が重い。
本日の当直員がいる部屋――自分のデスクへ戻れる心境ではなかった。
佐々岡の呪縛が脳裏を過る。それを断ち切るために希望し続けてきたレスキュー。それがまた拒絶された。
柊は、食堂へ行くと冷蔵庫から缶コーヒーを取り出す。プルタブに掛けた指が力を入れる度、引っかかりから外れ、カチカチと音を立てた。
もどかしい。
そう思った時、胸ポケットに放り込んであった携帯電話が着信を知らせる。
いとまず缶コーヒーをテーブルの上に置くと、電話を手に取った。相手は、消防学校の同期、南川英也だ。
「もしもし……」
〈ああ、柊。今電話大丈夫か?〉
「ああ、仕事は終わったよ」
〈残念だったな。オレンジ〉
オレンジとは、ハイパーレスキューの通称だ。オレンジの制服――それに身を包み、現場の最前線に立つ。必要があれば市内全域をはじめ県内どこへでも出動がかかる部隊だ。
「なんだ、もう知ってるのか。情報が早いな」
そう、おどける柊。だが、その本心を同期は見抜いていた。
〈あまり気を落とすなよ。まだ来年もある。その先にだってチャンスはあるさ〉
普段よりも優しく聞こえる声に、柊は鼻を鳴らす。
「慰めてくれるのか。お前らしくもない」
〈強がるなよ柊〉
「強がっちゃいないさ」
〈お前はいつもそうなんだ。総代だって今でもお前の事を心配してる。やけにならないかって〉
「川尻さんが?」
〈総代だけじゃない。同期のみんなが心配してる〉
その言葉が本当かどうかわからなかったが、そういった言葉をもらうなんてと情けなくなる。
〈お前が一番現場に憧れてたからな。そんなお前が、平和な南署へ配属と決まった時の荒れっぷりは凄まじかった〉
「やめてくれよ、恥ずかしい。若さゆえの過ちだよ」
〈そうか? 今でも燻ってるんだろ。だからオレンジを希望したんだ。まだ憧れを追いかけてるんだろう〉
すぐに言葉が出なかった。その通りだと。言葉が出せない。代わりに「どうだろうな」と間を繋ぐ。
〈言いたくないか……。お前らしい〉
溜め息が電話の向こうで聞こえた。なぜだかそれが、凄く温かい。いつもそうだ。塞ぎこみそうになった時、傍で励ましてくれたのは彼だった。南川という人間に、何度救われているのだろうかと、柊は瞼を閉じる。
緩んだ心。吐き出した息。
「まあ、来年も希望してみるよ」
〈待ってるからな。必ずオレンジに来いよ〉
「ああ」
同期の激励に、気持が少し軽くなった。足取りはいつもと同じ。これで何とか、デスクへ戻る事が出来る。
通話が切れて電子音が繰り返される携帯に、柊は小さく「ありがとう」と、付け足した。
デスクへ戻ると、相川がいた。どうやら柊を待っていた様だ。その事を察し、柊は声をかける。
「わるかったな。待たせた」
「いえ、そんなことないです」
準備していたのかと思うくらい即答で返って来た言葉に、柊の頬が緩む。
「さあ、返ろうか」
そう言いながら、ロッカールームへ向かおうと爪先を向けた時、相川が申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、柊さん」
「ん、何だ」と振り返る。
「実は自分、明日日勤なんですが、柊さんはお休みですよね」
相川の言葉に柊が「ああ」と声を上げた。そう言えば、昨晩も言っていた気がする。それを思い出し、頭を掻く。
どうするか……
一人で仕事をさせるわけにもいかない。しかし、他の当直班へ託すにももし仮に現場があった場合、指導員である柊が休んでいたら、迷惑がかかる。本当ならば自分が出勤してくれば良いのだろう。だが、明日はどうしても外せない用事があった。「だったら……」と、柊は相川に言う。
「年休使うか? 引越しの後片付けもあるだろう」
しかし、相川は首を横に振った。
「片付けはもう終わりました。それより自分、管内を見て回りたいのですが、よろしいでしょうか?」
その言葉に柊は唸った。最初から、それを考えていたのだろう。これならば誰にも迷惑をかけず仕事ができる。確かにと、思ったが、彼は許可を保留した。
