08:大穴の底
木々の間から覗く陽の傾きを確認して、現在地と脳内の地図のズレを修正する。
フェリスと別れてからおそらく十五分程度しか経っていないが、ここまでの捜索で魔獣の群れと鉢合わせすることはなかった。
地面に残る真新しい形跡を辿りながら、慎重に、ただの獣の足跡と魔獣の違いを見極める。
「……そろそろか?」
くまなく視線を向けていると、不意に、狼の魔獣の足跡が集中している場所を発見した。
逆行して追っている者からすれば、複数の足跡が合流しているようにも見えたそこは、緩やかな坂上がりの途中にあった。
まるで、その向こう側から溢れ出した魔獣が、坂の途中でそれぞれの間合いに散らばったかのような。
「…………」
オレは足音を立てないために姿勢を低くして、ゆっくりと坂を登る。
高低差はそこまでない。森の中の地形で考えれば珍しくもない傾斜だが……見上げた際に、坂の向こう側に木の幹や枝葉の影が一つも見当たらない点が不自然だった。
耳を澄ませば……ほんのわずかに、何者かの動く気配がある。
魔獣か、はたまた、人間か。
オレはいつでも魔術を唱えられるように両手は使わずに登って、やがて緩やかな坂の頂点に辿り着いた。
そして、開かれた視界の中央に――予想していた光景とは少し違ったものを見る。
(あれは……〈真理の器〉と、……誰だ?)
坂を上がった先にあったのは、自然にできたものとは思えない地面を抉るような地形、広場ほどの規模の円状に穿たれた大穴だった。
その中心には、なぜか……オレでも視認できている、記憶のそれと相違ない〈真理の器〉と、その近くを見るからに怪しい人影があった。
背の高い男だ。異様につばの広い帽子と赤い外套を身に纏い、衣装にはなぜかいくつもの鮮やかな服飾が施されていた。その上から、これまた奇妙なほどの長い鎖が腰帯のように巻き付けられている。大雑把に身なりだけで判断するならば、貴族御用たちの大道芸人……といったところだろうか。
(なんだ、この珍妙な男は……こいつが信奉者? そんなことがあり得るのか)
不可解なのは男だけではない。
元来であれば、装置の迷彩魔術によって目視することなどできない〈真理の器〉が、大穴の中央、そのおぞましい外形を露出しながら稼動していることが確認できたのだ。
そして、装置の周辺には魔獣が這い出てきたであろう粘液の痕跡があちらこちらと糸を引いていた。
いや……本当に這い出てきただけなのだろうか?
「…………」
大穴には件の魔術装置と、謎の男だけ。それ以外は何も見当たらなかった。
とりあえず、仕掛けるなら手早く済ませた方が良さそうだ。いつ装置から面倒な魔獣が生み出されるか、分かったものではない。
オレは穴の上の縁に膝を付けてしゃがみ、ここからやや距離のある大道芸人風の男に向けて狙いを定める。
唱える魔術は無論、
「――〈遅延〉」
短句に続く一瞬の青白の発光とともに、魔術は確かな精度を持って対象の時間を狂わせる――はずだった。
男の身体が魔術による影響でほんのわずかに光を帯びたのも束の間、…………普段となんら変わりのない速度で、男は振り返った。
(――おい、まさか)
男は遅延魔術を身に受けながら、まるで効いていない様子でこちらと視線を合わせると、引き結んでいた口元を歪に綻ばせた。
見つけた、そう言わんばかりに。
「クソ、面倒な奴だな」
いつもならば、一度のみ遅延魔術を唱えてしまえば戦闘はそこで終了していた。
戦術もなく、間合いの読みもない、単純にして超越した能力による勝敗の決定。
しかし、目の前に佇む男はそこで終わることなく――腰に巻き付けていた鉄鎖を瞬時に解いて、円を描く豪快な加速とともに、あたかも鞭を振るうかの如く――大穴の外周に立つオレに目掛けてそれを振り払った。
「――〈遅延の泡〉!」
刹那、オレの横頬を抉る速度で飛んできた鉄鎖の先端を、掠めるすんでのところで魔術が急停止させる。
詠唱に従い、周囲に浮かばせたいくつもの透明な球体の膜が、鉄鎖の攻撃を包み込むようにして防いだのだ。
