11:暗殺者との交渉
目の前に立つその男――バンジャミン・ディオメッドには気配というものがなかった。
どんな人間であれ、呼吸や些細な動き、立ち方一つにすら気配は存在するというのに……こいつからはそれが微塵も感じ取れなかった。
先ほどの不意打ちを避けられたのはひとえに幸運だったと言える。
隣で気絶している侵入者の女とは比較にならない強さ、経験、そして、戦闘における才覚。
本能が告げていた。
こいつは相当、ヤバイと。
「安心してよ、戦う気なんてないんだ」
艶やかな灰色の髪が片目を隠すように揺れて、端正な……いや、優美といって差し支えないほどの美貌がこちらを向いた。
類稀なる美丈夫を自負するオレですら認めざるを得ない、噂に違わぬ優れた容姿。
――冒険者組合の最優先追討対象の賞金首にして、付いた二つ名は“首斬り公子”。
「不意打ちで刃物を投げてきた奴が言うと説得力があるな」
オレはそう言いながら、半歩だけ後ろに下がる。
「貴方を相手に不意打ちが通じるとは思ってないさ。さっきのはただの挨拶だよ、分からない?」
「ああ、全く分からん。オレはオレの口から出た冗談しか笑えない主義なんでね」
目の前の男、いや青年に悟られぬように、感覚だけで周囲を確認する。
……おそらく、こいつ以外に追加の暗殺者はいない。単独でやってきた侵入者の女と同じく、こいつもまた一人のはずだ。
口振りから察するに、相手はオレを知っている様子だが、いったいどこまで手の内を把握されているか。
「…………」
「そう警戒しないで、俺が来た目的は暗殺じゃないんだ」
青年は涼しげな表情で、壁に背を預けたまま言葉を続ける。
片手に握る大振りの肉切り包丁――手斧に似た長方形の刃を持つ――をクルクルと手の平で弄びながら、目だけは微動もせずにこちらを見据えていた。
「お前に賞金が掛かってなくて、且つ髪がこいつと同じ灰色じゃなきゃ信じてたかもな」
「いやいや、貴方も知ってるだろう? 表向きとはいえ、俺がディオメッド家を追放された身だってこと」
「…………?」
知らない話だった。この青年に関しては、有名な暗殺者であるということ以外の情報をオレは持っていない。
とはいえ、面倒なので話を合わせることにした。
「それとこれとで何の関係があるんだ?」
「ディオメッド家は白幻の国の中でも特に長い歴史を持つ家系だ。一族代々、王に仕える暗殺者を輩出し……まあ詳細は省くとして、今の俺は王の命による指揮下から外れた、別の役割で動いてるんだ。つまり、これは暗殺任務じゃないってわけ」
青年は依然、身構える動作もなく、飄々とした態度でそう語った。
いきなり現れた乱入者というには、あまりにも風景に馴染み過ぎていて――ともすれば、存在を視認できなくなるほどに希薄な気配。
魔術を使えばどうとでもなるなど、そんな余裕を持てる相手ではないと本能が警鐘を鳴らす。
「俺がもしも暗殺の任務で来ていたなら徹底的にやるよ。それこそ、この館にいる人間の首を全部、斬り落とすくらいはね」
「説明どうも」
相手の表情から察するに、冗談の類ではないらしい。
肉切り包丁と戯れるような曲芸まがいの手遊びをしつつ、バンジャミンが首を傾げる。
(このご時世、中々お目に掛かれない……根っからの殺人鬼か)
どういった経緯で“首斬り公子”のあだ名が付いたのか、想像に難くない。
このイカれた奴が厄介な動きを見せる前に、遅延魔術で全身を遅延状態にしておくべきだろう。とはいえ、相手が〈魔術逸らし〉の護符を持っていた場合も想定しなければならない。
なるべく、魔力の消費量が多い魔術を――
「おっと、身振りで誤魔化せても貴方の目は嘘を付けていないよ。――魔術を使う気だろ?」
「……さて、どうかな」
「困るんだよね、俺も無駄に命を削るのは勘弁だからさ」
しらばっくれるオレに対して、青年はやれやれと言わんばかりに首を振りながら――肉切り包丁を持たないもう片方の手を前に突き出す。
次に、握った手のひらがゆるりと開かれると、その内側から流れ落ちたのは――侵入者が見せたものと同じ、魔封具が嵌められた首飾りだった。
「加速の魔封具って言うの? これ凄いね。寿命を対価に、人の身で為し得ない高速移動ができる……まさしく必殺の切り札って奴だ」
「…………はあ、どいつもこいつも」
「使わないから安心しなよ。たとえ使ったとしても、俺が貴方に勝てるとは思ってないし。というわけで――」
青年は笑いながら、回していた肉切り包丁をパッと止めると、ある一点に刃の先端を差し向ける。
その先にいたのは、地面に倒れている侵入者の女だった。
「交渉といこう。そいつの首をこっちに渡してくれない?」
「口封じか」
「そうかもね」
眉を顰めるオレに、あっけらかんと話すバンジャミン。
だが――
「それは妙だな、こいつを殺すだけならお前がオレの前に姿を現す必要がない。暗殺者なら好きな時に殺せたはずだ、合理的じゃない」
「“無音無跡”は苦手でね、これは俺なりの流儀だよ。失敗した自分の“影”をしっかりと自分で殺すっていう、決まりみたいなものさ」
(……影? 何のことだ?)
