14:錬金術の王
【メリザンシヤ視点】
【一方、時を少し遡り――】
「――ベルトラン様!」
地面を抜け落ちていくベルトランを見て、シルヴィ様が叫ぶ。
眼前に立ち並ぶ壁が足止めと遮断の役目を果たしたことによって、敵の思惑通り、私たちとベルトランが二手に分断されてしまった。
空間魔術を唱えようにも、〈破邪の護符〉を装着しているベルトランには意味を成さない。合流するならば、もはや追う以外にはどうすることもできない。
私は周囲を警戒しつつ、シルヴィ様を抱き寄せながら空間に向けて声を上げた。
「この魔術……リームス・ダルモンだな」
「――ご名答。数日ぶりだね、ルグリオの娘よ」
低い声が頭上を反響する。
それと同時、目の前にあった幾重の壁が泥状になって地面に溶けていく。即座に奥へ視線を向けるが、ついさっきベルトランが落下した地面はすでに石畳で塞がれていた。
あまりに易々と地形を操作する敵の魔術を前にして、シルヴィ様の身の安全を優先し、『撤退』が脳裏を過ぎる。
だが、
「すまないが、遺跡内部の構造を変えさせてもらった。君が地上に戻るというならば止めはしない。だが、果たして……そこの王女殿下はたどり着けるかな?」
「――貴様」
こいつは、シルヴィ様が〈破邪の護符〉を身に付けていることを理解して、私たちが立ち去れない状況を作っている。
従者として、主を捨て置くなどという選択肢は存在しない。考えることも愚かしい、唾棄すべき判断だ。
この男の狙いは私の命か、それとも――
「メ、メリィ……」
「ご安心ください、シルヴィ様」
震えるシルヴィ様の手を強く握り締めて、空間魔術による透視で上階の様子を探る。
結果は……男の言うとおり、数刻前とは打って変わって、遺跡内部が複雑な迷路状に変化していることが分かった。
たとえ、この場を引き返したところで、相手はシルヴィ様の体力が尽きるまで延々と地形を操作してくることだろう。それは、地下の奥に設置された〈霊杯〉のある場所へ向かうとしても同じ話だ。
どちらにしても、こちらが不利な状況であることは変わらない。
ならば……取るべき選択は一つ。
「――先を進みましょう」
待ち受けているであろうリームス・ダルモンを、この手で討つ。
シルヴィ様の手を引いて、目的地に続いているはずの奥の通路へと歩き出す。
「ベルトラン様は……」
「あの者ならば心配無用です。どれほどの傷を負ってもなぜか生き延びる、不死身のような生き汚さだけが取り柄の男ですから」
私たちの行動をどこかから監視している男が、遠隔越しにぱちぱちと手を叩いた。
「覚悟を決めたようだね。では〈霊杯〉のある最下層でまた会おう。それと道中、少しばかりのもてなしを用意した。是非とも愉しんでいってくれたまえ」
その言葉を最後に、空間に漂っていた男の気配が消え失せる。
静かになった区画を横切って、シルヴィ様を先導しながら通路へと進む。
周囲を空間魔術で探査しつつ、元の作戦通り、〈霊杯〉のある場所まで歩いて向かうことにした。
通路を辿っていくと、前方に巨大な魔獣の反応がいくつも確認できた。
おそらく、リームスが用意していった“もてなし”のそれだろう。
壁越しに捉えた魔獣の位置を把握し、遭遇より先んじて空間魔術を唱える。
「〈転送〉――、…………」
……が、発動した魔術に手応えはなかった。
その感覚から読み取るに、前方に潜む魔獣の体内に〈魔術逸らし〉が埋め込まれており、私の〈転送〉が無効化された……そんなところだろうか。
「…………」
背後から強く、シルヴィ様の両手が私の手を握り締める。
その震えと強張りから不安の大きさが直に伝わってくる。こんな状況では、私がどれほど口で『安全』などと吐いたところで、彼女が耐え忍ぶ恐怖を振り払うことなど不可能だ。
であれば、行動で示す他ない。
(私はシルヴィ様の従者だ。彼女を怯えさせるもの、彼女を苦しめるもの――その全てを排除するために、傍に仕えると誓った)
心優しく、繊細で、誰よりも傷付きやすい彼女を護るのだと……そう心に決めた。
「ここで少しお待ちください」