詠唱者にしか見えない幻想の泡が、接触した物体の運動を限りなく停滞に近い速度に変化させる――この魔術もまた、〈遅延の沼〉と同じくオレが考えた遅延魔術の応用だ。
空中で武器を捕捉された男は、されど、動揺した様子も見せずに懐から何かを取り出そうとしていた。
その行動を見届けるよりも先に、再び遅延魔術を男に向けて放つ。
「〈遅延〉――――チッ、またか」
魔術で相手の攻撃を防いだのがこちらならば、相手もまた、何らかの手段でこちらの魔術を防いでいた。
その仕組みと手段には、一応の覚えがある。
(……確かに魔術を無効化したな。ということは、やはり……こいつも“信奉者”か)
錬金術の国エンピレオの魔術遺産は、何も〈真理の器〉だけではない。
かつて、数ある闇市で流通していたという遺物――身に付けた者は魔術による攻撃を一定量だけ防ぐことができる〈魔術逸らし〉の護符。符といっても、その見た目は小さな石が填め込まれた装身具に過ぎない。
それ単体で見れば魔術師に対する戦闘に特化した優秀な道具なのだが――後に判明した製造方法こそが、〈真理の器〉と並び忌むべき代物だと決定付けた。
要約すれば、それは生きた人間の肉体を丸ごと七つも代償とする……あまりに醜悪な工程で作り出された麗石による力だったのだ。
魔女アリギエイヌスに対する憎悪が最高潮だった当事、〈魔術逸らし〉の禁忌を表明するリディヴィーヌに賛同した諸侯や豪商の連中が、交易所や貧民窟の隅々を調べ上げてそれを回収したと聞く。
鋼花の国に留まらず、その話は大陸の各国にまで及び、現在に至っては入手することなど叶わない第一級の禁制品となった。
ゆえに、それをこうして扱うことができる者は――
(最初から〈魔術逸らし〉を所有している連中――遺産荒らしの張本人どもしかいない)
魔女の意思を継ぐ信奉者の残党。オレの予感はうんざりするくらいに的中していたようだ。
伏せていた体勢から起き上がって、男から視線を外さずに大穴へと身を投じる。
大道芸人風の男は未だ懐から何かを取り出そうと四苦八苦している様子で、片手に掴んだものを、あれでもないこれでもないと、ゴソゴソとっかえひっかえしていた。あまり頭は良くないらしい。
相手が舐め腐った真似をしている隙に、オレは大穴の地面に着地して、すぐさま男に向かって走り出す。
遅延魔術はまだ唱えない。唱えたところで無効化されるからだ。
(――オレが再設計した〈遅延〉では、限りなく無に等しい魔力消費量のせいで〈魔術逸らし〉を打ち破ることができない。ここにきて、相性が悪すぎる)
ある理由から、オレが緊急時以外に使用する全ての魔術を遅延魔術に統制したのは、それ自体を設計したのがオレであり、且つ、オレ自身を証明する“魔符”を組み込んだ特別製の魔術だからだ。
己の肉体に馴染ませるように調整し、消耗を極限まで抑え込んで実用化されたそれは、しかし、〈魔術逸らし〉の防御を一点突破できる強みにはなり得なかった。
効果ではなく、あくまで魔力の大小が重要ということ……ならば。
「……!」
間合いがもうすぐ近距離に届く寸前、男の芝居がかった声が周囲に響き渡る。
振り向いた男の片手には、謎の小瓶が二本、握られていた。
「お待たせしました、お客様。私エルネスタによる今日の演目は大型魔獣の猟犬と――人間捕食の体験会です!!」
エルネスタと名乗る男は高らかにそう宣言すると、手の内にあった小瓶二つをあっさりと投げ捨てた。
それは男の後方、大穴の中心地点――〈真理の器〉の窪みの中へと綺麗に落ちていく。
続けて、ちゃぽんちゃぽん、と粘液を弾く間抜けた音が聞こえてきた。
「――――」
オレは詰め掛けた間合いを少しだけ離して、男の一挙一動に警戒を持つ。
もしも、まだ隠している新たな魔術遺産の一部があるならば、オレはそれに対処する方法をこの一瞬で思考しなければならない。
どうにもならない場合は、いっそ、こちらも魔術の制限を解除して――
「…………」
「…………」