オレの疑問をよそに、バンジャミンは持っていた肉切り包丁を、腰にある鞘のようなものへと収めた。
あくまでも戦闘はしないという意思表示のつもりなのか、両手を肩の高さまで持ち上げながら青年は話を続ける。
「俺が持ってる情報を一つだけ教えるよ。貴方にとって有益な情報と引換に彼女を渡す、というのはどうかな」
「どうしてこいつの命にそこまでこだわるのか、甚だ疑問だが……一応、聞いてやる。どんな情報だ?」
そう尋ねると、バンジャミンは――待ってましたと言わんばかりに口元を綻ばせる。
そして、短く言った。
「――信奉者の目的さ」
「――――」
予想していなかった方向からの情報に、オレはすぐさま反応できずにいた。
なぜ、こいつがそれを知っているのか――問おうとして、先に青年が言葉を発した。
「魔女アリギエイヌスを信奉し、魔女が死した今も小数の残党がその意志を継ごうと暗躍している。たとえば――フォルトゥナ率いる〈祈りし者〉、とかね」
「……〈祈りし者〉?」
たしか、あの時……センピオール蒼林で遭遇した信奉者の男も同じことを言っていた記憶がある。
あの時はただのうわ言かと気にも留めていなかったが、まさか信奉者たちの組織名だったというのか。
しかし……
(フォルトゥナの名を知っている? こいつ……でまかせじゃないのか)
リディヴィーヌの三番弟子であるフォルトゥナは、オレやメリザンシヤ、その他の弟子たちと違ってあまり表に出ることはなかった魔術師だ。
〈言葉の女神〉マナヴェリアを信仰する聖職者として、田舎町でひっそりと暮らしていたはずのその男の名を知っている者はあまり多くない。知っていたとしても、意識掌握の魔術による〈忘却〉を受けてやはり、その名を記憶から抹消されてしまう。
だからこそ、こいつは。
「…………」
オレが静かに次の言葉を待っていると、青年は笑みを浮かべながら話を再開する。
「彼らの目的は――ある“魔術装置”を起動することだ。そのために〈銀の欠片〉と呼ばれているものを五つ、集める必要があるらしいよ」
「聞いたことがないな」
「貴方の師匠に聞いてみるといい。〈銀の欠片〉の存在を知っているはずさ」
そう言って、手のひらを広げながら指を五本立てて見せると、数えるようにゆっくりとその一本を内側に折り曲げた。
「急いだ方がいいよ。すでに彼らは〈銀の欠片〉を一つ手に入れた。五つ集め終えたら何が起きるか――分からないからね」
バンジャミンは軽快な動きで壁から身を離すと、「どう?」ととでも言いたげに両手を広げた。
確かに、こいつが突然に渡してきた情報は、信奉者を追う側としては有益だったかもしれないが……
それを知っているこいつは一体、何者なのか。
「何が狙いだ? その情報が正しかったとして、なぜオレに明かす」
「一つ勘違いをしてるよ。これは本当に俺個人の問題なんだ。そこの彼女、クロードとはディオメッド家にいた頃のよしみでね……一つ約束をしていたんだ」
不意に、青年の整った相貌がふわりと笑みに崩れる。
「君が任務に失敗した時、俺が必ず殺してやるって、ね」
目を細めながら、嬉しそうな声音で打ち明けるバンジャミン。綺麗な顔立ちの青年が優雅に微笑んでいる――そんな風に受け取るには、あまりにも物騒で邪悪な発言だった。
「だからこそ、俺は彼女を確実に殺すために、貴方が空間魔術で彼女を隔離してしまう前に殺したい。どうかな、分かったかな?」
「ああ、よく分かった。お前の頭がどうかしているってことが、な」
「あらら、手厳しい」
バンジャミンは肩を竦めて、再度、困ったように首を振る。
そして、次にはスッと片手が差し伸ばされていた。
「さて、情報は渡したし、今度はそこの彼女をこっちに渡してくれないか? 貴方にとっては、そいつの首には何の価値もないだろう?」
「……そうだな」
オレの近くで、床に倒れたままの侵入者の女を見やる。