「え……?」
驚きに声を漏らすシルヴィ様を置いて、五歩ほど通路を進む。
前方に塞がる壁の向こう側、透視で確認した先に、通路を占めるほどの巨大な魔獣が何体も各所で待ち構えていた。
魔獣に下手な魔術は通用しない。となれば魔力の温存は二の次だ。
やるならば、いつも通りの全力で。
「――――」
数秒、眼前の壁を睨み据える。
左右に分かれた通路、本来ならばそこを経由して、いくつも分岐する道を正確に辿り、地下へと下る階段へ進まなければならない。
が――そんな紆余曲折をこれ以上、シルヴィ様に歩ませるわけにはいかない。
私は一息に唱えた。
「〈消え失せよ〉」
眼前を塞ぐ石壁の奥の、そのまた奥――〈霊杯〉がある場所に続く最短経路を作る。
絶え間なき道を形象し、そう在るべきとして――万象を捻じ曲げる。
青白い光が瞬いた、その刹那。
目の前の石壁が、左右に分かれる――いや、中央の一線から左右に“消失”していった。
石壁だけではない、その先に待ち構えていた魔獣も、通路を区切る壁や岩塊の尽くが、まるで見えざる手に押し開かれるかのごとく――左右へ解かれていく。
質量の感覚も、重力の抵抗も無視して、空間を支配していた理を一時的に書き換えるように。
破壊するのではなく、ただ“そこに在る”という事実そのものを、中心から左右に向かって削り取り……世界から消失させたのだ。
「……あ」
残ったのは、ただ一本の道のみ。
空間魔術――その上位に当たる術式を以って、〈霊杯〉までの近道を作り出す。
発動までに数秒の所要時間が発生するために、戦闘では使い物にならないが……
「行きましょう、シルヴィ様」
背後で立ち尽くすシルヴィ様に声を掛けながら、改めて前方を見やる。
周囲の壁が修復する様子はない。少し前に短縮のために開いた壁は一瞬にして修復されたが……状況が違うのだろうか。
何にせよ、この一本道であれば、修復される前に押し広げることは容易だ。
再び、シルヴィ様の手を取って歩みを進める。
「……メリィ」
「はい」
弱々しい声がそっと私の背中を撫でた。
「……無茶、しないでね」
「はい、無論です」
他に適切な返答があったかもしれないが、私にはこう答える他に言葉を持たなかった。
私は母のように、誰かを救う言葉を女神から預かることなどできないのだから。
長い通路を抜けて、大きな石段を降りた先――遺跡の中で一際広い空間がそこにあった。
石造りできた巨大な箱型のような、無骨なまでの広さ――その中央に、青白く輝く何かが鎮座していた。
薄暗い空間を煌々と照らすそれは円筒状の装置で、上半分が半透明な液体を満たす容器として、下半分が装置を操作するための端末として形作られているようだった。
おそらく、これが……〈霊杯〉だろう。
「…………」
見上げるほどの高さがある装置を目視して、周囲を警戒しつつ、シルヴィ様の手を引いて中央へと進む。
最下層にあの男――リームス・ダルモンの姿はなかった。
拍子抜けと言ってもいいほどにすんなりと辿り着けた目的地で、目的の装置を前にして、私は懐からとある物を取り出した。
「――――」
長方形に加工された鉱石らしい物体。
銀色にぬらりと反射するそれ――〈銀の欠片〉を取り出して、装置の下に設えられた端末にはめ込む。
ガチリ、と音が鳴るとともに、装置から低い音が響く。
同時、装置を起点として地脈のような紋様が地面に浮かび上がり、空間全体を青白い光で包み込んだ。
……起動した、と判断すればいいのだろうか。
(ここまではダヴィッドの言っていた手順通り、か)
――〈銀の欠片〉が〈霊杯〉の起動に必要と聞かされたときは正直、あの男の謀反を疑ったが……
陛下より許可を頂き、直々に〈銀の欠片〉を預かった以上、どれだけの危険性を伴おうと作戦を続行するしかない。
リームス・ダルモンの目的が“コレ”だとしても、明け渡すつもりはない。
「…………」
やがて、装置は〈銀の欠片〉と接続したことで魔力を取り込んだのか、明滅しながら重低音を響かせて、端末が独りでに動き始める。
「……!」