「…………」
「…………なあ、もういいか? どうやらお前のいう猟犬とやらは、お前と演目を興じたくないようだが」
大穴の底を数秒の沈黙が流れるも、オレは耐えかねてそう問いかけた。
すると、
「悪いな、俺の相棒は“思念”になっても引っ込み思案みたいだ」
「……思念、だと?」
男は帽子のつばを持ち上げて、にやりと嗤いを零す。
「さて、喰われる準備は済ませたかな。――来い、ハティ!!」
吼えると同時、男が帽子をこちらに向けて投げる。
目眩ましのつもりか、とほんのわずかな注意が帽子に移りそうになった視界が、その奥で跳躍する黒い塊を捉えた。
次の瞬間、男が小瓶を投げ入れた〈真理の器〉の窪みから、突き出すような軌道で――巨大な狼の顎が現れて、迅速の勢いでオレへと飛び掛かってきた。
男の宣言通りだった。オレの背丈を越える大型の魔獣――漆黒に染め上がった巨狼の、鋭く白い歯牙が獲物を食い殺さんと開かれる。地を蹴り駆け出す、その猛然たる速さに、しかし、オレは魔術を唱えることで迎え撃つ。
「――〈遅延〉!」
詠唱に伴い、あと数歩の距離まで近付いていた巨狼の口が、そこで勢いを失った。
〈魔術逸らし〉を持たない魔獣は当然、遅延魔術の標的となり、時間の法則から逃れることができずに緩慢な速度に落ちていった。
残るは男一人――そう考えたオレの眼前に、思いもよらぬ影が飛び出す。
「……!!」
虚をつく形で現れたのは、さっきの巨狼よりも一回り小さな狼の魔獣。
すぐ後ろから間髪容れずに飛び出てきたことから察するに、巨狼の肢体に隠れるようにして連係していたのだろうか。
「――――」
気付いた時にはもう、目と鼻の先に狼の牙があった。魔術の詠唱は、この距離では間に合いそうにない。
「……っ!」
オレは咄嗟に身を捻って地面を横転し、腹を食い破ろうとひた走る狼の噛砕をギリギリのところでかわす。
そして、互いの勢いによって生じたわずかな間合いを利用して起き上がると、すぐさま詠唱を開始した。
だが、
「馬鹿の一つ覚えか、リディヴィーヌの下人風情が!!」
背後から、男の怒りに満ちた咆哮が響く。その叫びとともに、突然、オレの身体を何かがぐるぐると巻き付き、驚くべき速さで拘束した。
振り向けば、男の片手にはさっきの鉄鎖とは別の――もう一筋の鎖が握られていて、どんな力が働けばそうなるのか、オレの両腕と胴体を強固に縛り付けていた。
「おいおい……」
「さあ、ご馳走の時間だ、スコル! 愚かな魔術師の頭を噛み潰せ!!」
男の獰猛な叫びはそのまま獣の唸りとなって、再び、オレを喰い殺そうと狼の魔獣が直進する。
事ここに至っては、もはや、どう足掻いても避けることなど不可能な距離だった。
オレの〈遅延〉が指向性を与えなければ機能しない魔術であることを見抜かれていたのか、それとも、単に逃げ場をなくそうとしただけなのか。
どちらにせよ、オレは〈遅延〉で狼の魔獣を止めるという手段を奪われた。
ならば――
「――――〈遅延の檻〉!」
……ならば、初めから唱えるつもりであった、開発途中の上位魔術――オレの周囲一定空間に存在する全ての物質、生物の時間を操作することができる、その遅延魔術で対応する他ない。
喚起された青白い光の方陣がオレの立つ地面に投影されて、魔獣の反射能力を凌駕する速度でこれを拡大、詠唱者の周囲一定空間の地形、湿度、温度、その他諸々を計測する。
次には、巨大な四角形を形作るように方陣が上昇し――尾を引く青白の光が空間を包み込んだ。
一瞬のことだ。
大穴の底の、ありとあらゆるもの。男も、狼も、泥も石も、魔術装置すら、動きを止めたかのように――微動の変化を続けるだけの存在と成り果てた。
狼は一層大きく口を開き、男はオレを睨み据えた表情を保ちながら、眼前の人間の死を確信するその一時を引き伸ばされていた。
ほんの十分の一秒にも満たない速さによって、この場にはオレ以外、自由に動ける者などいなくなった。