白幻の国の暗殺者であるということが判明したこいつを生かしたまま捕らえない選択は、ルドヴィックや岩壁の国側にとって大きな不利益になるだろう。
他国の明確な敵対行為である証拠に他ならない存在を見す見す引き渡すなど、愚にも付かない交渉だ。
だが、オレには何の問題もない。
当事者でもなければ、ただの護衛として雇われただけの魔術師だ。
こいつと争うことの面倒さと天秤に掛ければ、選ぶべき行動は一つだろう。
オレはため息を一つ吐いて、
「――――〈氷の槍〉」
「――!!」
魔術を唱えることにした。
バンジャミンの斜め後ろに忍ばせていた魔術の“水源”から、鋭く尖った氷の柱が飛び出す。
それが青年の胴体を刺し貫く寸前、
「……ッ!」
その場で身を捻り、地面スレスレに伏せる姿勢で――不意打ちを回避された。
だが、それで終わるつもりもない。
「悪いな、『人の罪による審判は公正であるべきだ』ってどこかの誰かが言ってたものでね――」
続けざまに氷の魔術を唱えて、バンジャミンの足元を瞬間的に凍らせる。
「それはっ、全く公正じゃない、……ね!」
接地する足が凍りつくよりも先に、壁に向かって飛び上がると、今度は壁を蹴り出して別の方向へと跳躍するバンジャミン。
その方向を目で追って――
「ユーゴ!!」
「――おらよ!!」
オレの呼ぶ声に応えて、隣の部屋から猛烈な勢いで飛び出してきたのは、傭兵の大男だ。
空中にいる青年を狙い澄ます一撃が、ユーゴの手に握られた大剣から繰り出される。
風を裂く轟音が、廊下の薄闇に鳴った。
しかし、
「――っと」
「なっ――!!」
大剣が捉えていたはずの青年の半身が――なんと、滞空中に体勢を変えるという曲芸さながらの動きによって、またもや攻撃を避けたのだ。
そのまま回転して着地すると、バンジャミンは腰に帯びた肉切り包丁を取り出さずに、素早く腕を引く動作を見せた。
そして、ニヤリと笑う。
「交渉決裂も想定済みさ」
バンジャミンのその手の動きに対して、オレは直感的に遅延魔術を唱える。
「〈遅延の泡〉!」
背後に展開した球体の膜が、オレを目掛けて戻ってきた“何か”を受け止める。
咄嗟に振り返ると、やはり、そこには――数分前に壁を突き刺さっていたはずの“肉切り包丁”が浮かんでいた。
(やっぱりか)
目を凝らせば、細い鋼糸が青年と包丁との間に伸びているのが見えた。
「あらら、本当に勘が鋭い……ぉっと!」
軽口を叩きながらも、ユーゴによる容赦のない大振りの追撃をギリギリで潜り抜けるバンジャミン。
あろうことか、壁を走って移動するという異次元の動きまでやってのけながら、バンジャミンはふわりと跳ねて廊下の奥へ向かった。
その飛んだ背中に、遅延魔術を放つ。
「〈遅延〉――!」
「――起動!」
刹那、ほぼ同時にそれらを叫んで――その両効果が発現されることはなかった。
オレが遅延魔術を唱えて、バンジャミンが加速魔術の魔封具を発動するという、相殺の駆け引きが成立したのだろう。
身を翻して着地したバンジャミンが、オレたちを振り返りながら笑みを浮かべた。
「てっきり無人の館かと思ってたんだけど、人いたんだね」
大男――ユーゴを指差して、青年が言った。
「……状況が全然分からんが、どうやら今はこいつと戦う必要があるみたいだな」
「理解が早くて助かる」
ユーゴは動じた様子もなく、冷静に大剣を身構える。
(こいつだけ遅延魔術を解いておいて正解だったな)
オレは先ほどの連係を思い返して、自分の選択を評価した。
――現在、領主の館に人気がないのは、オレが遅延魔術を掛けて回ったからだった。
守衛たちの身を案じて……というのは名目で、実際はオレの行動の邪魔にならないように、というのが本意だが。
無論、ユーゴもその対象の中に入っていたが、バンジャミンとの会話の最中に遅延魔術を解除しておいたのだ。
そうして、ルドヴィックの隣の部屋でたまたま待機していた用心棒の、先ほどの不意打ちに繋がる。
「…………」