お目付役がいないのだ。内容だけ見れば、確かに一人でできる事だ。町を回る事など、小学生でもできる。だが、何かあった時、傍に誰かがいないと問題だ。そしてその責任は柊にかかって来る。
悩んだ。手っ取り早いのは、年休を命令してしまえばいい。しかし、それは相川の向上心を摘む事になる。
誰か、自分の代わりに見てくれる人物はいないものか……。
そう頭の中に署員名簿を広げ、適任者を探していく。高峰はすぐに消えた。あれは調子に乗り過ぎる。彼に任せるくらいなら、相川一人で行かせた方が安心だ。
そんな流れで、次々と名簿から名前が消えていく。みんな人が悪いわけではない。だた、心配なのだ。南署というぬるま湯につかっている人物たちの言葉で、相川が汚れてしまう。その事が。
ならば、消防士以外ならどうだ。
閃きが走る。
該当者が一名、脳裏に浮かんだ。
「そうか。わかった。明日の事は北林さんについていけ。話はつけておくから、管内の実態把握に行って来い」
北林新之助は、消防士ではなく事務職員だ。最も古株で、面倒見の良い男性。署長ですら頭が上がらないともっぱらの噂だが、署長が若い頃にお世話になったという事実から考えても、それは納得だろう。
「了解です」
「あ、それと、車で行くなら事故には気をつけろよ。世間の目がうるさいからな」
「了解」
「よし、じゃあ、今日はお疲れ。また明後日、よろしく頼むよ」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
立ち上がり礼をする相川に片手を挙げて応えると、柊は頭を掻きながら北林の所へ向かう事にした。
「ああ、いいよ。明日は特段急ぎの仕事もないからね」
湯呑のお茶をすすりながら白髪交じりの北林が柊に言った。
「ありがとうございます」
ふたつ返事で引き受けてくれた事に、柊は胸をなで下ろす。見た目も穏やか、性格も穏やかなその外見とは裏腹に、仕事へ厳しく接している。そんな北林なら、相川にとって良い影響になるはずだ。そんな思案の事だったが、相川に言い切ってしまった体もあり断られたらどうしようかと思っていた。
「いいさ、どうせいつも事務仕事なんだ。久々の外回りは楽しそうだしね」
そう言いながら北林は湯呑を置いた。コトリと、小さな音が聞こえる。
「それにしても、柊君が指導員だとはねぇ。時間がたつのは早いもんだ」
「ええ、俺としては自分の事をまだまだひよっこだと思ってますよ。なんせ、場数が同期の八分の一ですからね」
そう、肩をすくめる柊。その事に北林が声を上げて笑った。
「やけに細かい数字だね。よっぽど気にしてるのかい。現場が少ない事を」
「いえ、そう言う訳では……」と言葉を濁したが、図星を突かれて体温が上昇する。それに北林は頬へ皺を作った。
「消防士ってのはアレだねぇ。難儀な仕事だ」
そう言いながら北林は立ち上がり、ポットで急須にお湯を注ぐ。それを目線で追う柊に背中越しの言葉が飛んでくる。
「他の仕事がどうだか私は知らないけど、長い事消防士を見ていると、そう思えてしまうね」
「確かに、特殊な職業だとは思います。例えば……」
言葉を濁した柊の前に北林が湯呑を置く。そして「例えば?」とお茶を注ぎながら微笑んだ。
「命をかける仕事です」
「確かにね。だけど、私が言っている難儀というのは、結果論じゃないよ。目的に対する過程を言ってるんだ」
含み、笑う北林。湯呑から昇る緑茶の香りが、その意味を理解できない柊の鼻腔をくすぐった。
「はあ」と、生返事しか返せない柊が、「いただきます」と、湯呑を手に取る。
「つまり心の持ちようさ」
そう言いながら北林は、自分の椅子に腰掛け自分の湯呑にも注いだ。
「私はね、消防士じゃない。だけど、一番消防士を見て来た。柊君の様に悩む人間を沢山ね。そういった消防士たちの悩みを聞く度、私は考えるのさ、『どうして、平和な町に消防士はいるのだろうか』って。わかるかい柊君?」
「それはもちろん……」と、口から零れたところで柊の言葉が止まる。
なぜだろう?