そんな空間の中で、男の胸の辺りから、パリンッ! という鋭い音が鳴った。魔術による攻撃を一定量だけ防ぐことができる遺物、〈魔術逸らし〉の護符が予想外の魔力量に耐え切れずに暴発した破裂音だろう。男の慢心のもとであった身を守る術は呆気なくも、装備者を時間の檻に引き渡すこととなった。
「はは、悪いな、馬鹿の一つ覚えで」
刹那を切り刻みながら、ゆっくりと時が流れていく遅延空間の中、オレは身体に巻き付けられていた鉄鎖をやや強引に解く。
予め、遅延の対象から外しておいたおかげで、難なく拘束を解除することができた。もし、これも一緒に遅延魔術に巻き込んでしまっていたら、オレはただ自分が食い殺される未来を先延ばしにしただけの本当の馬鹿ということになる。
「さて……」
自由となった両手の状況を確かめながら、オレは男の方へと歩み寄る。
虚空に向かって睨みを利かせ続けるその顔を通り越して、男の腰に取り付けられていた短剣を二本、引き抜いた。
「借りるぞ」
大穴の上からでは赤い外套の下に隠されていて見えなかったが、男の腰には短剣以外に、いくつもの用途不明な小物が取り付けられていた。それらを見ると、どうにも大道芸人というよりは調教師の類だったのかもしれない。
とにもかくにも、オレはさっさとこの状況を終わらせるために、大中二頭の狼の前まで近付いて、微かに前進するその頭部の鼻先すぐ前に短剣を設置した。この空間内であれば、逐次、遅延魔術を唱えずとも空中に物体を擬似固定することはできる。法則に複雑な矛盾を起こさない限りは、一定の質量を持つあらゆる物体や生物を無干渉状態にすることが可能なのがオレの遅延魔術の強みであり、弱みでもあった。
(やはり、こう面倒な手順を踏まないと魔獣一匹倒すこともできないというのは厄介だな)
狼二頭それぞれの正面に短剣が固定された光景を見ながら、そんなことを考える。
遅延魔術を身に受けた対象は、外部からの攻撃をほぼ無効化する――つまりは、オレがこの空間内で一方的に相手を甚振ることはできないという話だ。あくまでも、そういう状況を用意することができるというだけで。
そんな遅延魔術の性質もやりようによっては、世界でもっとも硬質な物体が作れるし、ただの紙切れを刃物のように変化させることができるが……まあ、オレの負担を増やすだけなのでさほど興味がない。
「…………ああ、そういや、お前もどうにかしないと、か」
狼の魔獣を倒して、信奉者の男とは仲直りしてはい解散、いうわけにはいかない。このまま放置して空間を解除してしまえば、自由となった男がまた面倒なことをしでかすに決まっている。
というわけで、オレを拘束するのに使っていた鉄鎖を、今度は男の身体にやや緩めにして巻き付けておく。遅延魔術を解いた瞬間、いつでも両腕と胴体を拘束できるように、何重と念入りに。
はたから見れば、さぞ愉快な景色だろう。オレが画家なら筆も止まらぬ惨状だった。……そんな空間も、今、終わりを迎える。
「――――解除」
パチン、という小気味よい音とともに、大穴の底を堰き止められていた時間がどおっと押し寄せて――再び、元の速度に戻った。
指を鳴らす動作を引き金にして、遅延魔術が解除されたのだ。
瞬間、狼二頭の獰猛な走りを遮るものはなくなり――二頭は一直線に短剣の切っ先へと顔面を突っ込ませる。
中型の狼の魔獣は固定された短剣を軸に勢い余ってその場でくるりと回転し、巨狼の方はそのまま脳天を貫通した後、体勢を維持できず、崩れ落ちるように大きな音を立てながら地面を滑り転げていった。
どちらも、頭部から噴き出す鮮血の有り様を見るに即死だろう。
一弾指とは誰が言ったか、まさしくすぐさま激変した状況に、今度は男が呻きを上げた。
「なっ――……うがっ!?」
遅延魔術を解除すると同時に、オレは男に巻き付けていた鉄鎖を豪快に引き締めて、その結びを更に強固なものにした。
続けて背中を蹴り飛ばし、男を地面に横たえさせると、泥と驚きに塗れたその顔の上を容赦なく踏み付ける。
「ぐっ……」