ガチャ、ガチャ、と金属音を鳴らして、開いては閉じてを繰り返しつつ、下部の端末が別の形に組み替わっていく。
一見してどういう仕組みなのか、全くもって分からないが……それが再構築の過程だということだけはかろうじて理解できた。
そうして、たった数秒間の時を経て――端末は見慣れない造形の“寝台”へと変化を遂げた。
「これは……」
背後でシルヴィ様が息を呑む。
それを正確に例えるならば“寝椅子”だろうか。背もたれのような緩やかな曲線と、肘掛とも取れる突起が突き出す、全てが金属で構築された異質な寝椅子だ。
〈霊杯〉の元来の利用目的を考えるならば、ここに治療したい人間を座らせる、というのが正解か。
「シルヴィ様、こちらに」
「う……うん」
私の手に従って、恐る恐るといった様子で寝椅子に身体を預けるシルヴィ様。
足を伸ばし、ゆっくりと背中を乗せていくと、次には――装置が対象を認識したのか、再びの重低音とともに紋様が明滅を始めた。
「メ、メリィ……」
シルヴィ様が不安そうに私の手を握る。
その手を強く握り返して、
「ご安心ください。治療が完了する最後まで、私が全力を以って貴女をお護りします」
私の言葉を聞いたシルヴィ様の口元が、小さく微笑む。
やがて、装置による作用なのか、彼女の瞳が重たげに瞬きを繰り返す。
「……メリィ……」
何度目かの瞬きの後、閉じられた瞼が持ち上がることはなく。
「……ありが……と……」
「…………はい」
そんな呟きを残して、シルヴィ様は……抗えない眠りに落ちたようだった。
ふと、装置から高音が鳴り響く。対象の睡眠を確認したのか、装置が次の段階へ進むようにして、またも変形を開始した。
眠るシルヴィ様の手足と胸を覆う、半円形の金属板らしき帯。その部品が煌々と発光し、青白い輝きが寝椅子ごと照らし出す。
「…………」
魔術装置でありながら、その治癒は魔術ではないのか――〈破邪の護符〉を身に付けたシルヴィ様の身体が装置と同じ青白い光を帯びる。
外からは変化を感じないが、内部では……治療が進行しているのだろうか。原理不明の治術を前に、私はただ立ち尽くすのみだった。
……――いや、
「――〈圧縮〉」
膨れ上がる地面一帯に向けて、空間魔術を唱えた。
瞬間的に形成される人型――“土人形”の群れが、刹那、上から圧し潰されるようにして、泥へと還った。
「…………」
カツン、カツンと聞こえてきた杖の音に視線を向ける。
見えたのは〈霊杯〉の奥、私たちが降りてきた方と反対側の空間から、こちらに向かってくる一人の男の姿があった。
赤い外套の後ろに片手を添えて、紳士然とした几帳面な佇まいだった。
「――知っているかね。かつて、小国の賢王と呼ばれていたギリウスも不治の病に苦しんでいた」
ギリウス――それは錬金術の国エンピレオの元国王の名だ。
幼子に寓話を教えるような口調で、男が唐突に語り始める。
「〈縮壊〉!」
その瞬間も、次々と湧き出る“土人形”を空間魔術で排除しながら、即座に男へと照準を合わせた。
〈霊杯〉の周囲をぐるりと大回りするような足取りで、杖を鳴らしながら歩く男に魔術を発動する。
距離も障害も全てを越えて、こいつを討つ。
「〈大隔絶〉――」
唱えると同時、私の立つ地面を起点に――空間が連鎖的に分解されていく。
リームスの立つ空間までを一直線に、地面も“土人形”も引き裂かれて、散り散りとなり、消失していく。
瞬きよりも速い魔術の光が、男を包み込もうとする――瞬間、
「〈魔術逸らしの壁〉」
地面からせり上がった壁が、空間魔術の方向を逸らした。
「……ッ!」
男が立つ地面だけを残して、両脇にある壁と石畳が砕けて、舞い上がり、霧散する。
ガラスの割れる音だけが、せり上がった壁から連続して鳴り響いた。
「ふむ、手持ちが尽きてしまったか。では――昔話を続けるとしよう」
さも何事もなかったかのように、男は悠々と歩き出して――その地面が蠢き始めた。
巨大な蛇の這いずりに似た動きで、リームスの足場がぐわりと高度を上げる。
(一度防ごうが、何度でも潰す……、……!)