オレとユーゴがジッと動かずに身構えていると、バンジャミンはしばし、こちらを見据えながら……やがて、首を振った。
「二対一はさすがに無理だな、ここは大人しく撤退するとしよう。――目的は達成したし」
「……!!」
その言葉を聞いて、オレは愕然と振り向く。
視線の先には、変わらず侵入者の女が倒れていた。
しかし、その腹部には……いつの間にか、短剣らしき武器が深々と突き刺されていたのだ。
「じゃあね、また会おう、お二人さん」
「チッ、逃がすものか!」
地面を蹴り上げて反転するバンジャミンを、ユーゴが力強い走りとともに猛追する。
青年はそんな相手の動きを読んでいたかのように次々と小剣を投擲して、ユーゴの接近を妨害した。
どこに隠していたのか、投げられた小剣は一つ二つに留まらず、正確な狙いで大男の急所へ殺到する。
「ほらほら、おいでよ」
「クソ、小賢しい……!」
飛んできたそれらを大剣で薙ぎ払い、また、盾の要領で刀身に身を隠すユーゴ。
オレも援護せんと魔術を詠唱しようとして――ふと、床に払い落とされた小剣の群れに意識を向ける。
見覚えのある輝きを放つ小剣に気が付き、オレは思わず叫んだ。
「ユーゴ、そこを離れろ!」
視界の隅で、口端を吊り上げて嗤う青年の顔を見ながら、即座に魔術を唱える。
爆破魔術による“爆弾”――侵入者の女と同じ手段、あれの何倍もの量の爆発物がそこには完成していた。
目を剥くユーゴがオレの叫びに応じて、後ろに跳ぶ。
「〈防御結界〉――!!」
詠唱に従って結界が展開した場所は、オレたちがいる空間ではなく、小剣が落ちている空間。
被害を最小限に抑えるために、何重にも層を重ねて結界を張り続ける。
遅延魔術でこれらを制御するという選択肢はなかった。加速の魔封具による相殺の可能性があったからだ。
(とことんイカれた野郎だな……!)
残された数秒が過ぎ、やがて、内側の空間を眩い閃光が満ち――
一瞬の静寂の後、館全体を揺るがすほどの衝撃と大音声が結界の内部を暴れ狂った。
「!! ぐっ……!!」
漏れ出す爆風に身をさらわれそうになりながら、オレたちは何とかその場に立って耐え忍ぶ。
大量の煙が止め処なく溢れて視界を覆い、今、廊下の状況がどうなっているのかを確認することも難しかった。
「――無事か!」
「ああ、ごほっごほっ、何とかな……!」
近くから聞こえてきた声の調子から察するに、とりあえず怪我は無さそうだ。
多重展開した結界が功を奏して、爆破による館の崩落は免れたようだが、未だ収まらない塵煙があの青年の行方をかき消していた。
だが……
「――〈廻る風〉」
風の魔術を操作して、溢れていた煙の行方を割れた窓の外へと逃がす。
念のために“水源”を結界のあった場所に移動させて、火が上がらないように対策をしておく。
次第に煙の幕が薄まって、数秒後、見通しのよくなった廊下の一角は……惨状と言っても過言ではない様相を呈していた。
そして、案の定、
「…………はあ、素晴らしい逃げ足だな」
あの青年がいた場所まで歩き、周辺の痕跡を観察する。
どうやら、爆破の魔封具を起動する前の憎たらしい笑みを最後に、バンジャミンは窓から悠々と飛び降りて離脱したようだ。
三階、いや庶民の家の規模で測れば五階相当の高さであったとしても、暗殺者は総じて、安全に降り立つ手段を持っているのだろうか。
「…………」
オレは振り返り、地面に倒れたままの侵入者の女を見る。
一応、爆破に巻き込まれないようにと咄嗟に遅延魔術を掛けたが……やはり、色々と手遅れかもしれない。
「――おい、ベルトラン! ルドヴィックは無事なのか!」
煙が晴れてからすぐに駆け出したユーゴが、ルドヴィックの部屋から戻ってくるなり焦った表情でオレに詰め寄る。
倒れた侵入者の女、壁と天井に夜の景色を映す廊下、そして、雇い主の不在に慌てる用心棒。
オレはもう一度ため息を吐いて、
「まあ、何とかな」
と、短く答えた。