浮かんだ疑問。消防士の存在意義。今まではそれを、当然の事だと思っていた。口を突きそうになった言葉。それは、相川のそれそのものだ。“大切なモノを守るため”と言ってしまいそうだったのだ。それを柊は頭を振って、否定する。いや、否定したのではない。自分に向けられた自分からの猜疑心を振り払った。故に、わからなくなる。どうして、消防士がいるのか。
そんな姿の柊に、北林は「なぁ、難儀だろう」と息を吐く。そして更に言葉を紡ぎ出した。
「手段と目的。それが入れ替わりつつあるのさ。だから、わからない」
その言葉に柊の心臓がドキリとする。それを横目に、北林の言葉が続いた。
「君の思う消防士は、矛盾の上に立っているんだ。だから、苦しい。だから、悩む。」
「そうかも、しれません……」と、柊がうな垂れる。目の前に置かれたお茶が、やけに緑に見えた。
「だけどね。その姿が人間らしい。もしかすれば、その姿こそ消防士の真理なのかもしれないね」
ひとまずそこで言葉が終わる。北林は淹れたお茶に手を伸ばし、口を付けた。
その間、柊の思考が混乱する。ふわふわとしていた心が、突然生まれた重力によってしっかりと――いや、ずっしりと、繋ぎとめられ、今まで見ていた明るい景色が、暗く、見通しの利かない物に変わった。
少し屈んで、手を伸ばせば届く地面。そこが真理なのだろう。そっと、しゃがみ手を伸ばす。触れそうになる。だが、戸惑う。変わる事を望んでいるのか、自問自答が始まった。
その時、コトリと音がする。それで我に返った柊。上げた視線の先に、微笑む北林がいた。
「あまり深く考えるなよ。私だって、答えを持ってるわけじゃない。そもそも、完璧な答えなど存在するのか疑問だからね」
「はあ……」と柊が生返事を零すと、北林が笑う。
「まあ、お茶と一緒に飲み込む事も、一つの道かもしれないね」
そう言って、促された湯呑。そこへ再度視線を落とす。波紋はない。少し冷めた湯呑は、温かかった。それを口まで運び、柊は一気に飲み干す。
「苦」
二日後――署長室の窓から外を覗く南消防署長。そこから見えるのは、橙と黒で描かれた“南消防”を背負い、操法の訓練に勤しむ若い消防士たちの姿だった。相川が、ホースを伸ばす。高峰がそれをポンプ車へと繋いだ。テキパキと動く姿を見ているのは、あの柊だ。
厳しい顔で檄を飛ばす。言葉はここまで届かないが、どうやら失敗があった様だ。三人揃っての腕立て伏せが始まる。
それを、満足げに見つめる署長。その隣に、北林がいた。
「変わりましたかね。柊君」
「どうやら、北林さんの訓育が効いたようです。ありがとうございました」と、署長が頬を緩ませる。
それにフフフと笑う北林。
「にしても、藤巻君が目を配るとは、よっぽどの人財と見てますね」
久々に呼ばれる“君”づけ。署長は少しむず痒い。
「人財ですよ、彼は。間違いなく消防士だ」
「そう言って、自分も消防士だと言いたい」
腰を折る様な言い方だったが、それも間違いではないと、署長は笑った。
「同じ臭いがするんですよ。現場に憧れ、それがない事に悩む。本来ならばない事が誉れなはずですが、活躍の場所がないと嘆く。まるで……」
「昔の藤巻君だ」
語尾に北林の声が重なる。
「お恥ずかしい。昔も今も、北林さんにはお世話になりっぱなしだ。まるで南署の大黒柱です」
「いいよ。そんなお世辞は」
「お世辞じゃありません。知っているでしょ北林さん。自分はお世辞を言わないと」
それに北林が声を上げ笑う。そして、言葉を返した。
「ありがたい事だ。嬉しいね。だけど、それももう今年で終わりだ。私が去った後――藤巻君が大黒柱だよ」
「はい」
引き継ぐバトンは、とても重い。それを自覚しているから、署長は柊に相川を任せた。意味は違えど、彼にとって成長する機会になっただろう。先を担う若者たちを憂いて、北林がそうしてきたように、自分もまた、成長しなくてはならない。
そう、唇を噛むと、それを微笑み北林は言う。
「署長になって、答えは見つかったのかい。藤巻君」
「どうでしょうね。見つかったと言えば、見つかった。見つからないと言えば、見つからない」
そう、はぐらかす様に署長は言うが、その満たされた顔の意味は、考えるまでもないだろう。北林が一度頷く。
彼らの視線の先にあるモノ。それが答えだ。
「それにしても、安全を“作る”のは難儀だね」
「ですが、そのために消防士はいるんです」
そう署長が見上げた窓越しの空は晴れ。
その下にある栄南消防署は、本日も平和だった。
了
読了ありがとうございます。藤咲一です。
この物語は、某所において企画された職業企画の要綱にそって記した物語です。
仕事とは何たるか、なんて考えた私。それを消防士を主役に描いてみました。
いったい何が言いたいんだよ! って言われるかもしれません。
先祖がえりの書き方です。ホント必要最小限。
ですから、少し解説を後書きになんて、思ったのですが、それは止めておきます。
え? 本当は山も谷も意味もないんだろう?
う~、山と谷はどうかわかりませんが、意味は一応ありますので……
と、そんな物語ですが、読んでいただいて、何かを感じていただけたり、考えていただけたら、私はとっても幸せです。
それでは、今回はこれくらいの後書きで、失礼いたします。
藤咲一でした。
少し文章を足してみました。それで、消防士が前面にとはなりませんでしたが、まあ、ちょっとだけ色が足されていればなぁと思います。
また、アドバイスや誤字のご報告など、ありがとうございました。
私の力では、これくらいです。
次回作で、活かせるように頑張ります。
10/03/15
藤咲一