視線を上向けた矢先、周囲に湧いた“土人形”がシルヴィ様に標的を変えるのを見て、咄嗟に照準を変更する。
しかし、一塊のそれを圧し潰した瞬間には既に他の“土人形”が現れており、驚くべき速度で地面が修復されていく。
(シルヴィ様を狙うことで私の“手”を塞ぐ作戦か……チッ)
リームスへの攻撃とシルヴィ様の守護――元来であれば両立できたそれは、しかし、この瘴気の蔓延する遺跡の中で私自身にも空間魔術を適応しなければならない制約から、ほぼほぼ不可能に近かった。
一つの魔術を制御しながら、同時に二つの魔術を行使できる魔術師など、私が知る限りでは一人しかいない。
もしや、最初からこの条件を待って、こいつはここで待ち伏せしていたというのか。
無数に湧き上がる“土人形”を退け続けている間も、男は壁面に沿って空間内を移動する。
「病の床に伏すギリウスは女神に祈りを捧げた。すると、女神――マナヴェリアは彼に魔術を与えた」
睥睨する男の片手が、青白い光を帯びた。
それは魔術発動の合図――
「〈反転〉!」
刹那の詠唱とともに、この最下層一帯に向けて上位の空間魔術を展開する。
男が発動しようとしている魔術が如何なるものであろうと、その一手を潰すために――周囲の重力を“逆転”させた。
「――――」
次の瞬間、天井に向かって落ちていく“土人形”の群れ。
〈破邪の護符〉によって魔術を受けないシルヴィ様を除いて、土塊とリームスだけが空へと跳ね上がっていく――はずが、
「……ッ、なに……」
――地面と足を接合させて、依然、男は余裕を含ませた嗤いとともに最下層を周回していた。
それどころか、新たに湧き出した“土人形”さえも地面と肢体を繋げた状態で、シルヴィ様へと群がっていく。
泥を這いずり、地の底から溢れた亡者のごとく、夥しい数のそれが中心に向かって殺到し――
(魔力の回復が間に合わない――)
私は反射的に踏み出して、自身に強化魔術を唱える。
続けて、シルヴィ様が眠る端末へと身を乗り出した影に、勢いを乗せた一蹴を食らわせる。
「フッ!」
魔力の充填を早めるために近接戦闘へ切り替えて、近付く“土人形”を片っ端から潰していく。
その間も――
「魔術によって死を免れたギリウスはやがて魔術装置を軍事転用し、錬金術の国の名を冠して、大陸一の王となった……さて」
杖を突く初老の男が、ひたと動きを止める。
地面を、壁を、天井を――全ての空間から“土人形”が溢れ出して、それら全てが中央へ奔走する地獄のような光景の最中、不意に、リームスが両手を重ねた。
青白い輝きが、リームスの背後の壁を照らし出す。
男の語り口とともに、壁面を紋様がひた走った。
「昔話に付き合わせてしまって申し訳ない。これから起動する魔術は面倒な仕組みでね、少しばかり時間を要してしまった。だが、お陰さまで――お披露目できるよ」
そう言い終えた瞬間、男の背後の壁から――巨大な三つの『掌』が虚空を突き破った。
「!!」
異様なその光景と同時、周囲を埋め尽くさんとしていた“土人形”が唐突に形崩れ、反転した重力に従って次々と空へ落ちていった。
私はすぐさまシルヴィ様の元に駆け寄り、無事を確かめつつ、巨大な『掌』を背にする男を振り向く。
「貴様――」
目にした途端、それがただの物質操作によって練成された『掌』ではないことが理解できた。
何らかの術式補助――巨大な魔術を編み、発動する際に魔力の増幅を可能とする、魔術装置にも似た何か。
詳しい仕組みは分からない。おおよその推測でしかないが、それがもたらす結果が強大で――今すぐにでも破壊しなければ、大陸すらも甚大な被害を及ぼす〈禁忌〉であることが何より分かった。
故に、
「〈消え失せよ〉――」
発動に掛かる数秒間と引換に、確実に対象を討ち取るための手段を選択する。
眼前に塞がる全ての障害が消え去った空間を形象し、そう在るべきとして、万象の理を捻じ曲げる。
三つの『掌』と、それを背にするリームスをまとめて、空間魔術の極致によって葬り去る――そして、
「…………な」
思わず、言葉を無くした。
――空間魔術による手応えが、ない。
(実体はそこにあるのに、座標が……違う?)