「さてさて、立場が逆転したな。疑う余地もなく勝ったと思い込んでいたのにひっくり返ってびっくりのところ申し訳ないが……お前の目的を教えてもらおうか」
「…………」
「おーい、聞こえてるか?」
黙り込まれては話が進まないので踵に体重を掛けると、男の口から苦悶の声が漏れ出す。
そんなことをしたせいで更に頭がおかしくなったのか、男は唐突に肩を揺らして笑い始めた。
「……フ、フフ、ヒヒヒッ」
「おい変な声を出すなよ、悪寒と怖気と虫唾が走るだろ。……おっと言い過ぎたな、すまん」
「…………人の頭の上に、足を乗せるのはいけないことだと……子供の頃に教わらなかったか? ……ベルトラン」
「はは、大した偶然だな。オレも今日、そんな台詞を吐いた覚えがある。ところで……なぜオレの名前を知っている?」
「…………最低最悪の魔術師。遅延魔術を扱う、リディヴィーヌの二番弟子――ベルトラン・ハスク」
「……はあ」
思わず、額に手をやる。
確かに、オレは各方面で噂が立つ程度に問題を起こした自覚はあるが、冒険者以外の、かつ何の接点もない人間に覚えられるほどの悪名は持ち合わせていないつもりだった。それが、こんなクズに名前を知られているとは。
「確認してやるが、お前は信奉者で間違いないな? 今や残党もほとんど姿を消したと聞いたんだが……」
「…………」
「ああ、答えなくていい。どうせお前は口を割らないし、オレも道化を拷問するほど暇じゃない」
指を鳴らして、空中で遅延状態にあった短剣二本の魔術を解除する。
辺りに漂う血生臭い空気に顔をしかめながら、オレは地面へと落下した短剣の持ち手をひょいと摘む。
「……使おうと思ったが、汚いからやめておくか」
適当にそこらに放り投げて、オレはもう一度、男の頭に足を乗せた。
「さて、時間切れだ。何も聞き出せそうにないし、無様なお前をここで一思いに殺してやっても良かったが、そうすると騎士団の連中に恨まれそうだからな。今回は見逃してやろう。……城の地下牢で、拷問官から愛ある鞭の使い方を教えてもらってこい、身をもってな」
オレは男に言い放って、魔術の詠唱を開始する。
すると、
「――――〈祈りし者〉」
「……ん?」
遅延魔術を唱える寸前で、男がぼそりと聞き慣れない言葉を呟いた。
その意味を問う前に、続けざまに男が話し出す。
「この世界はどこまでも歪んでいる……そう思うだろ、ベルトラン。平穏の時代、秩序の到来、……フ、フフ、馬鹿馬鹿しい。魔女アリギエイヌスを殺したとて、そんなものはどこにもない。お前なら分かるはずだ」
「ご機嫌な舌だな。間違って噛み切るなよ」
「リディヴィーヌによろしく言っておいてくれ……俺たちから贈り物だ、と。再び、世界を変える最初の一手だ、と」
「…………何のことだ?」
男の発言の意味が分からず、オレは踵に掛けていた体重を更に前へと傾ける。
みしり、と小さく鈍い異音が聞こえた気がするが、まあ、大丈夫だろう。
苦痛に強く顔を歪ませる男は、しかし、それ以上を語る気配はなく、ただ呻きを漏らすのみだった。
(ここにきて、でまかせの狂言か? ……まあどちらにせよ、こいつは一旦、騎士団に引き渡すとするか)
『信奉者の扱いは全権、その土地の統治者に委ねるべきだ』と言った我が師リディヴィーヌの規律に逆らうつもりはない。その結果の多くが、公平な審判を望むリディヴィーヌの心情を打ちひしぐ形で終わるために、あまり意味はないとオレは考えているが。
世俗の不安を煽る者、脅威をもたらして被害を生む者、魔女の思想を広めようとする者――いずれかに必ず当てはまる信奉者という存在に対して、公平もクソもないというのが大陸における一般常識だ。
だから、こいつもきっと相応の仕打ちを受けることになるだろう。
オレは早々に男と〈真理の器〉に遅延魔術を放った後、大穴の上まで登り切って、空を仰いだ。
「……さっさとあいつらのところに向かうか」
空の色合いから、もうすぐ夕暮れになりそうな気配を感じながら、オレは頭の地図を頼りに村へと向かった。