悠然とこちらを見下ろすリームスがくつくつと嗤う。
男の姿はたしかにそこにあった。〈魔術逸らし〉ではない、“土人形”による義体でもなければ幻像でもない。
さっきまで感じていた痕跡や、空気の乱れだけが消えている。
まるで、この瞬間、同じ空間には存在していないように。
「驚いたかね? そろそろ察してくれたことだろう、この戦いは最初から……君を標的に仕組まれていたことを」
男の背後で開かれた三つの『掌』が、青白い文字群を浮かばせる。
その光景が、何らかの魔術を発動させていることをまざまざと示していた。
脳裏を過ぎる仮説。
(まさか……この一瞬で、仮想空間を作り出したのか?)
あの時、たしかに範囲の中に男は存在した。だというのに、魔術は失敗に終わった。
それは空間魔術によって最も重要な“座標”の指定が、機能しなかったということに他ならない。
重なる空間、交わらぬ層。魔術理論の端に存在する、異端の概念。もしも、リームスがほんの僅かに異なる空間階層に身を置いたのだとすれば――
「リームス、貴様――」
同じ空間を操る魔術であって、しかし、どの系統にも属さない魔術。
思いつく可能性は、ただ一つ。
――支配領域の魔術。
「彼の者は不老不死を目指し、結果としてエンピレオの滅亡をもたらしたが――今宵、その栄華は復活を遂げる」
背後にある三つの『掌』が印を作り、その中心に立つ男の諸手が同じ動きを辿る。
視界を、空間を、世界を、異質な振動が包み込む。
次には全てが、歪曲を始めた。
「私の最奥魔術をご覧あれ――〈錬金王の領域〉」
リームスの詠唱が紡がれた、その瞬間、
「――、ッ!!」
突如として空気に重みが加わり、淀みを吸うような息苦しさがこの場を支配した。
いや、この場だけではない。発動した魔術が空間全体を――この遺跡全体を術式に取り込もうと働いているのが、肌身の感覚として理解できた。
――理解できてしまった。
「がっ……!」
リームスの魔術が発動したと同時に、空間魔術で遠ざけていたはずの“瘴気”が肺に到達し――結晶化する痛みが胸部を襲った。
肺の組織が侵食されて、息を吸う度に胸を握りつぶされるような苦痛が苛む。
(私の空間魔術が、上書きされた……?)
くの字に折れそうになる上体を堪えて、頭上に立つ男を振り向く。
しかし、
「――ごはっ」
突然、足元から“柱”のようなものが跳び出し、私の腹を勢いよく打ち付けた。
砲弾めいた威力が全身を砕き、そのまま宙へと投げ飛ばされる。
「ふっふっ、まだまだ行くぞ、歯を食い縛りたまえ」
翻る視界の中で、ほくそ笑むリームスの顔がこちらを見た。
地面に落下する直前、新たな“柱”が屹立して、今度は私の背中を激突する。
反り返り、内側を鳴る粉砕の響きとともに、私の身体が前方へ吹き飛ぶ。
(っ――まず、いっ――)
あまりにも易々と全身の骨を砕かれる感覚に、脳が全力で警鐘を鳴らす。
滞空しながらも即座に治療魔術を唱えて、砕けた骨を瞬間的に再生、地面を転がってすぐに立ち上がり、空間魔術を唱える。
「――〈隔絶の円〉――――、ッ」
「無意味だよ、ほら次だ」
詠唱が呼び起こす魔術の兆しが現れず、唖然と立ち尽くす私の横腹を――またしても“柱”が殴打する。
「く、ふッ……!」
「仕組みを知りたいかね。実に簡単な話だ。先ほどの魔術――〈錬金王の領域〉は、この遺跡全体を私の“領域”とする魔術だ。あらゆる物質を無尽蔵に生成し、魔力なしにこれを操ることができる。ただそれだけのものだが……」
高々と上がる足場の上で、余裕に満ちたリームスの声が真下へと落ちていく。
その間も、私を乱打する“柱”の攻撃は止むことなく、全方位から突き上がるそれが肉体を幾度も打ちのめしていく。
強化魔術を発動していなければ、とっくに肉塊に成り果てているであろう威力の蹂躙を、しかし、避けることもままならずに一身に受け止め続ける。
肉を、骨を、神経を、全身のありとあらゆる箇所が、内側へと歪に潰されていった。
「ぐ――ぁ――っ」
人間が曲げ折られていく様を、それを見るリームスが愉しげに嗤う。
「こうして、君の周囲を覆っていた無敵の空間魔術を剥がせることもできる。……さて、どうかね? 痛みというものがどんな感覚だったか、数年ぶりに思い出せたかな」
真っ赤に染まる視界の中で、なおも終わることのない“柱”の滅多打ちに、否応なく意識が遠ざかろうとしていく。
腕も足も、首さえも、その場に崩れてしまいそうになり――ふと、横合いで眠る少女の顔を見て、
(――――、ッ!!)
遠ざかろうとしていた意識の脆さを、崩れようとしていた肉体の軟さを、力尽くでねじ伏せて、口を開く。
次には、喉から湧き上がる血を吐き散らして、突き出す“柱”をすんででかわし、
「ぐ――〈圧縮〉!!」
周囲に乱立するそれらを一斉に地面へと圧し潰す。
続けて、足場を貫通するようにして防御結界を構築、破壊された骨と内蔵の損傷を治療魔術で応急処置する。
「……ほう」
感心するようなリームスの声に、私は溜まっていた血液を吐き出しながら応える。
「っ…………は、随分と、長ったらしい能書きで……欠伸が出るところ、だった。ちょうど良い……眠気覚ましだ」
「君の弟弟子が言いそうな台詞だな。だが、状況を理解した方がいい」
そう言って男が杖を鳴らす。
すると、背後に突き出た三つの『掌』が明滅し、独りでに魔術を発動する。
それは魔術において通念である詠唱を介さない、あまりにも速やかで滞りない無詠唱。
(あれも、厄介だな)
数秒も経たずに、私の周囲に湧き出た“土人形”の群れ。
先ほどまでリームス自身も無詠唱にてこれらを生成していたが、おそらく、今度の物質操作は魔力なしの無制限発動だ。
それを可能としているのが、支配領域の魔術――あの三つの『掌』もその一部なのだろう。
とはいえ……
(支配権を持つリームス・ダルモンに致命傷を与えれば……領域は維持できないはずだ)
肉体の損傷を急速的に治療しながら、防御結界の内側で状況を分析する。
空間魔術の通じるものと、通じないもの。その明確な差は――
(境界を形作る魔術と、座標を指定する魔術の二種が無効化されている、のか……、……っ!)
「ぐぅッ……!」
不意に、治療魔術の反発が肉体の数箇所で発生し、猛烈な痛みが沸き起こる。
「おや、“瘴気”が内側を蝕み始めたか。ふっふっ……胸が躍るな、リディヴィーヌの弟子よ」
苦痛から姿勢を崩す私を見ながら、一切の警戒を持たない表情でこちらを見下ろすリームス。
次には両手を広げて、まるで演説するように声を大にした。
「宣言しよう。君は今から私に甚振り殺されて、錬金術の素材となる。術式の一部となって融合し、その後で、そこの王女も同じく素材にするとしよう。……安心したまえ、二人仲良く同じ場所に組み込み、永劫に稼動させると約束する。どうだね、嬉しいかい?」
「まずは……ッ、お前が材料になれ、狂人が」
「まったく、君たちは本当に似たもの同士だね。――ほれ」
リームスが手を叩くと、湧き出た“土人形”たちが一斉に動き、中心へと走り出す。
勢い付けた拳が防御結界を殴打し、十、二十、三十……と叩く拳の数が増えていく。
強固な結界を揺るがす雪崩れのごとき暴虐に、一部の表面が、ピキリ、とひびを走らせる。
「この国を我が主に献上するために十五年の歳月を費やしたのだ。我々の計画にとって最大の障害である君には、早々に退出して貰いたいのだよ。アリギエイヌスを君主と崇めて、信奉者だけが臣民となることを許される――“永遠の国”を完成させるためにね」
己の目的を語る男の下で、亡者のような様相の“土人形”がなおも拳を振り上げ続ける。
波状攻撃を受ける防御結界が、次の瞬間、目に見えて分かるほどに大きなひびを入れた。
(……こいつらを潰したところで、疲弊するのは私の方だ。狙うならば、リームス・ダルモンしかいない)
今にも崩れそうな結界の内側で、私は……十分とは言えない治癒に身体を立ち上がらせる。
そして、上空を見上げると、
「――ハッ!」
防御結界を解除すると同時――自身に強化魔術を重ねて発動し、刹那の速度で跳躍する。
「――――」
極端な強化に悲鳴を上げる肉体を制御して、即座にリームスの背後へと回り込む。
地上ならば物質操作の魔術による防御が可能だったかも知れないが、高い足場で見物を決め込んでいる状況ではそうもいかないはずだ。
リームスが気付き、こちらを振り向くよりも先に――その側頭部を目掛けて、加速した回し蹴りを打ち込み――しかし、
「――!? ごふッ――」
出し抜けに、横ざまに振り払われた巨大な『掌』が私の全身を叩き落とした。
あまりの衝撃に受身を取ることさえできず、地面を背中から猛烈に激突する。
「がはっ……!」
「ふっふっ、これには自動で蝿を落とす機能もあってね。私の最奥魔術だ――いかがかな?」
リームスの背後の壁から突き出した三つの『掌』が、挑発するように五指を躍らせる。
朦朧とする意識の中で、私はそれを見上げながら…………少し離れた場所で眠るシルヴィ様を振り向く。
…………
「ん? ……おや、もう限界なのか。これは驚きだな、現魔術師界において最強と謳われる空間魔術の使い手が、こんなにも呆気なく果てるとは」
地に倒れたまま、反応しない私を見下ろすリームスの言葉に隠し切れぬ喜悦が浮かぶ。
実際、私の身体は今の攻撃でほぼ限界を迎えていた。治療魔術ではすぐに塞ぎ切れない負傷が、確実に積み重なっていた。
このまま戦うことは、ほぼ不可能だった。
「では――引導を渡すとしよう。君は実に優秀な魔術師だったよ、メリザンシヤ。君の血肉と〈銀の欠片〉、ありがたく頂戴する」
杖が足場を鳴らして、それを合図に“土人形”がぞろぞろと私の周囲を迫る。
両腕と両足を絡み取られて、メキメキ、と四方に引っ張る力が加わった。
もはや痛覚の伝達すら無視して、私は身を任せるように目を閉ざした。
無論、諦めてなどはいない。
巡る思考は、ただ一点。
(……“命はいつか朽ち果てるが、言葉は永遠である”、か――ならば朽ちる前に、実行しなければならない、な)
胸元に吊るしていた一本の鍵を意識して、私はある魔術を唱えようと口を開く。
「…………――は」
リームスが唱えた最奥魔術が、支配領域の魔術であるならば――私はその上を行く。
『本当に護りたいものを見つけたときは、〈神聖なる霊森〉という場所へ向かいなさい』
母の教え通りにそこへ向かい、私が見つけ出した――最奥魔術。
この身を使い潰した先の、魔術という概念が持つ真理を唱えようと、喉を震わす――寸前。
遠くから響いた爆発音が、地下空間を大きく揺るがした。
そして。
「――――〈遅延の檻〉」
「っ――」
「…………おや、これは」
聞き慣れた詠唱が、地下の淀んだ空気を渡る。
尾を引く青白の光が空間を包み込んだ、次の瞬間――“土人形”たちの動きが一斉に、止まって見えるほどの緩慢な速度に変化した。
続けて、こちらに向かって歩く何者かの足音。
それが誰なのか、確認するまでもなかった。
「――どうやら、オレの助けがいるみたいだな、メリザンシヤ」
不遜な声が、土塊の間を縫って、私へと投げ掛けられる。
どこまでも陰険な性格と、誰よりも強い生の渇望を滾らせた青年。
「…………はっ」
弟弟子であり、遅延特化の魔術師である――ベルトラン・ハスクがそこに立っていた。




